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まー
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238: 08/25 15:26
 朝鮮人に 喝!  287

 満鉄事業は、鉄道業と共にほとんど自治体建設であった。付随するホテル運営や倉庫
の経営、鉄道付属地の経営、炭坑と製鉄所、大連港の経営と海運業、理・工・農の研究
開発、経済政策の立案、高等教育や普通教育施設建設、という具合に大別され多種に渡
る。こうして1907年、本社を東京から大連に移転した時の、満鉄の組織は、総裁のもと
に総務・調査・運輸・鉱業・地方の五つの部と大連病院、撫順炭坑をおいた形から発展
する。総務部は、会社の事務・経理と会社の各種事業に必要な建物や鉄道付属地などの
建設・土木の事業を担当し、調査部は政策立案とそのもととなる基礎的調査をおこなう
部であり基幹の調査を独自分析して報告を行っていた。運輸部は主として鉄道と大連港
の建設・経営を担当し実務の要であった。鉱業部は地質調査と鉱産物の販売を担当し、
地方部は鉄道付属地の行政を担当する部である。この五つの部によって満鉄本社が構成
されており、大連病院と撫順炭坑は本社からは独立性の強い組織として位置づけられた
。つまり厚生施設部門で独自に医療や健康管理や安全管理をしていたのである。特筆は
この別部門として安全管理して行政指導している点だ。しかしこれが逆に軍や特高の、
OBの溜まり場になった。そして本社から比較的独立性の強い組織として、撫順炭坑(
炭鎖)があった。又満鉄は開設以後も、多くの職制改正によって部局の名称が変更され
た若返りの激しい特異な公設民間会社であった。今でいう「カイゼン」の早い収益率の
高い会社だったのだ。中央試験所などの新たな研究機関が設けられたり、組織は肥大化
するものの、鉄道付属地が撤廃される1937年まで、本社直属部門は、事務・経理、運輸
、地方経営、鉱山経営から政策立案や研究開発などを幅広く担う興業部門が活きていた
。慢性化や賄賂供託忖度が横行する白人経営の行政からすれば、極めて厳格で活気を秘
め成長著しい会社で、海外では五年かかる事業を一〜二年で満鉄は行うとして「脅威」
の国に日本が見えた事が数々の記述に残る。こうして満鉄は必要に応じて子会社を作り
暖簾分けしている。たとえば、運輸業では、大連汽船という海運会社を設立し、大連を
起点に安東(丹東)、天津、青島、上海、新潟、敦賀などに定期航路を開拓した。又、
大連市内に電気が余ると、路面電車が導入され、大連電気鉄道という子会社をつくり、
その経営を託した。大連や鉄道付属地の都市に対しての電気やガスの供給についても、
当初は満鉄が直接おこなっていた。しかし後にはそれぞれに、南満洲電気株式会社と南
満洲ガス株式会社を設立しその業務は移譲された。これらは満洲重工業開発株式会社の
本社が出来て更に発展する。満洲重工業開発は、日本産業株式会社(日産コンツェルン
)の満洲国内への資本導入によってつくられた満洲国の国策会社となった。建物は自社
ビルではなく、東洋拓殖が満洲国の首都新京の目抜き通りであった大同大街に而して、
1938年に新築した新京東拓ビルに入った。設計は東京の池田吉治建築事務所が行い、施
工は大連の福島公司が行った。しかし満洲事変から満洲国の成立を経て、満洲国の産業
を牛耳った満洲重工業開発株式会社設立に至るまでのあいだに、満鉄が果たした役割は
大きく、関東軍との馴れ合いが出来て満州経営は軍部の台頭になり人民からの批判も、
革命の機運も高くなった。

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