[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

関西人のクズっぷりは異常
25/26頁 (253件)
246: 08/26 13:29
   朝鮮人に 喝!  299

 戦争に入る頃、一般に大西洋憲章と呼ばれているものが出された。憲章は、ニューフ
ァンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。会談にはチャー
チルの戦時内閣で軍需大臣となっていたマックスウェル・エイトケンも参加していた。
1941年8月の大西洋上で行われた。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト
とイギリス首相チャーチルの会談で合意された項目で、第二次世界大戦後の連合国の、
戦後処理構想、国際協調のあり方についての宣言であった。41年12月の日本軍から
の真珠湾攻撃、アメリカの参戦よりも以前に行われている。Uボートによる攻撃の恐れ
から、極秘のうちに計画され、8月9日カナダのニューファウンドランド、プラセンシ
ア湾上で、イギリスの最新鋭戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、アメリカの巡洋艦オー
ガスタを両者が相互に訪問し、会談を重ねていた。その結果合意に達したものである。
「大西洋憲章」とよばれ。憲章は8ヶ条からなる。アメリカ合衆国はまだ枢軸国に対し
て宣戦布告をしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。こ
の時 1941年9月24日には、ソビエト連邦など15ヵ国が参加を表明したのである。ここに
松岡は入ることを、なぜか進めていない。これは最後のチャンスだったのである。それ
らの8項目の内容は要約すると次の様になる。
 (1).合衆国と英国の領土拡大意図の否定
 (2).領土変更における関係国の人民の意思の尊重
 (3).政府形態を選択できる人民の権利
 (4).自由貿易の拡大
 (5).経済協力の発展
 (6).恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
 (7).航海の自由の必要性
 (8).一般的安全保障のための仕組みの必要性
憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルは若干の見解の相違があったが、
じつはこの合意は、次に戦後の領土問題や国際連合再開の基礎的条約の基になっている
すなわち、戦後世界を形成する為の合意文書ともいえる重要な意義を持つものだった。
こうして、ほとんどの戦勝国は参加した。これがその後のカイロ会談と繋がったのであ
る。その後日本が、米国に宣戦布告して日米合戦となって、対日方針を協議する会談が
1943年(昭和18年)11月22日にエジプトのカイロで開催された。フランクリン・ルーズ
ベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会
談だったが、ソ連もその後密か2日後英米とテヘラン会談をしている。ソ連の指導者の
ヨシフ・スターリンは日本にまだ宣戦布告していなく条約関係を配慮して、蒋介石との
面会を回避した。とされる。12月に発表された「カイロ宣言」は、何ら規約はないもの
でメモ程度の合意であった。但し、無条件降伏するまで戦争するという合意で蒋は会談
で、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草
した宣言案を英国が修正し、日本の降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還
、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後
連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。実はこの3つの会談で、日本は
北方領土や樺太あるいは尖閣は日本の固有の領土となる。又中国ソ連米国英国の宣言は
自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言し、第1次世界大戦以降
の土地の中国への返還を降伏受諾の条件としていたのである。又日ソ中立条約で5年間
の相互不可侵が定められており、勝手な条約破棄は国際法違反だったのである。

[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す