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関西人のクズっぷりは異常
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   朝鮮人に 喝!  304

 実際に満州の関東軍は対ソ戦の準備を推進したのだ。「関東軍特種演習」には公式に
書いている。対ソ武力行使は、ノモンハン事件の惨敗の経験からいっても、うかつには
できなかった。そこで極東ソ連軍が対独戦投入のためヨーロッパに西送され、極東ソ連
の兵力が手薄になるのをまって攻撃をしかけることとし、「関東軍特種演習(関特演)
」という秘匿名称のもとに、七月二日総兵力八五万人という空前の大動員が発動された
。これは、「関東軍特別演習」の七月に予定されていた「教育練成」のための演習であ
る「関特演」とはまったくべつのものである事を断っておく。しかし、この特別集合こ
そが更に軍部の暴走を招いていて、中国人の恐怖をあおり、上海や香港の共産党を増や
し毛沢東の支持を高めたのである。1941年(昭和16年) 6月22日に独ソ戦が開始されて
日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承
知のうえで、7月2日の御前会議は『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦
が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決する。との方針を固め、対ソ戦準備
の兵の大陸渡航を進めた。この日本軍が実施した対ソビエト連邦作戦準備は略称関特演
と呼ばれた。実際には戦端を開くことなく終わったが、それは単にドイツの進撃が期待
したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西進も予想したペースで進まなかったから
だった。レニングラードの攻防戦ではソ連は清野作戦に出て、野戦状況の中でドイツ軍
は冬将軍に足止めされて進まなかったのだ。その年は予想以上の寒冷年であり、日本軍
もシベリア駐留の経験からより多くの負担を避けたに過ぎない。近衛文麿はノモンハン
事件で関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断し
、関東軍首脳部の増強主張を支持し、これにより動員令が発令され、関東軍は戦時定員
の14個師団および多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す74万以上の大
兵力を置いた。関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策だったが、この対ソ戦
準備は、外交辞令の日独伊三国同盟に基いてのドイツを支援するためでさえなかった。
ドイツが単独でソ連を打倒してしまった時には、日本は対ドイツと戦う事になるとの予
想で、ソ連領土の「分け前」を要求できなくなるからである。6月25日の連絡懇談会で
、松岡洋右外相が次のように述べている。と新聞は書く。「外相 独ガ勝チ、「ソ」ヲ
処分スルトキ、何モセズニ取ルト云う事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。
而シテ血ヲ流スノガー番宜シイ。「ソ」ヲ処分スルトキ日本ガ何ヲ望ムカカ問題ナリ。
------独モ日本ハ何ヲスルカドウカト考ヘテ居ルダラウ。」と。つまり松岡自身が血を
流してソ連がドイツに負けそうな時は取りに行こう。と呼びかけているのだ。米国との
戦争すら避けたい海軍大臣や天皇陛下が心配し不安している中に、能天気に陸軍に戦争
突入をけしけていたのである。全くこの男は長州閥特有の、とんだ食わせ者だったので
ある。既に1941年7月南部仏領インドシナ(ベトナム)進駐などを契機としアメリカや
イギリス、オランダとの緊張状態は加速していた時期だ、政府はソ連方面より東南アジ
ア方面へと政策の重点を置く方針に、海軍と陸軍の予算攻防や権利合戦があった。海軍
南進論と陸軍北進論である。関東軍は作戦部長と班長らがソ連との戦争を念頭とした案
を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ、文書から「対ソ開戦」の文字を削除す
る様海軍側が迫り、5日に妥結した。そしてこの時の妥協が御前会議の石油確保の為に
引き続き南方戦線を重視しいく。という決定に落ち着き、陸軍の暴走とコヒマの惨劇の
白骨街道の道を開いたのである。つまり海軍増強を捨て陸軍南下の妥協案となったのだ

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