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関西人のクズっぷりは異常
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248: 08/26 13:56
   朝鮮人に 喝!  301

 白人社会の日本非難の「人の残虐さ」というのは、元々アメリカ感覚のもので、嘘に
満ち中国人や朝鮮人と一緒になって、南京大虐殺のようにでっち上げればいい、として
いたぐらいのものだった。こうして、どうしてもアメリカ人が日本人に敵わないもの。
が人権問題であり、人情性だった。そこには今でも問題のある「人種差別観」や「優位
主義観」で、これが『奴隷』と『差別』を作っている。日本では 奴隷が制度になった
ことは近現代史では一度もない。これがアメリカにとってはウィークポイントで日本を
倫理的に非難する時には乏しく弱く、悪者に仕立てる「工夫」を考える事になる。それ
で、ルーズベルト以下の高官達は、このカイロ宣言で『日本は朝鮮半島を奴隷化してい
た。』『朝鮮人を奴隷化して搾取していた。』と言ったのである。全く根拠も証拠もな
い、根も葉もない批判だったがルーズベルトは何故かそういう発言をカイロでやった。
ルーズベルトの記録を見ると繰り返しそれをやっていて、終戦の前の年の44年、カイロ
会談の翌年も、日本は悪者だ戦え!戦いに勝て!と叱咤している。『アジア国民は日本
の奴隷のままになりたくない。云々、』と公式発言する。これを踏まえて、日本統治の
政策が決まり、その時に、日本にいる在日朝鮮人に対して『今日は奴隷解放の日だ』と
『朝鮮人が解放された日だ』と言って、マッカーサーが厚木に降り立った。そして1ヶ
月後に、この在日朝鮮人連盟で今の民団や総連の母体をGHQの指導下で結成された。
この船頭になっていたのが李承晩の進言や、蒋介石の国連むけ映画だったのだ。しかし
蒋介石は、中国大陸から日本兵がさっさと引き上げてしまい、これまでに共闘してきた
共産党と戦わざるを得なくなった。散々日本を敵対して日本暴政のせいにしていたから
米国に支援を求められなくなった。李承晩も同じで、米軍が朝鮮半島に来た時、堂々と
韓国旗が掲げられ、治安や行政は至って良好で、日本兵の攻撃もなかった。広報隊員は
わざわざそれを降ろして日章旗に変えてから、大極旗に変える情景をとる始末だった。
兵員を、朝鮮半島には多々を入れていたが、すぐさま李承晩のウソが見抜かれ日本占領
に人を回す羽目になり、以降マッカサーの持つ軍隊も資金も権限も日本の方が主になっ
た。ここで事件が起こった。米国のそういう間違った前提があって在日朝鮮人連盟結成
主旨が『朝鮮人は奴隷から解放された。今や我々は連合国軍、戦勝国民だ。』としてい
たので『奴隷扱いした日本人にそれを理解させるのが我々の義務だ』という主張に、マ
ッカーサーは日本の新聞に連合国人について、逮捕権も裁判権も日本人は持てない。と
追認したのである。そこで新聞は『連合国人を批判することは書いちゃいかん!』と9
月の段階で報道や裁判権の放棄に日本は簡単に飲んた。しかし、朝鮮人を戦勝国民とし
て扱えとした朝鮮人が、増長し、犯罪集団として跋扈し出し大きな事件があっちこっち
で起こって治安がくずれ始めた。慌てたMPたちが騒動する事になったがこの朝鮮人の
集団は収拾がつかなかった。ここでGHQにやっと連絡がくる。満員電車で窓を割って
入ろうとした朝鮮人を、日本人が注意し直江津駅に着いたら朝鮮人が注意した日本人を
スコップで殴り殺す直江津事件、浜松で朝鮮人が闇マーケットで商品盗んで警察が介入
したら、逆に警官を人質にとって警官を殴り殺したりし始めたという浜松事件。駅前食
堂で無銭飲食して咎めたら主人を殺し、娘を人質に立てこもった名古屋事件、他にも、
大阪・広島・博多・熊本と数々の朝鮮人事件が頻発した。そこの取り調べ書はいづれも
「我々は戦勝国民で何か文句あるか。」という朝鮮語だった。そこで立ち上がったのが
任侠人である。この時から岸島小野組やら、関西山口組、・・・・など任侠で暴漢から
守る防犯やくざが形成されていったのだった。そしてGHQは朝鮮戦争前に治安維持に
警察予備隊を作る羽目になったのだった。

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