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関西人のクズっぷりは異常
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245: 08/26 13:28
   朝鮮人に 喝!  298

 又大きくバカだったのは、この松岡を外相就任に担ぎだした事だった。1939年9月、
ナチス・ドイツの突然のポーランド侵攻以来、ドイツの勢力拡大に1939年の9月には、
イギリスは対独宣戦布告し、アメリカ議会は11月に中立法(米国内法1935年成立)を、
改正して、ルーズベルト大統領は戦争状態にある国(英国とフランス)への武器の輸出
を、政府の認可制度によって可能にしていた。こうして軍拡と戦争拡大が予見される中
で1940年(昭和15年)、近衛文麿内閣は、又も松岡を担ぎ出し大命降下をし、外務大臣
に指名したのである。松岡の指摘するように世界の各国がブッロク化していて、天皇は
英国との離脱には非常に不満があった。にも関わらず、伊藤博文の門下で親ロシアを唱
えており親露派の首領を自ら任じるこの男が、陸海軍の三国同盟推進の動きの中で指名
を獲得した。米国は、1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを 表明している
。さらに1941年にはヨーロッパで1400キロの西経26度線まで拡張し、ドイツ商船の位置
を通報を行うなど英国支援で国内法の中立違反を冒してでも、ドイツに対して敵対的な
行動を増大させていた。このアメリカ議会では1941年3月に武器貸与法を成立させた。
松岡は外相就任するや否や赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の
主要な在外外交官40数名を更迭し親米親英路線を断った。その為、これでスパイ疑惑の
代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し日本は危機的に三国同盟に傾いていっ
た。又、満州事変に「いかなる国際連盟の調停も拒否する」姿勢を表明し軍部の脚光を
浴び「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命する。彼は米国
に「最高の悪玉」と嫌われていて、親米・親英路線に戻り様がない人材だった。更には
有力な外交官たちには辞表を出させ外務省から退職させようとした。駐ソ連大使を更迭
された東郷茂徳らは辞表提出を拒否し抵抗したが最低最悪の松岡人事は止まらなかった
。松岡は以前から外交官批判を繰り広げて、就任直後に公の場で外交官を罵倒していた
。日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月に成立するが、直ぐに独ソ関係は悪化
し、情報は日本に伝えらた。四ヶ国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに
期待できなくなった。ソビエトは四国連合参加の条件を、多くの領土要求をドイツに出
してドイツの怒りを買っていた。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月の
13日にソ中立条約を電撃的に調印し、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する
外交的成果だったが、これが日米開戦の決定打となってしまっていた。つまり日本の為
ではなく、日本を売る為の仕事を汗水垂らしてやっていったのである。日ソ中立条約締
結前には、わざわざイギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうち
には必ずソ連と戦争状態へ突入する。」とMI6から仕入れた情報を、手紙として送っ
ていたにも関らずにである。松岡はこれを無視していた屑人間で内閣にも黙っていたの
だ。こうして日ソ中立条約を、勝手に締結した外交に天皇は戦後も憤慨していた。靖国
神社に後年になって松岡が祀られて以来「あんな所は参拝しない。」とこれまでの参拝
を無くした。これは天皇が正確に事態の推移を分析掴んでいた事を示している。後年、
極東国際軍事裁判の公判でのイギリス側の証拠としても、この手紙が提示され明らかに
された。1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名代として、のうのうと独伊を歴訪
し、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を
深めたが、それだけ日本は悲惨な環境となっていた。


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