[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

まー
24/25頁 (247件)
233: 08/25 15:23
 朝鮮人に 喝!  282

 1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起
こった。昭和金融恐慌である。若槻内閣は同年4月に総辞職し、代わって立憲政友会総
裁の田中義一が同20日に組閣し総理大臣となった。田中義一は、1928年に起きた張作霖
爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべ
きと主張して、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなか
ったのである。この時ゾルゲ事件など見るように日本の陸軍幹部にも相当数ソ連コンミ
ンテルンの共産諜報者がいたようであり、日本政府の信用や情報は既にいいように利用
されておいたのである。関東軍は、地元の親日派軍閥長であったはずの張作霖には軍事
顧問団を送り取り込みを図っていた。がしかし、張作霖は排日運動の高まりや欧米から
の支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄
の並行線を建設し始めると、日本の属国としての熱河省地域は張作霖の縄張りだった。
というのも張作霖はそもそもが汗民族つまり馬賊の子で、知っての通り朝鮮で成功した
。日本軍は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉していたが埒が明かない
状態だった。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年
まで中国河北省に存在した政権である。当時の日本側見解によると、地方自治を求める
民衆を背景に殷汝耕の指導により成立したとされる。しかし、中国側からでは当時から
現代に至るまで日本側の特務機関の工作活動により設立された傀儡政権であると主張さ
れており、今では日本や米国にも中国側と同様の認識で傀儡政権とされる。しかし現実
は全く違っていて馬賊の逃げ込む厄介な地だったから、北京政府も日本政府も朝鮮国も
それなりの対応していた地域だったのである。ところが日本が日韓併合してダム工事が
なされて朝鮮農民と中国の農民とに領界争いや水争いがおこったとされる。満州地域は
、実は北京政府も及ばない地域でもあった。本来北京政府にとっては痛くも痒くもない
不毛の高原大地だった。そこには遊牧民族が跋扈し、日本人が知らないところで交易路
としていた。ここに満州国ができると、北京政府との抗争を避けるために緩衝地帯を、
強制的に設けた。これが冀東防共自治政府の始まりだった。しかし、満州国は不毛の地
だったが、この緩衝地帯は湿地で畑ができこれまで皇帝の命で北京域から出れなかった
農民達が日清戦争以降はこぞって開墾に出てきて集落を作っていた。1935年 11月 25日
冀東防共自治委員会が成立し,12月25日冀東防共自治政府と改称し管轄地域を決めて、
塘沽 (タンクー) 停戦協定による非戦区とし、18県を含む 22県で人口は約 600万 首都
は通州として政務長官に殷汝耕を置いて五色旗を掲げた国を作った。1933年 5月31日に
日本と中国との間で塘沽協定が締結され、中国側に非武装地帯を認めさせ、治安は中国
側警察が担当することとした。その範囲は延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴
、林亭鎮、寧河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められた 。しかし、
中国北京政府は混乱が相次ぎ、又この中間地帯の開発に、日本の三井財閥が乗り出して
アヘン生産地帯にしたことから、これまで中東のアヘンを扱かっていた朝鮮、中国の闇
の勢力に異変が起こっていた。熱河は清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとと
もに満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっ
ていて貴重な交易地だった。この地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽
協定が締結された当時は、その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、
あるいは満州へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重用だった
のである。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す