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まー
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 朝鮮人に 喝!  274

 ドイツでは、早くの1938年1月に、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シ
ュトラスマンの論文によって、ウラニウムの核分裂反応が発見されていた。このことは
世界的にも発表されている。彼らは世界初の、ウラン235 の原子核に中性子を衝突させ
て分裂させることに成功したのである。ナチス・ドイツ政権下で、既に1939年 9月末の
頃から国防軍兵器局のもとに原爆開発のための実験が試みられるようになっていた。し
かし当時、ユダヤ人系の学者は追放され、または亡命していたので、残っていたドイツ
人学者によって開発が進められた為遅々と進まなかった。ドイツでは、日本やアメリカ
より進んでいて核分裂の理論は、既に完成していたのである。濃縮ウランの連鎖反応を
利用することが通常の方法だったが、ウラン235 の分離法についての技術が困難を極め
た。そこで、技術的に困難であった濃縮ウランではなく、自然界に存在する天然ウラン
を利用した連鎖反応の大胆な理論の可能性を検討した。しかし当初取っていたスウェー
デン南部ベステルイェートランド州のランスタッド鉱床のウラン資源は、非常に低品位
(0.025?0.032%U)であり、副産物として他の鉱物の方が多かった。スウェーデンには
、ウラン鉱石から六フッ化ウランに転換する転換工場も、またその六フッ化ウランを、
濃縮する濃縮工場もなく、転換及び濃縮などはすべて船で運ばなければならなかった。
大きな量のある天然ウランの中でも最大わずか0.7パーセントしか含まれないウラン235
の核分裂によって、発生した中性子のスピードを重水減速して、天然ウランに99.3パー
セント含まれるウラン238に飲み込ませないようにして、残りの0.7パーセントのウラン
235に減速した中性子を集中させて、確実に連鎖反応を起こさせるという理論であった。
ハイゼンベルクらは、この理論では原子炉の製造は可能でも、爆撃機に搭載できるよう
な小型軽量な原子爆弾の開発は不可能だと見ていた。しかし1940年春、ナチス・ドイツ
は科学者達の要請によってノルウェー作戦を実行し、これによりヴェモルクの世界最大
の重水製造工場の、ノルスク・ハイドロ電気化学工場を占領する。これによって中性子
減速材である重水を取得することが可能となった。これがイギリスの諜報部に連絡され
てしまう。その後1943年 2月23日、ノルスク・ハイドロの重水工場が、6人のノルウェ
ー人の決死隊により、爆破されてしまった。これにより、重水が入手困難になったのだ
。また、戦況の切迫から、6週間以内に実践に使用できる兵器以外の研究をヒトラーが
許さなかったため、シュペーアは第二次世界大戦中に製造が間に合わないと予想された
原子爆弾の開発中止を決定した。その前にアルベルト・シュペーア軍需大臣は、新兵器
が開発されない限り、ドイツが戦争に勝つ見込みがない。と言った考えを示し。そして
、科学者らを集めて、ナチスの政府高官たちに講演を開いた。その時、ハイゼンベルク
が原子核破壊とウランとサイクロトロン開発に関して報告している。この講演後には、
シュペーアがハイゼンベルクに原子爆弾の開発は何年後に可能かと質問し、ハイゼンベ
ルクは、「原爆製造の理論には何の障害もなく、生産技術への援助があれば、2年以内
に可能である。」と答えている。オランダの物理学者らが、ヴァイゼッカーの研究室で
ドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見したが、それによると、ヒトラーは1942
年に原爆の可能性について報告を受けたが、1944年後半には原子力開発はまだ実験段階
にあり、原爆製造の考えを放棄していた。という事実が書かれていた。

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