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人は言葉を失った
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 柳川 銭紋  09

 10月になって、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り
朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、その勢いは船が山に登らんばかりだったという。
新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗
を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を
手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ
むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を、
献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。帰国した後の12月14日、皇后は
筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」といったと言
う。こうして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。こうして新羅を討った後翌年2月に、
皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を大きく行った。畿内への帰途につ
いたがしかし、都には天皇の長男、次男である逢坂王、忍熊王がいた。彼らは新しい赤
子の誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し
立ててくることを察していた。そこで、五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国
から兵を集めさせ、播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵した。そして菟餓野とい
うところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。
ところが突然現れた獰猛な赤い猪に逢坂王は食い殺されてしまった。これを凶兆と理解
した忍熊王は住吉まで撤退した。一方忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后ら
は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上する事を計画した。しかし、紀淡海峡を突
破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事
代主神、住吉三神を祀った後に進撃を開始した。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣
を敷き、ここが決戦の場となったといわれる。皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は、
一計を案じて偽りの和睦を申し出て、兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。この
策略が功を奏して、忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると、武内宿禰は再
び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していない忍熊王は
敗走するに及んだ。こうして大和朝廷が出来あがったと、九州の人々は信じていたのだ
。もともと津間夫木(つまぶき)とはそうした柳の木や藪竹などを植栽する人夫を言っ
た。つまり日本型のきこりである。山は焼畑で作物を作り、海のそばにきこりが居た。
その理由がこの船の造作にあった。楠の木と柳の木そして竹はその象徴としてあった。


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