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まー
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234: 08/25 15:24
 朝鮮人に 喝!  283

 だがそうした前にここには、清国時代はジョーオダ盟(昭烏達盟)、ジョソト盟(卓
索図盟)及びチャハル盟(察哈爾盟)東部に位置し独立闘争の中にあった。1914年に、
中華民国はジョーオダ、ジョソトの両盟及びチャハル盟の一部に熱河特別地区を設置し
、管轄外に指定していたのである。しかしロシア資金の線路が通り、直隷省の管轄から
国民政府の直轄とし、同年7月には熱河道が成立した、旧直隷熱河都統が管轄する14県
に加えて、内モンゴルのジョソト盟7旗、ジョーオダ盟12旗を管轄する事に変化した
。日本が開国し明治政府として廃藩置県を西郷隆盛が行ったが、その後献上地召し上げ
が数多く起こった。知行献上で藩の殿様が伯爵でわずかの政府からの給与があてがわれ
たのだが家老以下は路頭に迷って食い詰め浪人が多数発生した。多くの郷士の会は種々
の職業斡旋には出たが、農民や商人に身を落とす事を潔しとしなかった人たちも少なか
らずいた。そうした人の中には大陸に渡って大陸浪人と名乗った人達も数多くいたので
ある。明治から100年過ぎようとする頃は3世代が過ぎる頃で、多くは現地人に溶け
込んで暮らしていたはずだ。田中義一はそうした熱河特別地区の事情をよく知る人であ
ったようだ。チャハルのみでも、チャハル八旗の領域は農地化が進み、牧地が減少して
争いが絶えなかった。清の滅亡後、1914年にチャハル八旗は周辺のチャハル系遊牧領は
チャハル特別区とされ、1928年に解体されて東部に張家口を省都とする察哈爾省が置か
れた歴史が残る。昭和12年7月 北京郊外の盧溝橋で事変が発生して、日中戦争にな
り、日本の大陸政策として内蒙古は満州国のように中国から独立させようとする方向に
進んでいたのだ。当時、内蒙古は五つの盟(地域)に分かれていて(チャハル盟、パイ
ンタラ盟、イクチャオ盟、シリンゴール盟、ウランチャプ盟)、それぞれの盟はいくつ
かの旗(行政単位)を統括していた。それぞれの旗には旗長(ジャサック=札薩克)が
いて、ジンギスカンの末裔の旗長からえらばれた5人の盟長が内蒙古を統括していた。
当然ながら、彼らにはジンギスカンの血が流れていて、帝国の復活の夢があったわけで
、それを大義名分として、内蒙古独立をめざして、満州国政権樹立のメンバーから全面
支援のための人材を日本からも送り込んだ。つまり、満州国政権、冀東防共自治政府の
みならず、各所は自治を持つ国の形を成していた。国際的には何らお墨付きは無かった
が、かつては中国の軍隊として馬を駆けて戦った「つわもの」の地域である。清という
という箍(たが)が外れれば、大きな組織として大陸浪人達を受け入れる素地はあった
ようだ。また新たな日本からの開拓員に通訳も必要だった。五郎は新京特別市公署から
満州国国務院総務庁に転属(地方公務員から国家公務員)になり、そこから蒙古政府へと
派遣された。金井内蒙古最高顧問に、直属の上司であった高橋福次郎とともに随行し、
いまのフフホト(当時の厚和)の巴彦塔拉盟(パインタラ盟)公署所管の豊鎮県顧問と
なっている。豊鎮県を含む大同(北京の西にある内蒙古第二の都市)周辺は、開発開墾
で豊かな穀倉地帯に変わっていた。また中国の遼寧省と並んで有数の阿片の生産地だっ
た。豊鎮には日本人の小学校がなくて、ていと圭子と健二郎は豊鎮に近く小学校のある
大同に住むことになった。 


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