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関西人のクズっぷりは異常
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   朝鮮人に 喝!  292

 しかし、この和歌の成立時期で、和歌の解釈は大きく変わる。「よもの海」の詠まれ
た明治37年(1904)年2月10日は御前会議で日露戦争開戦が決まった日であった。
御前会議の直後に詠まれて心情としては「自分の本意ではないが、国策として大国ロシ
アと戦うことが決まってしまった。平和を愛好する明治天皇自身は、「やむをえず戦争
を容認する」のだ」という苦衷の歌だったのだ。明治天皇は日露宣戦布告の詔書で「豈
(あに)朕が志ならむや」の一文を書き加えた。これが「よもの海」の三十一文字に託
された「平和愛好」と「開戦容認」を集約した言葉で「豈朕が志ならむや」だった、の
である。つまり昭和天皇は、偉大なる祖父のその無念に重ね、自身も日米宣戦の詔書に
「豈朕が志ならむや」と加筆することになったのだ。こうして「よもの海」を素直に読
んだ場合と、詠歌時期を念頭に置いて読んだ場合で解釈が違ってくる。その“からくり
”によって、大きく開戦に動いたのだ。日米戦争後から三ケ月後、日本はまだ快進撃を
続けていた。この時期は山本五十六以下の海軍が主役となった戦争と一般的には受け取
られ、陸軍は「勝利の分け前を要求する権利は我々にこそあり」とアピールしたかった
昭和天皇は一大決意で臨んだ御前会議で、「平和」への意思を伝えようとした努力は、
立憲君主ゆえに抑制して、自分の意見を明治天皇の歌を借りて云った。「よもの海」の
「平和愛好の御精神」を強調したつもりが、それは、よりによって「開戦やむなし」の
和歌だった──のである。そうして陸軍記事の底流には、「よもの海」が日露開戦決定
の後に詠まれた。という事は「正当な解釈」では、戦争に反対されていた陛下にご納得
いただき、日米開戦やむなしと決断していただくのに力を尽くしたのは、わが陸軍であ
る、と。陸軍賛歌を記事にしていたのである。こうして「平和愛好の御精神」は実録か
ら消去しなければならなかった、と伝えている。そして各国のスパイも大きく日本人の
学者や指導者層の解説を聞いて「開戦やむなし」の声を本国に伝えて、ドイツは微笑み
アメリカは一層の準備にかかったのだった。従って来栖三郎大使は既に時遅しの話に、
アメリカは受け取っていた。フーバー大統領の『裏切られた自由』の中では、この開戦
の責任はルーズベルトらにあると結論に達している。書には生々しい会話が頻繁に登場
する。ハルノートを日本に手交する前日、11月25日に、ルーズベルトはハル国務長官、
スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官らを招集し、その会議では、ルーズベルは明快
に「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。
それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが」と語っている。
そして11月28日の作戦会議で、日本に突き付けた10項目の条件についてハル自身がこう
述べていた「日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」。日本が
絶対にのめない条件を突きつけたと報告していたのだ。1941年11月26日にハル国務長官
が日本に首肯した10項目の要求「ハルノート」についてこう書いている。「1900年以来
、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても先例をみない程強硬な要求であり
、どんなに極端な帝国主義者であろうと、こうした方針を日本との外交政策に採用しな
かった。」それほど悪趣味の上日本を翻弄させ世界を闇迷に落とし込んだ。東京裁判で
ただ一人、戦犯とされた日本人全員の無罪を主張したインドのラダ・ビノード・パール
博士は、ハルノートを「外交上の暴挙」と喝破し、それまでの8ヶ月にわたる交渉の中
で一度も話し合われたこともない過激な条項が、突拍子もなく突然に理解し難い形で、
日本に突きつけられていた。と話す。ビアードは「野村吉三郎駐米大使や来栖三郎特使
が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて、そこから本交渉に入ろうと懇願しても
、結局はハルは相手にしなかったのである。」と書く
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