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関西人のクズっぷりは異常
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   朝鮮人に 喝!  295

 これを受けて、チャーチルはソ連会談を行っている。『英国公文書の世界史』による
と1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で勃発した第2次世界大戦はそのまま
5年後の1944年10月になっても各地で戦闘が続いていた。戦時中、チャーチル英首相は
ルーズベルト米大統領と歩調を合わせる外交方針を採ってきたが、1943年 7月、ロンド
ンで、アメリカの政府関係者がイギリスの動きに対する大きな誤解を払拭する為に、何
ヶ月かの交渉の後、ケベック協定(原爆の共同開発での防衛)が最終的に、チャーチル
とフランクリン・ルーズベルトの間で1943年 8月19日に結ばれた。これを受けてアメリ
カの参戦は確実だった、そしてその余裕でそろそろ「ナチス後の世界」について交渉を
始めるべく、チャーチルはソ連を訪問した。自著『第二次世界大戦』によると、チャー
チルはヒトラーが排除された後の東欧、中欧地域にソ連・スターリン書記長が共産主義
を広めることに危機感を抱いている。1944年10月9日午後、モスクワに到着したチャー
チル一行は、ロシアの外交官らに温かな歓迎を受けた。同行したイーデン外相と2人だ
けで夕食を取った後、午後10時からクレムリン宮殿で最初の会議が始まった。出席者は
チャーチルとイーデンのほかにはスターリン、ソ連の外相モロトフ、通訳として英ソか
ら1人ずつ。問題のバルカン半島問題で、ソ連軍がルーマニアとブルガリアに侵攻して
おり、ドイツ軍に占領されてきたギリシャには英軍が入っていた。英国はソ連がギリシ
ャ内の共産主義ゲリラを指導している。とみていた。ナチスードイツやイタリアなどの
枢軸諸国によって分割占領されていたユーゴスラビアでは、共産党書記長チトーの指導
の下に対独パルチザン戦争が拡大していた。「つまらない点で誤解するのは避けたい」
とチャーチルはスターリンに呼びかけ、ソ連がルーマニアで90%の支配権を持ち、英国
はギリシャについて90%の発言権を持つ、そしてユーゴスラビアとハンガリーは半々で
どうかと前触れなく持ちかけた。英語からロシア語への通訳が行われている間に、チャ
ーチルは小さなメモ用紙の一枚に手書きで以下のように書いた。
  ルーマニア   ロシア−−90%  他国−−10%
  ギリシャ    英国−−90%   他国−−10%
  ユーゴスラビア 50/50%     ハンガリー 50/50%
  ブルガリア   ロシア−−75%  他国−−25%
そして、ギリシャの「英国−−90%」には「米国とともに」と書き加えて、また同じく
ギリシャの部分で「他国−−10%」の表記では、「他国」を消して「ロシア」と変えた
。メモを書き終えると、通訳はすでに作業を終えていた。そこでチャーチルは紙切れを
スターリンのほうに押しやり、会話が途絶えた。スターリンは青鉛筆を取り出して、紙
に印をつけた。チャーチルのほうに戻ってきた紙を見ると、右上部に大きく印が付いて
いた。「合意する」という意味である。この瞬時に「すべてが決まった」とチャーチル
は『第二次世界大戦』の自己の回顧本に書いている。英公文書館では、この時の手書き
メモや関連の電報などの文書を手に取って見ることができる。たった1枚のこの紙きれ
で、バルカン半島や中欧諸国の運命が決められ、何万人、何百万人の将来がこれで左右
されたのかと思うと、誰もがしばし、紙きれを見つめたまま言葉が出ないであろう。
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