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まー
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230: 08/25 12:07
 朝鮮人に 喝!  279

、結局は、後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円
を調達するに至り、これらの事業の原資とした。つまり日露戦争であれだけ国債を買っ
たのに敵方のベルギーのBNBから資本提供を受けていた。これがハリマンには全くの
連絡もなく許せなかったのである。しかし、それは仕方なかった。1894年に露仏同盟が
締結された上、下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際には、それを、
露仏銀行団が引受けて払っていたからだ。これらを契機として設立された露清銀行は、
目的を露清間商取引の決済やシベリア鉄道の完工などを行っていた。 創業資本金は600
万ルーブル=600万$=600万円の世界であった。そのうち 5/8がオタンゲルなどのオー
トバンクとベルギーのソシエテ・ジェネラルによる出資で、3/8 がディスコント・ゲゼ
ルシャフトからロシア系銀行家を通して払い込まれている。パリバとクレディ・リヨネ
もフランス側出資団に参加した。上述の出資割合にかかわらず、露清銀行は定款で業務
の相当部分にロシア蔵相の認可を必要としていた。当然日本がバリバの銀行団を信用し
ていたのは確かだった。中国の許景澄とサンクトペテルブルクでの東清鉄道の敷設に関
する協約を結んだのは1896年9月8日だった。鉄道会社に露清銀行が資本金 500万ルーブ
ルの全額を出資して運営していた。こうしてロシアが鉄道の建設を取り仕切ることにな
っていた。一方で清国は鉄道経営に参加するために、500万庫平銀を 露清銀行に出資し
全額を払い込み清が参加した形の銀行となった。こうして露清銀行は資本金は 900万ル
ーブル、準備金28万ルーブル、総資産3882万ルーブル、支店は国内外に18ヶ所の大銀行
となっていた。露清銀行は1898年の京広線契約と敷設借款に関するベルギー資本や債権
のほとんどを預かり、清国の金融取引を担っている。ベルギーのバリバ関係のためか、
翌年末やっとフランス人取締役が任命された。その後ロシアは1万2000株の増資をロシ
ア帝国国立銀行が全て引受けて強くロシアの圧力をかけた。フランス勢のソシエテ・ジ
ェネラルやクレディ・リヨネは脱落し、対して李鴻章やホープ商会に加え、ディスコン
ト・ゲゼルシャフトなどのドイツ個人銀行も増資に乗ったがロシア勢4、フランス勢2
の株式を保有割合となって進んだ。こうして露清銀行は、同じパリバ由来のインドシナ
銀行と、中国市場や東アジアの顧客競争を展開した。長崎・横浜。神戸に支店を開いて
いたが1904年2月上旬、日露戦争の開戦で日本の全支店を閉鎖し横浜支店のみ再開した。
遅れて1920年に神戸支店再開、オリエンタル・バンク張りの経営拡大を見せた露清銀行
であったが、日露戦争中でも10%配当を出すほどの利益をあげたが、1903年に極東支店
の放漫経営が明らかとなり、1907年恐慌に遭って経営危機に陥っていた。他行との合併
により打開しようとした。方々のロシア国内の銀行と模索したがソシエテ・ジェネラル
のロシア子会社である北方銀行が拾う形に合併して露亜銀行に落ち着いた。ロシア軍事
産業を支配下におき、顧客にバクー油田、シベリアの金鉱山会社などをもつ裾野が広い
営業を展開した。1911年にレンスキー金鉱山会社の株式を購入し、もともと経営に参加
していたギンツブルク商会とシンジケートを組み株式を分割した。ペテルブルク国際銀
行やレンスキーの経営も掌握した。

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