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関西人のクズっぷりは異常
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220: 05/22 18:58
 戦禍 の欲望        1−08

 1880年、松岡洋右は山口県の廻船問屋に生まれ、11歳のとき家は倒産している中で育
った、このとき松岡は、アメリカに渡って、働きながら勉強する決心をする事になった
。13歳の1893年の春に松岡はアメリカ西海岸に渡った。ここで待っていたのは、最初の
寄宿先で、いきなり薪割りを命じられるという体験だったとされた。鎖のない奴隷暮ら
しだったのだ。この家で松岡は留学生ではなかった。使用人の一人として雇われた形で
あった。皿洗い、農作業、馬使いなど下僕の重労働をして学費を稼いだ。時には、人種
差別の体験をしながらの人生だった。松岡の心の支えとなったのは、次の寄宿先になっ
たベバリッジ夫人の確かな目と温かい支援だった。最初の家は働きが悪い使用人として
外に売られ、その相手先として、ベバリッジ婦人は松岡を自分の息子の相手にと引き取
ったのである。しかし幸運にもその家では分け隔てなく接して励ましてくれたのである
。その後1898年に松岡はオレゴン大学に入学しクラスで2位という優秀な成績を収めて
いる。クラスメートは松岡をこう評した。「駆け引きに長けたポーカーの名手。」と。
松岡は後でこう語っている。「アメリカ人にはたとえ脅かされても、自分の立場が正し
い場合は道を譲ったりしてはならない。ちゃんと主張し、対等な立場を欲するものは、
対等な立場で望まなければならない。」と。これが松岡がアメリカで学んだ処世術だっ
た。その後1901年アメリカの大学を卒業して、ベバリッジ家に別れをつげ、無事日本に
帰国した。日本では英語の出来る官史は不足していた。というより軍はドイツ留学が主
であり英語特に米国の英語は特に気にしていなく、山本五十六などの海軍が少しいたぐ
らいだった。そして外務省に入省し、外交官として中国やアメリカなどに勤務する事で
地位を得た。戦時中の国のカラーコードで日本はオレンジとされ英国やカナダに次ぐ様
な友好国とされていた。しかし、第一次大戦はそれを変えた。ベルサユ条約で植民地や
奴隷の解放を謳い上げた事がきっかけだった。ドイツが作ったUボート作戦は衝撃的だ
った。英国が国家経営に使っていた貨物船団が襲われたからだ。各地の植民地から送っ
ていた物資輸送が止まって、経済が大混乱を果たしたからだ。長年睨み合いを続けて、
塹壕堀りに明け暮れていたフランスドイツの戦いも、ここで一気に蹴りがついた。それ
までは、こうした戦争と共に諸侯は賭けをして戦っていた。つまり国が負けようと勝と
うと、裏では配当があったのだ。この配当の元は当然相手のディラーと呼ばれる権利や
金を積み上げる貴族達である。そして胴元の主催者は、保険を作ったイギリス系ユダヤ
であったのだ。ナポレオン戦争時でも今の元締め的存在の銀行家ロスチャイルド家や、
投資家のロックフェラーなどが、いち早く情報を持ってそうした保証債権を売り抜けた
り、他の株屋とつるんで密かに儲けたりの話は、話が尽きない程ある。当の兵士として
行った志願兵などは、雨や冬の寒さで足には凍傷を負い、華々しい戦いは無かったが、
負傷兵として心身は多くは病んで帰って来ているのである。

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