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関西人のクズっぷりは異常
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 朝鮮人に 喝!  217

 朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息していった。司法的
決着がつけられたのは、逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち 3,789名が不起訴
により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。
1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち 有罪
判決を受けたのは 3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった
者はいない。3年以上の懲役は80名。きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソン
ビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年
6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3
年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)におい
て内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみ
の適用により、刑期も大幅に短縮された。高等法院で確定した刑期も、1920年(大正9
年)の大赦令によりさらに半減されている。こうした刑が甘かったのは暴動したのも、
殺人を犯したのも朝鮮人同志だったからだが、その甘さが後に大きく大日本帝国の自治
を左右した。運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、
閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行って
いたにも関わらず、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴
行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。これに関して、「暴徒化した理由は日本側
の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために
多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見などがあ
るがどちらも正確ではない。先に言った様に日本が治安を計るまでコリアンカースト制
で両班や地主は、農奴やその下の使用人は家畜以下の私有物であった。その使用人達が
街に出て成功したり、両班・地主が営農に失敗して乞食同様であったりした中にパルチ
ザンとしてソ連に雇われたでいたのだ。更にシベリアの大陸横断鉄道が終り、食うや食
わずのクーリー達が帰郷して次は中国に行こうかとしていた時だったのである。つまり
使用人の生死は当然領主や地主或いは貴族の両班だった封建主義の思考の残ったままで
日本の統治体制を敷いた中だったのだ。遥か明治維新の頃は、既に中国は東洋随一の船
を持ちアジア初の海軍を持っていたのだ。当然朝鮮も属国として幅を利かせていた時代
日本より進んでキリスト教を受け入れ、コリアンカースト制を高めていたのだ。それが
一挙にソ連や中国の請求権の下で、金のない債権国だった事が世間にしれ、西洋流の、
国発行の借金は中国・ソ連しか受け付けない仕組みの中で高宗はもがいていたのである
。農産物も工業もないこの国では売れる物は、高麗人参といままで書きためた歴史書ぐ
らいであったので、クーリーと売春婦を奴隷として送っていたが、当然返せないと言う
形だったのだ。つまり米国や英国にとっては、既に植民地化された土地だったのだ。こ
うして31暴動では、襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8
名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍
・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。つまり今まで皇帝政治が
否定された事はなく、世界をみて初めて皇帝への否定と植民地内の自治を願ったもので
あったのだ。
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