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関西人のクズっぷりは異常
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186: 04/11 11:06
 朝鮮人に 喝!  226

 実はこの核問題や拉致問題がなかったら、既に充分な援助と韓国との統一も終わって
大きな韓国が中国以上の発展をしていたであろう。既に金日成は日本を信じるに足りる
国として接触していたし、北朝鮮出身の日本の有力者が数多く政治家になっていたから
だ。1994年6月、カーター元米大統領が訪朝した。北の貧困に米国は雪解け間近かと思
われたからだ。しかしその融和に手を挙げた、金日成はその直後に死んだ。息子に毒殺
されたのだろうと言われるそ。援助と解放を北朝鮮は切ってしまい、そしてはじまった
特定地域の大量餓死事件が起こった。1994年に大韓民国に脱北した康明道(カン・ミョ
ンド)によれば、金日成・正日親子が核開発を決心したのは、76年8月のポプラ事件
で北朝鮮政府に衝撃が走った。板門店で米軍将校2人が北朝鮮軍兵士に殺害されたこの
事件で、南北は戦争する意気込みがあったが一歩手前で止まった。それは、南には米軍
の核兵器が千個もあるのに、北には一つもなく地上の機動部隊のみだったからだ。戦闘
機すらなかった。これではとても南には対抗できない、と金親子は危機意識を持った。
康明道は、カン・ドヌクの兄弟であるカン・ソンウクの孫であり、カン・ヤンウクの甥
孫である。金日成とは遠いが従兄弟である。そして、平壌市党責任書記と北朝鮮の政務
院総理を務めた姜成山の婿でもあった。金日成の従兄弟で北朝鮮の総理を二度も務めた
姜成山の娘婿となれば、血筋も良く人民武力部直属の保衛大学研究室長などエリートの
道を歩んできて当然だった。韓国に亡命した後に著した文献では、核ミサイル開発、国
営偽ドル工場、ヘロイン密輸など、まさに北朝鮮高官しか知り得ない機密が明らかにさ
れその現場の指揮官を監査していた程だ。様々なソースからの情報でも、信頼性が高い
地位にいたと確認されている。この事件ではソ連のブレジネフ書記長の時代まで、北の
核開発研究を一切許さなかったらしい。北朝鮮が核を持ったら、南北間の軍事的均衡が
壊れてしまえば、ひいては米ソの緊張も高まる。という恐れと、後ろの中国さえ開発し
ようとした為敵対していた。「70年代を祖国統一の元年にする」ことをモットーとし
ていた金日成は、ブレジネフの姿勢に激昂していて、その面でも金正日と意見を異にし
ていた。82年に登場したアンドロポフ書記長は、レーガンの軍備拡張に対抗すべく、
「あらゆる手段と方法を動員し、朝鮮民主主義人民共和国の宿願である統一を支援する
」として、北朝鮮に対する核開発援助に乗り出し、70人におよぶ核技術者を送り込ん
だ。1993年1月、北朝鮮人民軍の大佐、康明道は出張で平壌から元山高速道路で江原道
(カンウォンド)へ向かっていた車に同乗していたのは、保衛大学時代の友人、沈玄燮
(シムヒョンソブ、仮名)である。沈は江原道ロケット(ミサイル)部隊の現役将校で
、休暇が終わって、帰隊する所だった。沈はミサイル開発の状況をつぶさに知っていた


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