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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  03

 柳川藩最後の家老の立花壱岐は、殖産振興こそ建国の糧と考えていた、彼が発見した
立花櫨(はぜ)の新品種は、「壱岐穂」とも名付けられ、蜜柑(みかん)の新品種温州
みかんなどを立花農園で苗木作りに勤しんだ。その農民たちか、「有難い壱岐様」など
と慕われたが、その素はかつて千間土居や中之島の楠などの原木を葦垣楠や天皇の柳で
ある千年柳があった事に以来する。かつて柳川の地名は柳樹李の名からで、三橋地区に
は花園があり、天皇宮である石磯の宮跡が二ッ河小学校である。ここに数十の柳の原木
があって、これによって国作りをした。と言う伝承が残っている。事実高柳でも、この
柳の木や御幣竹などで土のもげを止めて孟宗竹などで柵をしたと言われ、その縄によっ
て今の白川郷の様な家を築いて住んでいたのである。二ッ河の由来も毛利川の由来も、
そうした中の花園城や富安城に由来する。こうした柳川で役人を減らすなど行政改革も
断行し、人材を積極的に登用し、汚職を厳禁し改革を実行した。しかしながら、翌年の
文久元年(1861年)3月4日、31歳の時に体が弱く病身となり、文久2年(18
62年)9月15日、32歳の時に全権を辞職した。これ以降、隠居して療養に専念す
ることになった。隠居期間中、「胖亭(はんてい)」あるいは「髑髏(どくろ)」と称
して、政治の第一線から身を退いていたが、ひそかにその思想に磨き、明治維新に先立
って、藩を解体した統一国家構想、能力主義による人材の登用、身分制度の撤廃などを
骨子とする政治思想を有するに至った。その一方で「逆枝(さかえ)の柳」など多くの
大衆向けの小説を書いた。約7年後、慶応3年(1867年)の12月、37歳の時に
、王政復古の大号令が発せられた。柳川藩もまた騒然となり、混乱したが、翌年の明治
元年(1868年)2月5日に、立花壱岐は再び藩政の全権一任を受け藩政改革を断行
した。従来の兵制を撤廃し、新しい西洋式兵制を導入して、精鋭で編成された「英隊」
や「変隊」を奥羽に派遣し「盤城平の戦い」で目覚ましい働きをし、柳川藩の名声を大
いに高めた。その一方で、立花壱岐は「復古論」などを著して、平和的な手段による解
決を主張し、各方面に働き掛けたりしたが、新政府の「刑法局判事」にされるに及び、
辞退のため京都に上る。京都では、新しい国家構想を実現するため、福井藩の松平春嶽
や横井小楠らと接触したが、失望し、ついに岩倉具視邸に「松平春嶽公への建白書」、
「山吹篇」、「井蛙天話」、「第二等論」を残して、明治2年1月15日に京都を立ち
去って柳川に帰るのである。

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