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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  05

 西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。
庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、激しい抵抗を示していました。そし
て力尽き、9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟します。が、西郷の意を受けた
黒田清隆は寛大な処分を下したのです。減封は16万石から4万石の12万石。改易さ
れた会津藩とは対照的である。実は此処に立花氏の影がある。あれほど血を流すことを
望んでいた西郷は、すっかり変貌していた。庄内藩士はこのことから西郷の徳を慕い、
明治22年(1889年)には西郷の言動をまとめた『西郷南洲遺勲』を出版するほどに変
わっていた。立花壱岐は嘉永4年(1854年)8月19日、22歳の時に、横井小楠
と山川町野町の別邸で二人だけで会見し、これ以降天下国家に目を向ける事となった。
嘉永6年(1853年)6月3日、23歳の年にアメリカのペリ−艦隊が品川沖に渡来
しており、柳川藩は幕府から海防の命を受けた。しかし、当時の柳川藩は極度に財政が
逼迫しており、派兵も困難な状況で困難を極めた。この時、立花壱岐は単身熊本に乗り
込んで、家老の平野九郎右衛門、溝口蔵人、長岡堅物をそれぞれ論破して、一万両の借
金に成功したと言われる。この平野氏や溝口氏は、関ヶ原の戦い後に、黒田の包囲に際
して、加藤清正の代理として立花氏の開門蟄居に働きかけた家系であった。この時の約
束が「立花氏は同志であり身を賭して守る。」であったと言われる。長岡堅物は、長岡
是容(ながおかこれかた)が本名とされる。天保3年(1833年)に父が死去すると1万
5000石の所領を襲封し、既に加藤家から細川家となった熊本藩の家老となって江戸藩邸
で藩主細川斉護に仕えた大物だった。横井小楠や下津久馬と共に協力して藩政改革に取
り組み、文武芸倡方として藩校の時習館改革などに尽力し、荻昌国・元田永孚らを加え
て会読会を開き、実学党と呼ばれる一派を形成した。実はこの頃までは紅屋の五島氏も
武田氏を通じて、借門なしの出金を許していたが、大坂・江戸の口紅(こうべに)粧粉
(しろこ)も多くの他藩からの競売品が出て出金できない程になっていた。唯一は冨屋
の和蝋のしがない金貸ししかなかったのだ。日本国中が進歩し、更に佐賀藩や久留米藩
も文化5年の夏の外国船フェートン号事件以来長崎警護で財政悪化していたのである。
この鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件は九州大名には痛い出費
が図れたが、幕府は何も出来ず、ヨーロッパのナポレオン戦争の余波が極東の日本にま
で及んだものとも知らないでいた。しかしながら、この頃東北蝦夷地や対馬や和歌山や
会津藩などそこかしこの海岸の村は、不明な海からの賊に襲われていた報告は上がって
いた。

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