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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  02

 この玄洋社の広報新聞社として、福岡日日新聞を作り、沢山の地元支援を受けていた
のである。しかし新聞統制で社名を西日本新聞と変えて、政治闘争のフクニチ新聞とは
分けて発行した。元々西日本の呼び名は、1931年(昭和6年)の「西日本新聞同盟」の
結成による。構成は福岡日日新聞(幹事社)、関門毎夕新聞、佐賀日報、長崎民友新聞
、佐世保民友新聞、九州日日新聞もしくは九州新聞、大分日報、日州新聞及び鹿児島毎
日新聞の各社だった。発刊に際しての西日本新聞社は元従業員の長谷川町子に漫画連載
を依頼し、これを受けて『サザエさん』が誕生した。こうして最初期の『サザエさん』
はフクニチに連載された。当時は東京からの新聞が全国制覇を目指し経済界スポーツ界
その他色々が攻防を繰り返していた時代であったのだ。1874年に佐賀の乱が起こると、
明治新政府は立花氏の居城の柳川城の明け渡しを三条実美に託して派遣している。薩摩
・会津のクーデター八月十八日の政変の時、朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移り、
七卿落ちの一人だった。長州藩に匿われ、元治元年(1864年)の第一次長州征伐(幕長
戦争)に際しては、福岡藩へ預けられて太宰府へと移送後、3年間の幽閉生活を送った
。その途中に宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊し、薩摩藩の西郷隆盛や長州の高杉
晋作らが太宰府の延寿王院に集まり、時勢を語り合ったといわれる。この延寿王院には
坂本龍馬も訪ねてきていて、明治新政府の重鎮となっていた。しかし、1874年2月には
、江藤新平が挙兵した佐賀の乱に際し、内務卿大久保利通も博多に来ていて、時の運動
家、越智彦四郎と面会し調停を申し出ていた。しかし越智は、大久保と児玉源太郎に返
って鎮撫行動を要請され、政府軍の鎮撫隊の小隊長として 箱田、宮川ら450名余を率い
て佐賀に入っている。越智は当初、佐賀に入って江藤と通じ、叛乱軍に寝返る事を目論
んでいたとされたが、大久保と児玉に最初から越智の策略は見抜いており、政府軍から
支給された銃の口径と弾薬の口径とが相違していたために、この計画は失敗に終わった
と伝えられる。佐賀の乱が鎮圧された後、熊本に加屋霽堅を、鹿児島に桐野利秋、村田
新八らを訪ね意見を交換し、爾後に備えるべく、第二維新を目的とした政治結社「強忍
社」を結成。強忍社には、久光忍太郎、舌間慎吾、大畠太七郎らが参加していた。1875
年、大阪において民権の確立を目指した愛国社創立集会が開催され、板垣退助率いる土
佐立志社の主唱に応じ、武部小四郎と共に福岡を代表して参加している。しかし彼らは
、1876年の、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱の何れにも同調せず、あくまでも西郷隆盛
の決起を待ち続けた忍耐の志士でもあった。


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