[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

まー
24/25頁 (247件)
231: 08/25 12:07
 朝鮮人に 喝!  280

 しかし、ロシア革命により支店が整理統合され強制的に国立銀行に編入され、こうし
て政府が無くなった事で、露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は 死に物狂い
になって交渉に挑んだ。まず義和団事件の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国
に対して弁済を要請した。又中国の関税収入を協定で香港上海銀行と露亜1対2で分けあ
い鉄道の敷設経営借款引き受けなどが決められた。日本のシベリア出兵と並行して銀行
経営が分裂したが、結果として、パリ支店が本店に格上げされた。 1924年9月22日、張
作霖がソ連側と勝手に協定し、露亜銀行が決めていた 東清鉄道の経営陣がソ連政府の
派遣したメンバーにそっくり変わった。これをきっかけに満州支店で取り付け騒ぎとな
って、年明けに露亜銀行の資金は枯渇した。もはや銀行をフランス資本に取り戻すこと
は困難となり、フランス人役員はロシア人に席を譲るようになった。こうして1926年9月
26日パリの外為市場で500万ポンドの損失を出して、2日後に露亜銀行は清算された。
露亜銀行は1910年に露清銀行とソシエテ・ジェネラル子会社の北方銀行とが合併して出
来た銀行であるが、露清銀行は1902年に横浜支店を開設していた。1921年に、露亜銀行
横浜支店として建設されたのが今のラ・バンク・ド・ロアの結婚式場である。露亜銀行
は、1926年に日本から撤退、その後J・H・モーガン設計事務所、1928年に横浜市瓦斯局
、1935年よりドイツ領事館として使用された。第二次世界大戦後には進駐軍が使用し、
1959年からは横浜入国管理事務所となっていた。バロック様式の建物をコンクリート造
で建設した初期のものと考えられ、横浜で最後に建設されたバロック建築であるようだ
。東清鉄道は、現在の中国の鉄道路線のうち 浜洲線(ハルビン-満洲里)、浜綏線(ハ
ルビン-綏芬河)、哈大線(ハルビン-大連)の各路線に相当する。ポーツマス条約によ
り長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。1911年、辛亥
革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。1917
年ロシア革命後、ペテルブルクの理事会は機能停止し、現地の最高責任者であるホルヴ
ァート管理局長が実権を握った。彼が1920年に中国軍に放逐されると、奉天軍閥が影響
力を強め、また1919年〜1922年にかけては、日米などが参加した連合国鉄道管理委員会
がその経営に干渉した。特に、ハルビンに駐在した委員会技術部長のスティーブンスは
、革命後の混乱した経営の立て直しに辣腕をふるった。ソ連は1919年の第一次カラハン
宣言でいったんは東清鉄道を放棄することを表明した。にもかかわらず方針を転換させ
、北京政府や奉天軍閥に経営への参入を粘り強く求め、中ソ両国は国交回復の協定に、
調印し、この中で東清鉄道の利権を確認した。同協定に不満を持つ東三省の張作霖政権
は北京政府とは別に、同年9月奉ソ協定を結び、1925年1月20日、更に 日ソ基本条約が
締結された。しかし1925年4月9日ソ連の第九十四号命令、1928年張作霖爆殺事件。1929
年張学良の武力回収(中ソ紛争)1929年12月ハバロフスク議定書と、次々に紛争の種と
なった。1932年に満洲国が成立するとソ連は満洲国を承認しなかったものの、東清鉄道
は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路
に変更した。1935年になって、ようやくソ連は満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満
鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こうしてやっと朝鮮半島の安定
が出来たのだった。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す