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私の番組評
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1007: 02/09 09:06
 柳川 銭紋  20

 西郷が新政府から離脱するきっかけとなった「明治6年の政変」と呼ばれているもの
は、これは先に取り上げられる様に、言わば「韓国の嘘つき性格(くせ)」による物だ
が属国の妬み根性であった。この時の、李朝と明治新政府との外交上の問題(トラブル)
も又同じである。すなわち、新政府が李朝に対して、徳川幕府に代わって成立した政権
との間で外交関係を結ぶことを要請した書簡を送ったのですが、李朝はこれを拒否した
のです。これだけとっても新政府からすれば、いわば「面子を潰された形」となってい
るのですが、事はそれだけでは収まらなかったのです。つまり、それ以降も、日本側は
数回に渡って書簡を送り続けたのですが、結果は同じで、最後には対馬領事館に、日本
を罵倒した張り紙が返ってきた形になったのだ。言わば靖国神社の落書きの様な話であ
る。しかしこの時、山県有朋などの汚職問題が明るみとなって、江藤新平と司法省が、
これを厳しく追及していたため長州閥は追い込まれていたのだ。伊藤博文は汚職問題を
かわすべく、大久保を政府に復帰させて、西郷の朝鮮使節派遣案に反対させ、二人を対
立させその汚職を消そうと工作した。一方で西郷に協力して留守政府勢力を見方に抱き
込む手紙を木戸孝允に送るなどの策略を行い、三条や岩倉に「西郷の本心は征韓を企ん
でいるかも知れない。」と匂わせて危機感を高め目をそらそうとした。伊藤博文による
この情報工作で、危機感を煽られた三条と岩倉は、大久保に政府復帰を再三再四に渡っ
て要請し、その説得は約三週間も続いたことで、大久保もようやくそれを承諾するに至
った。つまり長州閥の排斥を回避する一つの光がみえたのだった。こうして留守の間に
作られた司法が歪められる危機に瀕した。大久保は、西郷による朝鮮使節派遣案につい
て、仮に交渉が失敗に帰すれば「戦争の危険性があること」と、今の日本は「内政充実
が優先である」という考えの反対意見を放っていたが、一方でかつての盟友である西郷
と対立はしたくないので、「三条・岩倉の意思を閣議で伝えるだけに徹する。」という
条件で、政府復帰を引き受けた。この経緯の末、明治6年10月14日-15日に閣議が開かれ
出席者は、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議として西郷隆盛、板垣退助、
江藤新平、後藤象二郎、大木喬任、大隈重信そして大久保利通、副島種臣で行われた。
閣議では、大久保が岩倉らとの手はず通り「征韓より今は内事が重大であるから延期せ
よ」などとして意見を述べ、西郷の使節派遣案は征韓であるから反対である、と意見を
述べた。これに対して、西郷は「自案は征韓などではなく、あくまで交渉で平和的解決
を図る案である」と述べ、「朝鮮事件ニ付西郷隆盛建白」という自らの案を書面にして
三条に事前に提出していた。こうして閣議は大久保と西郷の二人の激論となり、両者譲
らず紛糾した。一方、他の参議達は「一度閣議で決定した議案(西郷案)は実行すべき」
として西郷案を支持し、三条や岩倉も大久保に反対するよう事前に頼んでおきながら、
情勢不利とみて西郷案に賛成してしまう始末だった。結局、大久保に同意する者はなく
、西郷の朝鮮使節派遣案は再び可決されたのでした。
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