[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

私の番組評
102/102頁 (1013件)
1010: 02/09 09:11
 柳川 銭紋  23

 江藤新平について板垣退助は「かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずし
て、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして、正なる点に在り。言を換ゆれば、
江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍を買うに至りし也。」といい、土方久元
は、「我、維新前後の人物とは知人多し。しかし就中自分が真に豪傑と思う者は、西郷
南州と江藤新平と二人しかおらぬ。」と言った程だ。勝海舟にしても「あれは驚いた。
才物だよ。しかし、ピリピリしておって、実に危ないよ。」という。渋沢栄一は「学が
あって、よく物を知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も著し
い例は、佐賀の乱で刑死した江藤新平である。実に惜しい男だった。」と言う。藩主の
鍋島閑叟は「彼は異日有用の器たり。之を斬に処せしむべからず。」と大事にし、副島
種臣は「江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。そこで初めは人
に重く見られなかった。その頭角を現したるは維新後である。自分は中野芳蔵から、初
めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる
卓越しておる。それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するように
なり、次第に引き立てられたのである。頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進
して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。
----江藤がかつて自分にいうたには、『私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつ
も三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い』と話したことがあ
る。それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう。」と惜しんだ
。つまり先輩とは副島種臣自身だったのだ。こうして西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允
・小松帯刀・前原一誠・岩倉具視・横井小楠たちと並んで「維新十傑」の一人にあげら
れる人物であり、後の総理大臣「大隈重信」や「副島種臣」「島義勇」「鍋島閑叟」「
大木喬任」「佐野常民」たちと並び「佐賀の七賢人」とも呼ばれる逸物だった事が解る
。新政府での江藤は、会計局判事から始まり、民政や財政などを担当した。特に司法制
度の整備に尽力し、司法卿として、裁判所の建設や民法の編纂を行っている。ただ急激
な改革に財政が追い付かず、当時の大蔵省にいた井上馨とは確執が生まれた。さらに、
井上の汚職を追及し辞職に追い込むなど、溝は相当深く他の長州閥の恨みをかった。が
同時に井上馨程新政府に相応しくない者も居なかった。英仏を手本に三権分立を唱えて
憲法の素案を進めていた。新政府内ではプロイセンにおける行政=司法の意見が根強く
、こうして無論、保守派からは煙たがり遠ざけられた。やがて新政府内では征韓論を巡
っての対立で、西郷隆盛や後藤象二郎、副島らと共に江藤は下野した。江藤が佐賀に戻
ろうとした時、それでは対立する大久保利通にとって彼を排除するいい口実になると、
同じ佐賀藩出身の大隈重信らに説得を受けたが、いう事は聞かなかった。許せなかった
のだ。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す