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私の番組評
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 柳川 銭紋  22

 政府樹立で、江藤新平は、明治3年(1870年)佐賀に帰郷し着座(準家老)に就任し
て藩政改革を行うが、わざわざ中央の明治新政府にに呼び戻されていた、同年11月に、
太政官中弁となる。12月に、虎ノ門では同じ佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷している
。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事して、大納言
・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出して、文部大輔、左院副議長、司法省が設置
されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任した。その間に学制
の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進し、特に司法制度の整備に
ついては、司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂などに、目を見張る功績を
残している。政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナ
シ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴
訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく、新政府では
大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件を調査し、井上
馨が関わったとされる尾去沢銅山事件などは激しく追及していた。この為、予算を巡る
対立も絡んで、2人を一時的に辞職に追い込んだ程の正義漢であった。こうした英仏を
範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して、一方では、旧態以前の行政権
=司法権、とする伝統的な考え方や政治的価値観を持った長州閥には受け入れられなか
った。又プロイセン王国(のちドイツ帝国)を範とする政府内の保守派からも又、激し
く非難された。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかずにいて、大蔵省
の井上馨との確執をも招いていた。そこで長州閥からの一掃作戦の標的になっていた。
留守政府が起こした改革内容は誰が見ても、明治で断行されその後の日本近代化の基礎
となったもののほとんどが含まれている。そして、それを実際に担ったのが、なんと西
郷や板垣退助あるいは江藤新平などだけであったわけです。しかし、こうした西郷など
が行った改革に対して、太政大臣・三条実美は岩倉らの海外使節団との間で交わされた
「止むを得ない改革以外はしない」という誓約に反するものである、と見なして警戒感
を抱いていた。そこに三条はこれに対抗するため、大久保利通などを早期に帰国させて
、政府に復帰させるよう、海外にいる岩倉に再三にわたって書簡を送っていた。と言わ
れている。つまり三条はそもそもが飾り物であったのだ。このため岩倉は大久保を先に
帰国させたが、山城屋事件は陸軍省御用商人の公金不正融資の投資事件であり、そもそ
も、井上を大蔵大輔に任命するなどという人事は、まるで盗人に財布を預けるようなも
のであって、新政府、特に長州閥の性格をよく表しているもので、尾去沢銅山事件など
は近代稀に見る強制接収の上借財させた悪行の極みであった。
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