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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  07

 1871年(明治4)の廃藩置県で柳川県となり騒動が持ち上がった。三潴県令となった
石井氏が城の明け渡しと統一県の設置を申し出て来たのだ。それが三条実美の計略だっ
た。県令を置く事と城の明け渡しは、その実は違う物だったが、明治新政府は熊本城と
柳川城を九州の中心的居城と見ていたのだ。その後城は炎上し、三潴県を経て76年福岡
県に編入された。黒田清隆は後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872
年)まで北海道の開拓を指揮している。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として
東京にあり、明治09年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦
争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮と
なった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。
西郷隆盛が行った戊辰戦争と総称されるこの激しい内戦は、多くの戦から成るもので、
鳥羽伏見の戦い、阿波沖海戦、甲州勝沼の戦い、宇都宮戦争、箱根戦争、市川・船橋戦
争、上野戦争、北越戦争、朝日山戦争、二本松の戦い、会津戦争、秋田戦争、箱館戦争
などが含まれ各所の戦さが起こった。徳川と明治同盟軍で国が二分されてしまった大き
な内戦と言える。この時武力鎮圧を必要としない場合でも、大久保利通は「血を流さな
ければダメだ。」と強硬に武力行使にこだわった。その為当初の江戸城開城までは薩摩
の志士として西郷隆盛も同じだった。とにかく明治の「志士」たちは皆、自身がいくつ
もの殺戮に手を染めてしまいした。私たちが今知る「明治維新」というものが鳥羽伏見
の戦いに始まる戊辰戦争についても小説のように詳述してあり、会津や周辺地域の人た
ちが、150年たった今では、作られた歴史で薩長を許すことができないのかを知るこ
とができる。正に東北の内戦だけでも読んでいて驚くのは、ついこの間まで需要がなか
ったであろうこの国でも、いつの間にこれだけの武器が準備されていたのかと思うほど
の銃撃戦が展開された事だ。ある歴史学者はテロリストらの、私利私欲や狂信的な水戸
学信仰を強調しているが、誰がどれほど武器で儲けたか、不要な武力行使を焚き付けた
のは誰であったか、ということである。そこで暗躍したのが、グラバー商会や坂本龍馬
、或いはアーネスト・サトウを牽きいた英国外交官のオールコックや、パークスと解る
。しかし、日本人も負けてはいなかった最初に反射炉を建設した佐賀藩、その技術を買
った薩摩藩、更にそれを取り上げた徳川幕府も又薩摩の多額の賠償金の肩代わりをして
幕末を迎えている。
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