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関西人のクズっぷりは異常
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218: 05/22 18:58
 戦禍 の欲望        1−06

 そんな時代の入り口で日本は画期的に恐慌を克服した。確かにこの時石原莞爾などの
満州国建国の用地を暴力的武力制圧したからではあったが、満州国を建立する前から、
日本は、台湾統治にやっと成功し、満州鉄道の権益で資本増強を果たし、南洋のインフ
ラ整備が功を奏して日本経済は浮上しつつあったのだ。ユダヤ人ハリマンは日本の満鉄
の権益に再三アタックし、一時期日本首脳にまで承諾を取り付けていたが、日露戦争で
の妥協にアメリカ政府は日本の主張は何一つ取り入れなかった。この交渉から帰ってき
た小村寿太郎大変苦労人で勉学に励んだ世界の見識を持った人だった。そもそも1901年
(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任してすぐに、1902年(明治35年)、日英
同盟を積極的に主張して締結に持ち込み、その功により男爵を授けられる程の者であり
これによって日本は国際社会に打って出る事が出来た。日清戦争で朝鮮半島は領土とな
ったにも関わらず、先進国の三国干渉で手放し、今回の日露戦争が起こった事を知って
いたのだ。日露戦争後の1905年(明治38年)に行われたポーツマス会議の日本全権とし
てロシアの全権ウィッテと交渉したが、日本で大津事件で襲われた皇太子は1o足りと
も日本に譲歩しない姿勢に全権ウィッテも米国も手を焼いていた中で日露講和条約の(
ポーツマス条約)を調印にこぎつけている。その為この後にアメリカの鉄道王ハリマン
が満洲における鉄道の共同経営を提案したのを桂太郎総理や元老たちの反対を押し切っ
て拒否しているのは当然であった。このポーツマス条約締結を反故にした行為は昭和の
第二次世界大戦の終戦まで続いた。1908年(明治41年)第2次桂内閣で再び外務大臣に
就任すると、小村は宮崎人の見識家として本領を発揮した。幕末以来の不平等条約を撤
廃するための条約改正の交渉を行い、1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し
て関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本
の大陸政策を進めた。更に伊藤博文が暗殺されても韓国併合は進めるべきと意見しその
功により侯爵に陞爵された。1932年 12月8日に松岡洋右が国連に臨んで言った演説は、
「十字架演説」と言われた。1932年11月から、世界の首脳は満州国建国を認めるか否か
をめぐりって国連総会を開く事に同意した。このとき松岡洋右がもっとフリーメイソン
などの会員だったなら少しは違っただろう。政府は満鉄総裁として敢えて米国金融家と
繋がりのない松岡を据えた。そして軍部は陸海軍の軍部闘争の末、松岡を日本代表団の
主席全権大使とした。本会議で日本は非難を浴び「満州国建国は認められない」と仕組
まれた会議は進み意見が相次いでいた。これに対して松岡全権は、非難にさらされる中
の日本を、磔に処せられるイエス・キリストになぞらえ、正当性を主張した。「日本は
満州国を作ったが、東洋平和のためになんとしても必要なものであった。今は理解され
なくとも30年後や、50年後の世界には、必ず日本の行動が正しかったと評価される
であろう。今の日本はあたかもキリストと同じように十字架に架けられようとしている
。しかし、キリストがその後、ヨーロッパ社会から認められたように、いつかは日本も
認められるであろう。我ら日本に全く罪なし、されど甘んじて十字架に架けられん。」
と国際連盟臨時総会で説いた。

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sage
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