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まー
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226: 08/25 12:03
 朝鮮人に 喝!  275

 技術的には、日本やドイツの物理理論は進んでいて、理化学研究所の選んだ熱拡散法
はアメリカの気体拡散法(隔膜法)よりも効率が悪かったが、成功率は高かった。10%
の濃縮ウラン10kgを製造することは世界では不可能と判断されており、これに対しての
京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく特注の遠心分離機の設計図が完成
し材料の調達が始まった所だった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり
、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させる。と
いうもので、いわば、暴走した小型軽水炉のようなものであった。ウラン濃度も10%程
度ものが10kgで原爆が開発できる。と計算されていた。この原爆開発原理には基本的な
誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書により発見される。しか
し、同様の経緯である1999年 9月に東海村JOCの臨界事故により、殺傷力のある放射
線が多数拡散放出されることは明らかとなっている。原爆投下の直後の1945年 8月14日
のポツダム宣言受諾時には、日本陸軍の原爆開発は最も進んだところでも、結局は基礎
段階の実験の域を出ていなかったとされる。旧日本陸軍が第二次世界大戦の終戦直前に
、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で
原爆実験を実施した。との情報を米軍はつかんでいた。戦後日本を占領統治した連合国
軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことは、今回米国立公文書館で時事
通信が入手した米軍機密文書(約三百ページ)で分かっている。一九四七年の米軍の防
諜機関の報告には「原爆に似た爆発があった」と、伝えている。しかし、真相は解明で
きていない。また、これらの文書から、米軍では興南にあった化学コンビナートでの、
日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(五〇―五三年)に乗じての
疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。その中にダムの魚雷爆破があ
った。つまり北朝鮮の砦としてのみならず、今後の原爆製造のきっかけを確実につぶす
狙いがあったのだ。でなければ、およそソウルの生活全部を支える電力源をそう容易く
爆破できるものではない。終戦時東条英機は、家族を引き取らせ「大詔を拝した上は、
大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受
けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』。戦争責任者
と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮
する」と複雑な心中を吐露して、1945年(昭和20年) 9月11日、自らのGHQ逮捕に際
して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こっている。
敗戦が決まっては多くの者が自殺した。著名なものでは娘婿の古賀秀正少佐や阿南惟幾
らの陸軍高官、貴族院議長から総理大臣を務めた近衛文麿などだ。彼らの収監後内大臣
の木戸幸一は、口裏合わせにかなり回って歩いたようだ。


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