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私の番組評
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1013: 02/09 09:42
 柳川 銭紋  24

 昭和天皇の即位に、お祭り気分の中で一人覚めた論評してる者がいた。軍部が台頭す
る世の中になり盛り上がっていたが、経済界には、そんな傾向を覚めた目で冷静に見て
いる人物が福澤桃介だった。桃介は昭和3年(1928)に、落胆し実業界から引退をした
。その桃介は友人に対して、こう言ったという。「日本を滅ぼすものは、日本の陸軍だ
。満州事変という大きな成果をあげたぢゃないか、と君は云うだろう。あれは陸軍の打
ったバクチが当っただけだ。いつもそうはゆかない。今に日本が滅びるから見ていろ。
」「ヒトラーは今大変盛んなようだが、今にきっと衰亡する。ああいうような偉らい人
は、人のいうことをきかないから全く駄目だよ。」こうして口火を切った金融恐慌は3
月末には一応鎮静化しつつあったが、4月5日に、改めて神戸の大商社鈴木商店の破綻が
明らかとなり、また同社に巨額の融資をしていた台湾銀行が同月18日休業するに至っ
たのである。既に、鈴木商店では、第一次世界大戦が勃発した時、大戦の長期化と物不
足を予測し、一斉に買いの指令を出して大投機を仕掛け巨富を得て大企業となっていた
。大正6年(1917)に、当時の日本のGNPの1割に相当する売り上げを記録していて
、日本一の総合商社となっていた。その為、鈴木商店は傘下に約80もの事業会社を設立
した。その中にはサッポロビールなど、現在の大手企業も多数含まれていた。だがその
、鈴木商店には第一次世界大戦後の反動不況や関東大震災など事業環境の悪化もあって
、メインバンクであった台湾銀行からの借り入れが膨張していたのである。そして昭和
金融恐慌を機に、昭和2年(1927)に破綻した。この時の台湾銀行こそ、先の長州閥の
率いた陸軍の隠れた財布の役目をもっていた。それは、板垣退助が指名した後藤新平が
台湾総督として台湾建設が成功していたからであった。しかしその矢先に東京大震災が
起こっていたのである。実は此処に大きな銀行間の溝があった。旧幕府軍の徳川方は、
その多くは旧来からのグラバー資本の三井や三菱の横浜銀行や勧業銀行系列であったし
、九州はその事情からも多くはその狭間にいた。しかし日露戦争以降に、朝鮮経営にも
乗り出した経緯で目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎなかったが
第一銀行が外国の中央銀行業務を行う事になっていた。これを問題視して、韓国統監の
伊藤博文に相談。桂太郎ら日韓併合に積極的な山県閥、第一銀行を経営する渋沢栄一と
伊藤との調整の結果、併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および、
個人から資本金により設立された韓国銀行条例(韓国法:隆熙3年法律第22号)に基づく
中央銀行・韓国銀行が設立されて、第一銀行から中央銀行業務を移管した。韓国銀行は
併合後の1911年には朝鮮銀行法(日本法:明治44年3月29日法律第48号)に基づく特殊銀
行として朝鮮銀行と改称された。これに対抗し海外に出て行く渡航者を支援したのが、
横浜銀行であった。北海道や樺太への移民に貸付ハワイやブラジルの移民達まで貸した
。これは北海道の王子製紙の成功を受け、樺太や北海道で石油や石炭まで産出したから
だった。

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