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私の番組評
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1008: 02/09 09:06
 柳川 銭紋  21

 しかし、この事の顛末には大久保には認められないものだった。裏切られた形になっ
た大久保は謀られた事に激怒し、10月17日に辞表を三条に提出した。この大久保の怒り
に驚いたのは殆どの物だった。岩倉は三条に罪を擦り付けるあり様で、自らも、辞意を
表明したうえで、自宅に籠ってしまった。他方の三条も寝込んでしまい、執務不能にな
ってしまう、というまさに政府の内情は「混乱状態」に陥ったのである。そして、顛末
としては、伊藤博文が大久保に接近し、岩倉を太政大臣にして西郷案を天皇が裁可しな
いように働きかけることを持ちかけた。だが、元々大久保は反対ではあるが西郷とは、
旧知の仲でありこの状況を危惧していたのにこうなってしまったのだ。これには取り合
う筈はなかった。ものの、伊藤は独自に岩倉を訪ね前後策を協議し、薩摩閥の黒田清隆
を自宅に呼んだうえで、天皇侍従・吉井友実に天皇の三条邸・岩倉邸の行幸を働きかけ、
岩倉の太政大臣就任を天皇に命じさせる策を授けた。これによって、岩倉は太政大臣に
就任し、西郷の朝鮮使節派遣は最終的に「白紙」と化すことに成功させた。ということ
に歴史は動いた。こうして西郷にとっては「最悪の事態に帰結」したことを受けて、こ
の政府に西郷は深い失望と怒りに燃えたと言われる。自ら中央政界から去り、また板垣
や江藤など多数の参議も下野することになった。こうして薩摩閥をほぼ席上から外して
汚職の長州閥がはびこる結果、頂上にいた三条実は排斥され、ますます飾り物としての
地位になった中で岩倉具視の太政大臣となり、憲法制定と国会開設に向けて進んでいっ
た。困ったのは司法省の江藤新平である。伊藤は佐賀の7賢人の一人とされる。早くか
ら開国の志士となり、脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎などと接触していた。
後に藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務め、徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅し
たのを機に蟄居が許され再度京都に上った。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で
江戸開城が決定するや、江藤は城内の文書類を接収した。さらに京都へ戻り、大木喬任
と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言している。
大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い彰義隊勢を寛永寺周辺
に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊
を瓦解させていた。近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催し
て箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組み江藤は「フランス民法と書いてあるのを、
日本民法と書き直せばよい。」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」というほどフランスの
民法制度を高く評価し、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低く
なるのを戒めていたほどだった。この政変では、当然西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎
・副島種臣と共に10月24日に下野。明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成して、
1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意している。

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