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関西人のクズっぷりは異常
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252: 08/26 15:11
   朝鮮人に 喝!  306

 大戦の当初は、ソ連とドイツはポーランドを共に占領していたので松岡は戦後の連合
国のように仲良しだろう。と思っていた。いずれ戦うとは思っていたとしても、松岡が
この友好条約の同盟祝賀に呼ばれて僅か3ヶ月後とは思っていなかったろう。が、1941
年 6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。ドイツ軍の作戦名
「バルバロッサ作戦」である。いわゆるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名の「赤いあごひげ」にあやかったこの名
は眠り続けていた老人が戦いには目を覚まし帝国に光と栄光を与えたという神話に基づ
いている。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされるソ連奇襲攻撃は、兆候もなく行っ
た。ソ連と不可侵条約で後顧の憂いがなく西部戦線でフランスを陥落させた後は、ヨー
ロッパ各国のドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発され
た人々がドイツ軍に加わって、ドイツ側ではめどがついた途端に東部戦線を行進した。
息つく暇もなくソ連におしいったのは、冬将軍到来前に落とせると踏んだからであった
。1939年、ドイツがポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結した時も、互
いを敵視していたはずの「独ソの条約」締結に世界は驚いた、がしかし、こうも早く崩
れ去るとも思わなかった。ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険でフランス侵攻を
成功させて、軍に対してソ連への攻撃を命令したのは遅すぎるものだった。1940年に、
ドイツ軍は西方でフランス陥落以降、バトル・オブ・ブリテンを敗北しながらも、しつ
こくイギリスに航空戦で英仏海峡上空を戦っている最中だったからだ。ドイツ軍首脳部
はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは、
側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と
豪語し、この東部戦線すらも二正面作戦に出てレニングラードと黒海バクー油田を目指
させたのだった。ドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラー
ドを電撃的に占領し、ソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物鉱物資源
の宝庫であるウクライナは「東方生存圏構想」の実現のためには欠かせない地域だった
のだ。こうした経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわ
り続けた。ソ連軍はキエフ包囲戦で60万のソ連兵が捕虜となり最大の野戦軍喪失した。
この時点で、ドイツ軍統帥部が立てたプランでは、赤軍は壊滅しモスクワへは楽に直進
できる見込みだったはずだが、赤軍は依然として強固な軍事防衛線を構築し維持して、
モスクワ前面にいた。日本は「関東軍特種演習」を行ったものの領土侵攻せずに防衛の
まま南進を決定したからだ。御前会議の決定はスパイ網で筒抜けだったが、陸軍の予算
獲得維持の為変な妥協をして南部進軍を始めた為にソ連は急速に軍隊移動を指令し兵器
人員の補充に努めたのだ。新型戦車が極東に運ばれず補充員をモスクワ防衛に充てて、
非情なゲオルギー・ジューコフを起用して連戦の将軍を置きスターリングラード攻防戦
にあてた。ジューコフは首都の守備体制を立て直し増援と補給を加えて、十分な戦力を
配置した。これによりドイツ中央軍集団の再攻勢は各所で赤軍に阻止された。冬場兵士
の疲弊は頂点を極めドイツ軍は容易に押し返され、モスクワ防衛は春にはフルシチョフ
に新たに立って直しを指導指揮させた。ここにバルバロッサ作戦は完全に失敗したので
ある。しかしそれでもヒットラーは兵士の後退を許さなかった。

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