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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  08

 柳河(柳川)地域を中心とする下筑後(筑後南西)地方が、鎌倉時代から戦国時代の
末期まで蒲池氏の領地であるというのは御幣がある。瀬高の清水寺は日本屈指の古寺で
あり、比叡山より相当古い寺だ。その下に広がる瀬高町は今では殆どの古墳群は荒らさ
れ明治の頃まであったとされる七支刀や貝宝剣などは、資料には散見するが多くは学者
に盗まれて奈良の物かの様に報道されている。が基本相当古い時代から朝廷貴族の私領
として荘園時代は米を送る為に、鷹尾神社はその出航地として大きな街であったとされ
る。そこに山から降りて来たのが田尻氏である。その田尻の末弟の縁戚として蒲池氏が
いたのである。もともと神話時代に、神功皇后(じんぐうこうごう)が立ち寄って朝鮮
への渡航に安曇磯良丸を求めた。とされる場所だ。従って筑後や瀬高の一帯は殆どが、
京の貴族の荘園であった。この荘園的支配はかなり古く、そもそもの熊襲征伐そのもの
が天皇が謀反の報を聞き親征開始した。と言う物だった。この時、穴門豊浦宮で天皇と
合流し仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の詞
は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げ、海を渡り金銀財宝のあ
る新羅を攻めるべし」というものだったが、この信託を信じず熊襲を攻めた。が空しく
敗走し翌年2月に天皇が香椎宮にて急死した。と言うものだった。その後、小山田邑の
斎宮で武内宿禰を審神者として、再び神託を行って前年に託宣した神が事代主神、住吉
三神などであることを確認したが、ひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり
吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。と言われる。皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に
移動し、20日に羽白熊鷲という者を討った。その後03月25日、山門県に移動して田油津
媛という女酋を討ち兄の夏羽は逃げ出した。とされる。松浦郡で誓約(うけい)を行っ
た皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして男装す
ると、渡海遠征の全責任を負うことを宣言し三韓征伐を誓う。その後09月、大三輪神を
祀って船と兵を集めた。また、草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。
さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみの
あびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。という。この草氏こそ久留米高良山の草場
氏であり、依網吾彦男垂見は、三橋の垂見の元となる名で、その祈りが清水であった事
を物語るものとされる。

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