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関西人のクズっぷりは異常
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243: 08/26 13:02
   朝鮮人に 喝!  296

 チャーチルがスターリンに見せた勝手な欧州分割案 さらさらと書かれたメモ。1944
年ここに至るまでに「論点を長い間苦心して考えてきた」「差し迫った戦時の取決めを
扱うだけ」と、自己弁護する表現が多々『第二次世界大戦』の著書には書かれている。
スターリンがメモに大きな印をつけて、その場は長い沈黙となったという。紙は机の中
央に置かれたまま。最初に口を開けたのはチャーチルだった。何百万人もの人々の運命
に関わる問題を「こんな無造作なやり方で処理してしまったようにみえる」ことが気に
かかった。チャーチルは紙を焼いてしまおうかとスターリンに聞くが、スターリンは「
いいや、取っておくように」と述べたという。ここらは自己弁護であろう。こうして、
現在までこの時のメモが残っている。チャーチルは早速、ルーズベルト大統領に連絡を
取って、スターリンとの会談の内容を知らせる電報を送っている、米国を外して英ソ間
で取り決めをしない、と約束した。スターリンには、メモ書きの解釈を長い文章にした
報告書を書いた。がしかし、送らないことにした。そのほうが「賢明」と思ったのであ
る。一方で、英政府の同僚に対し、10月22日付の文書で、メモ内のパーセンテージは、
英ソ両政府によるバルカン諸国の問題にあたる際の「関心と感情を示し、それによって
互いに理解し得るなんらかの方法で心中を明かし合うためのもの。」と説明している。
「一つの指針以上のものを意図しておらず、もちろんいかなる点においても合衆国に累
を及ぼす」ものではない。あくまでも「一時的な指針」であり、戦後の欧州をどうする
かは「休戦会議ないし講和会議に集まる各大国によって検討されるものであることを…
…強調しておかねばならない。」と釈明し、いかに距離を置きたがっていたかが非常に
よく伝わってくる文章である。しかし、これがカイロ会談の前会談になっている。最終
的に、このメモの覚書はどこまで現実化したのか。「一時的な指針」としたチャーチル
だったが、ほぼこのパーセンテージは守られることになった解決が計られている。英国
はギリシャの内戦で政府軍を支援し、ソ連は共産主義ゲリラヘの援助を停止した。東欧
共産圏に組み込まれていくブルガリアヘの影響力は8割がソ連、2割が英国、ハンガリ
ーもソ連が8割、英国が2割となった。ソ連が9割の支配権を持つと決めたルーマニア
。戦後、ソ連が数万人規模のドイツ系ルーマニア人を強制労働に就かせた時チャーチル
は、当初これを強くは非難しなかったと言われている。チャーチルのソ連批判の著名な
演説は、1946年3月、米ミズーリ州ウェストミンスター大学で行われた。前年の終戦時
から首相の座を失っていたチャーチルは、トルーマン米大統領の招きで訪米し、「鉄の
カーテン」という言葉を初めて演説の中で使った。曰く「バルト海のシュチェチン(ポ
ーランド)からアドリア海のトリエステ(イタリア)まで、欧州大陸を横切る鉄のカー
テンが下ろされたようだ。中欧、東欧の歴史ある首都はすべてその向こうにある」と。
当時は、西欧では、ナチスや日本を敗退させた同志の国としてソ連に好意的だったので
チャーチルの演説はそれほど好評ではなかったが、しかし「鉄のカーテン」という表現
は、その後の冷戦を象徴する言葉として全世界に広まっていった。松岡がこうした交渉
が出来たなら大きく違ったろうに。

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