[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

関西人のクズっぷりは異常
26/26頁 (253件)
253: 08/26 16:28
   朝鮮人に 喝!  308

 前年の40年には日中紛争の終結に力を入れていたが、日本からの和平工作に応じた
汪兆銘の新政権、攻撃により重慶脱出をしている。これを受けて対中国和平における3
つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を
発表したが、この時すでに、共産党との共闘の力は巨大で、汪に呼応する中国側の有力
政治家はいなくなっていた。その為重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の
職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった
。1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時に参謀本部作戦部長であった石原
莞爾は、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な
姿勢を取る宇垣一成大将にも敵対していた。支那事変(日中戦争)に作戦課長の武藤な
どは強硬路線を主張し、石原は不拡大で参謀本部をまとめることができずにいた。石原
は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相
に直談判して「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら
南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行す
る」と進言し約束をつけたものの、近衛の弱気と風見章内閣書記官長により拒絶された
。1939年5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備
隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展
して。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で地上戦闘は戦車火砲
の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わったが、ソ連側とモンゴル共和国の主張する
国境線はほぼそのまま維持された。ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府
が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線
の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」と、事件の停戦の合意が、9月15日の
深夜に成立して終わった。これがモノンハン事件である。ソ連側は戦車の修理部隊まで
揃え、日本は軽戦車しかなく貧装備で必死に戦った。しかしソ連の重戦車には外部吸気
取入れは極寒使用であった為、火炎瓶で戦車は爆発炎上し、更に督戦仕様の運転手は内
側からは開けて逃げれず、仲間が外からハッチを開けないと車体から脱出できなかった
。こうした欠点を突いて、かろうじて勝っていた。一方この紛争勃発には日本の国内の
不要兵員を一気に大陸に送り付けて 国内の515事件や226事件の不満分子や疑惑
の兵士を一掃した取り掛かりが秘密裡に行われた。この戦争で、ソ連軍は実践の模様が
つぶさに冷静に分析・研究され、改良された。兵員指揮や戦車の改造が直ぐになされ、
ドイツの開戦時において、結果に大きく勝利する要因を作ったと言われる。また、この
時の特別召集兵員に関東軍や日本陸軍は浮足立ち、予算と人員をそのままにしての南方
戦線の無意味な進軍に向けて大きく動き出したと考察されている。このノモンハン戦場
にはソ連・モンゴル側が「ハルハ河」という流れる河川が中央にある場所で丘陵だった
。モンゴル語で、「ノムンハン」といい、「法の王」を意味するチベット仏教の聖者の
塚の地でもあった。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す