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204: 04/23 18:07
朝鮮人に 喝! 242
嘘もこれだけ真顔で言うとは、たいがいにしなさい。と言う話である。それ以外にも
グ氏の演説や証言は、元島民にとって、首をかしげざるを得ないものばかりであった。
「朝、登校中に見た光景といえば、食料を得るために皿をひとつ持って列をなしていま
した。(略)その横には日本の軍人が棒を持って立っています。その前を頭も首もあげ
ることもできず、皿だけを持ってわずかな食料を得ようと列をなしている様子を見て、
あまりに凄惨だと思いました」この証言に、元島民の松本栄氏は、「皿を持って、道路
端で、お涙ちょうだい、おかずちょうだいって、こういうバカを言いなさんな。さすが
に三菱たるとこは、そういうことは許可せんですよ。見たことない。日本軍の兵士が、
労務者の食事の監視をした事実もなく軍が立ち入れないから、直接長崎のGHQまで、
彼らを連れて行ったのです。まず、ありません」と反論する。既に端島に独身労務者の
為に、食事は寮の食堂で提供されており、道端で配膳することはなかったし、各家庭で
も戦中の長崎原爆投下でも、他の九州の徴用工には、その被害遺体の収容任務が下され
たが、ここの端島や池島や杵島炭鉱や筑豊炭鉱は、別格で農業生産品供給のルートは、
確保され、都市部が闇市に買出しに行きなどと言う事はなかった。食糧供給やそうした
特別配員など行われていない。というのも日本で数少ないエネルギー産業で、当時電気
は、石炭か水力だったから政府はその維持には力を入れていたからだ。つまり夕張炭鉱
と同じに採掘してる以上採掘した石炭は文字通り黒いダイヤとして流通していたのだ。
「登校途中の道端に労務者事務室があります。そこから来る日も来る日も悲鳴と叫び声
が聞こえます。つま先立ちで窓から覗くと、(朝鮮の)青年たちを2〜3名コンクリート
塀の前にひざまずかせ棒で叩いているのです。『助けてくれ!』と叫んでいます」(民
主労総での演説)これに対しても、「端島のどこで、そういうふうな状況、状態が発生
しておったのかその場所を証明せよ。逆にわしは端島で見たことないから」と松本氏は
反論している。「Hello tv NEWS 」での「中ノ島で朝鮮人の死体を焼く煙が日に1、2回
必ず立ち上った」という発言には、終戦の年の4月まで端島炭鉱の測量部署に勤めてい
た松本氏は、「それこそ小さな事故でも、発生した事故の現場監督あたりが会議室に呼
ばれて、事故の状況を報告せにゃいかん。それに基づいて、測量は、現場検証に行く。
こういうふうな状況でこの作業員が亡くなったということを、図面に描いて、しかも、
それを文章化して、当時の鉱山監督局に変災(報告)書を書かにゃいかんのです。1日
に一人も二人も死んだとなったら、私ども、それにかかっておらんばいかん。そういう
ことはまずありえんしなかったのだから。」と否定する。「真実は一つしかないんです
よ。なぜこんないい加減な証言につきあわなければならないのか」グ氏の経歴に関して
、公開情報では、1931年、慶尚南道梁山郡下北面草山里に生まれ、1939年に端島へ移住
。端島高等国民学校二年に編入、端島で終戦を迎える。としている。しかし島に学校は
一つで名簿にもなく、元島民の誰もが、彼を知らない。証言も元島民と全く食い違うグ
・ヨンチョル氏。彼は一体何者なのだろうか。朝鮮戦争でパルチザン活動を行った筋金
入りの活動家で、アメリカの兵站分断作戦で、帰れなかった嘘つき北朝諜報員とされる。
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