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関西人のクズっぷりは異常
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222: 05/22 18:59
 戦禍 の欲望        1−10 

 かつてのフランクリン・ルーズベルトは、共和党である。18世紀にルーズベルト家は
、「ハイドパーク家」が19世紀には民主党支持となってと「オイスター家」の共和党支
持と袂を分けた。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルー
ズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であったが、両家は政治的な違いにもかかわらず
、親交が続いていた。その環境の中でサラが大変な難産で生んだ一人っ子であった為、
溺愛し方々の政治談議の中にも連れていった。再婚したジェームズはフランクリンが生
まれたときは54歳と高齢で長男のジェームズには息子、つまり孫がいた程で、サラは、
フランクリンの幼少時のみならず、生涯において、支配的な影響を与えている。ここに
戦争好きの顔が垣間見える。ルーズベルト評価はリベラル派(自由主義)から見ると、
ニューディール政策をはじめケインズ福祉国家的政策の開始に「恐慌への対策を具体化
した者」として評価される。共産党的と批判されるからだ。だが彼自身は自由主義に行
きたかったが、日本がそうした政策で、どこの国より早く、この恐慌を乗り切って国家
経済を立て直しに向かっていたのである。関東大震災と言う憂き目にあっているにも関
わらず驚異の成長で目を見張る者だったので、ここに促されやらぬ訳には行かなかった
のだ。しかしやってみると「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ大統領」として
評価され、それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党には「世界恐慌の結果発生
した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出した大統領として支持基盤を広げた。こ
うして共和党民主党問わず「ニューディール連合」と呼ばれる大きな支持基盤を形成し
てその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。この事でルーズベルト
はアメリカ政治史上で唯一四選された大統領となった。初代のジョージ・ワシントンは
三選を固辞した故事から、大統領は2選までという慣例があった。しかし戦時・有事を
理由に1940年・1944年の大統領選に立候補して当選する事になった。後に憲法が改正さ
れ正式に大統領は2期までと定められたが、これほど戦争好きが支持された事は日本に
とっての悪夢であったのだろう。このレインボープランに添って、オレンジ作戦が陰謀
の一部として行われた。という事を、「日本はアメリカの戦争プログラムにはめられて
戦争に引きずり込まれた、そのプログラムをオレンジプランという。」発言を虚実妄言
を吐いていると言う向きがあるが、「オレンジ計画」の著者、エドワード・ミラーすら
、オレンジプランが最初に作成されたのは1904年だが、オレンジプランも、この当時は
裏付けに乏しい紙上計画に過ぎなかった。として書いているほどボヤッとしたものだっ
た。しかしながら、日露戦争(1904〜1905年)後の日米間の緊張の高まりによって、海
軍将校だったルーズベルトは1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官
に任命されて、オレンジプランの重要性から実行性を練り直しさせている。そのため、
陸海軍の将校たちは、本腰をいれてオレンジプランの立案に取り組むこととなった。こ
れまでカラープランで他に本格的な計画立案が行なわれていたのは、レッド(イギリス
)、ブラック(ドイツ)くらいだったが。ここで日本と中国が入れられ、イギリスや
ドイツと並んで、本格的な戦争計画が練られたのである。

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