まー


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まー

1: ふりーどまん:11/02/27 03:40 ID:hg
http://www.youtube.com/watch?v=KsTJuX8F7m8 
ドラえもん発見♪

198: 名無しさんAA:19/08/20 13:14
 朝鮮人に 喝!  255

 一方日本国内ではその支出を補うため、日清・日露戦争に際して日本国民は酒、石油
はもとより砂糖、菓子、醤油にまで課税されることになった。台湾、朝鮮、さらに南洋
諸島を得た後にも、その課税制度は変わらず、国民は重税を耐え忍び、生活が向上した
ということはなかった。日本からすれば、予想通り 国内を捨てての朝鮮半島の為の「
持ち出し」予算が常に必要不可欠となっていたのである。加耶大学客員教授である崔基
鎬(チェ・ギホ)さんは証言する。「朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国の
ためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。それは相当な覚悟が必
要です。(同志友人は韓国政府に暗殺されているので)生命の危険も覚悟しています。
しかし、これは私の使命であると信じています。 … … … 私はソウルに住んでいま
した。 そして、時々、平壌や東京に行きました。 その当時の韓国人は「日本人以上に
日本人」でした。(また日本人以上にに日本的豊かな暮らしが保証されていた) 劇場に
行けば上映前に戦争ニュースがありました。例えばニューギニアで日本が勝った映像が
流れると、拍手と万歳の嵐です。私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は
冷静でした。しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。それが普通の姿で
した。なので「親日派」という言葉は使用できません。その「使用できない言葉」を使
って、先祖まで批判しています。「親切でやさしい日本人」という印象を必死に消すた
め、指導者は「反日」を使い、そそのかしてきました。例えば韓国と日本の歴史認識を
比較すれば、日本が10%の歪曲があるとするならば、韓国は90%歪曲といってもいいで
しょう。朝鮮末期の異常な政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ、独立をすること
ができたように(ひたすら)書かれています。(しかし) 日韓併合によって「教育」
「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。近代国家の基礎が築かれたた
ことは明らかな事実です。その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾す
る韓国人にはあきれます。また、「日帝が民族産業を停滞させた!」 という主張には、
コメントする気持ちもなくなります。民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。近代化を
主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。韓国人は「日帝の
虐待!性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。(むしろ李承晩政権
が自国民を虐殺した。その)歴史の真実を知っているためです。朝鮮末期は「地獄」で
した。それは大韓帝国時代になっても同じでした。1904年、日本は朝鮮の惨状を救う為
に、(しぶしぶ)財政支援を決断した。例えば 1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だ
ったが、歳出は3000万円以上でした。 その差額は日本が負担していました。 1908年に
はより一層増加し、3100万円を支出している。私は現在既に92歳の老人です。この真実
を(韓国の若者は)どう思いますか?独島も日本に返還すべきです。決して韓国のもの
であった事はなかったのですから。いつまでも奪取していていいはずはありません。隣
国の態度としていがみ合っていては何も解決しないし、戦争や紛争では国民が悲惨です
。まともに国つくりすれば、決して米国や日本が韓国を見離す事は過去も現在も未来も
ないのです。もう少し大人であって欲しい。このまま平和であって欲しいと願うばかり
です。




199: 名無しさんAA:19/08/20 21:18
 突然トランプ大統領はグリーンランドを買いたいなどツイートして問題になっている
これは一体?・・・と考えれば思い当たる節がある。かつてアメリカは米ソ冷戦時代に
、アラスカにおいて防諜電波を建設しそのノウハウを得ていた事から、同じようにこの
極寒のグリーンランドに基地を作っていた。まだまだ氷河で分厚くあった時期で、ここ
に同盟国によるソ連包囲網の一環として短距離核を3基置いていた。こうして秘密裏に
ソ連の持つ鉄のカーテンの舞台裏の様子の探査が始まったのだが。2〜3年は問題なく
いっていた。しかし、ある時豪雪があってその夏に深層なだれが起こった。温暖化の前
兆だったかもしれないが、ともかく百メートルを超す厚さの氷層の中に地下の秘密基地
があったのだが、すべてが動き壊れていこうとしたのである。あわてた米軍は艦隊を派
遣し秘密裡にその回収を図った。撤収作戦の開始である。ほぼ1年かかった作業は再び
ブリザードと氷河の流れに陥る。これによって重大なミスが明るみに出ている。一つは
核ミサイルの弾頭が無くなった事だ。それともう一つはこの基地に核の小型原子炉があ
ったことを撤収海軍は知らなかったことだ。こうしてミスとなった人命救出のみで撤収
作戦の続行がはかられたが、実はこの頃GPSは精度が悪くその場所が特定できずに、
いまでもグリーンランドを治めるスェーデン政府は怒っている状態なのである。つまり
いまや自然回帰し観光地化で生計立てている住民から 何の損害賠償でるか、あるいは
大きな大災害が起こるか確かめる必要に迫られることになったのではないか。と思われ
る。


200: 名無しさんAA:19/08/21 18:52 ID:Hg
 朝鮮人に 喝!  254

 韓国の悪態は尽きることなくあって、既にもう飽きる程ではあるが、今年やっと天皇
陛下の心情とか、朝鮮戦争の真実がぽつりぽつりと出てきているので少し書き加えたい
。まず日韓併合においては、まず伊藤博文は日韓併合反対派だったので暗殺された事を
日本人は知っておかねばならない。大韓民国がいつ建国されたかという論争には、日韓
間の歴史問題以上に、韓国民は韓国政府の主張する法理論の基礎をなし、大きな影響を
持つ事だがそれも又嘘にまとわれている。その為こお理屈は今後の徴用工判決にも適用
され、慰安婦問題をはじめ他の問題にも波及している。それは中国同様に政府が勝手な
道理に合わない独裁政治国家を振りかざして法治国家の形を曲りなりにも取っているか
らだ。韓国の憲法の前文には「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3・1運動により
建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した 4・19民主理念を継承し」と書
かれている。つまり、韓国の憲法は臨時政府を建国とみなして、と読み取ることを目的
に憲法改正が行われたからだ。行ったのは李承晩であり大法院を乗っ取って、この前提
に立って、米国に植民地支配であり、日韓併合が不法なものと訴えた。のだ。だがこの
訴えは勿論米国からも国連からも却下された法文である。もともと韓国は「日本に無理
に戦争に加担させられて、米国が勝ったのはこの臨時政府が米軍に参加して共同作業を
行いレジスタンス運動をしていたから勝ったし、その為韓国は同盟国であり戦勝国だ。
」と言い訳をしてそれを正当化したかったのである。ところが、実は日中戦争と言われ
る当初の問題は今の北朝鮮と中国の境界の水争いが原因であったのだ。当時は朝鮮語と
言うものはなくロシア語的方言と九州弁的方言更に中国の方言ウイグルの方言といった
言葉が日常会話であって、それぞれ6〜10の民族的言葉が交差していた。宮廷も当然
ながら中国語の漢文調だったがそれは正確な漢語ではなかったと言われている。この時
何故漢文漢語だったかと言うのは、かつてこの地で売るような産物が無かった事にある
。つまり中国の属国として中国政庁の重要書類や命令が漢語文で来ていたからだ。更に
そのつながりで中国文物の収集こそが宮中の仕事だったのである。そこで写本文化が育
っていて江戸以前では、書は韓ものと言われるぐらい西洋以前は韓国写本が日本で売れ
ていたのである。日韓併合後の川柳には「地図上の、朝鮮国に黒々と墨をぬりても 生
活楽にならざり。」と詠まれる程日本は朝鮮の生活向上に力を入れた。現実的にには、
日本政府は、韓国内の税収のほぼ2倍の金額=日本国民から徴収した税収の中15〜25%
=を毎年補助し総計では補助額は 20 億 81 千万円に上った(崔基鎬教授による試算)
。これを現在の貨幣価値に換算すると60兆円を超える金額とされる。更にには、ロシ
ア南下を食い止めた日清戦争後、勝手にロシア権益を移譲した条約違反行為で日露戦争
を起こして、その時の負債を返し、その時の線路権益などを買収返済していたのである
。フーバー米大統領の回想録では、初回朝鮮を訪れた1909年、日本の資本家に技術案件
を助言するため来訪したが、「当時の朝鮮人はアジアのどこにでも見られたようなこの
上なく無残な状態で、法も秩序も殆どなかった。」と述べている。「庶民はろくに食べ
ておらず、ろくな衣服を着ておらず、粗末に家に住み、殆ど家財も持っていなかった。
衛生設備はなく、汚ならしさと卑しさが国全体を覆っていた。道路は殆ど通じておらず
、通信施設、教育施設は乏しかった。陰鬱な景色に殆ど一本の木さえも見られなかった
。その上泥棒や強盗が跋扈していた。」しかし「日本統治の35年間に朝鮮人の生活は
革命的に向上した。全く将来性がなかった朝鮮人という人材から、日本人は秩序を確立
し、朝鮮に港湾、鉄道、道路、通信手段、立派な公共建築物、大きく改善された家屋を
もたらした。衛生施設を設け、農業の改善を教えた。北朝鮮には巨大な肥料工場を造り
、国民の食料事情を合理的水準にまで引き上げた。裸の山には植林を行い、普通教育の
制度を設け、技能を高めた。朝鮮人が着ていた埃まみれの汚れたさえない衣服も清潔で
きれいな色の衣服に取って代わっていた。」と驚いているのである。


201: 名無しさんAA:19/08/21 18:52
 朝鮮人に 喝!  255

 一方日本国内ではその支出を補うため、日清・日露戦争に際して日本国民は酒、石油
はもとより砂糖、菓子、醤油にまで課税されることになった。台湾、朝鮮、さらに南洋
諸島を得た後にも、その課税制度は変わらず、国民は重税を耐え忍び、生活が向上した
ということはなかった。日本からすれば、予想通り 国内を捨てての朝鮮半島の為の「
持ち出し」予算が常に必要不可欠となっていたのである。加耶大学客員教授である崔基
鎬(チェ・ギホ)さんは証言する。「朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国の
ためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。それは相当な覚悟が必
要です。(同志友人は韓国政府に暗殺されているので)生命の危険も覚悟しています。
しかし、これは私の使命であると信じています。 … … … 私はソウルに住んでいま
した。 そして、時々、平壌や東京に行きました。 その当時の韓国人は「日本人以上に
日本人」でした。(また日本人以上にに日本的豊かな暮らしが保証されていた) 劇場に
行けば上映前に戦争ニュースがありました。例えばニューギニアで日本が勝った映像が
流れると、拍手と万歳の嵐です。私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は
冷静でした。しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。それが普通の姿で
した。なので「親日派」という言葉は使用できません。その「使用できない言葉」を使
って、先祖まで批判しています。「親切でやさしい日本人」という印象を必死に消すた
め、指導者は「反日」を使い、そそのかしてきました。例えば韓国と日本の歴史認識を
比較すれば、日本が10%の歪曲があるとするならば、韓国は90%歪曲といってもいいで
しょう。朝鮮末期の異常な政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ、独立をすること
ができたように(ひたすら)書かれています。(しかし) 日韓併合によって「教育」
「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。近代国家の基礎が築かれたた
ことは明らかな事実です。その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾す
る韓国人にはあきれます。また、「日帝が民族産業を停滞させた!」 という主張には、
コメントする気持ちもなくなります。民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。近代化を
主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。韓国人は「日帝の
虐待!性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。(むしろ李承晩政権
が自国民を虐殺した。その)歴史の真実を知っているためです。朝鮮末期は「地獄」で
した。それは大韓帝国時代になっても同じでした。1904年、日本は朝鮮の惨状を救う為
に、(しぶしぶ)財政支援を決断した。例えば 1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だ
ったが、歳出は3000万円以上でした。 その差額は日本が負担していました。 1908年に
はより一層増加し、3100万円を支出している。私は現在既に92歳の老人です。この真実
を(韓国の若者は)どう思いますか?独島も日本に返還すべきです。決して韓国のもの
であった事はなかったのですから。いつまでも奪取していていいはずはありません。隣
国の態度としていがみ合っていては何も解決しないし、戦争や紛争では国民が悲惨です
。まともに国つくりすれば、決して米国や日本が韓国を見離す事は過去も現在も未来も
ないのです。もう少し大人であって欲しい。このまま平和であって欲しいと願うばかり
です。



202: 名無しさんAA:19/08/21 18:52
 朝鮮人に 喝!  256

 日本は日清戦争で実は朝鮮半島の領有権を中国からもぎ取っている。理由は簡単で、
日本がアメリカに開国を迫られて軍備増強に勤しんだからだ。開国後明治新政府が出来
るが、その間に薩摩や長州は英国との戦争を起こして、日本人の気概を見せていた。又
開国前後の日本との外交も長く日本の気性を判っていた英国は、自国が植民地支配危機
に追われている中に、クリミア戦争に追われ当初の「ロシアの南下を食い止める」とい
う国策が中東では行っても極東ではできなくなっていた。そこで日本と日英同盟を結び
その対策に日本を担ぎだしたのが日清・日露の戦争であったのだ。またこの時戦争での
疲弊した国力維持に世界に倣って賠償金を請求したのは当然だった。日清戦争でのこの
金は八幡の官営製鉄所に使われたとされる。またこの時に朝鮮の遼東半島の領有権は得
ていたが、1895年(明治28年) 4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が
日本に対して行った勧告で手渡した。この下関条約で、日本は清から2億両の賠償金や
遼東半島、台湾などの割譲を得たされるが、遼東半島は満州南端に位置した旅順・大連
という良港は、早くから兵器製造所などがある当時のアジアや極東の重要拠点都市だっ
た。日本の自国領土としての主張は当時では当然の権利であり、今後の後顧の憂いを絶
つものとして有効なものだった。しかしまだウラジオストックなどの都市も無い中で、
アメリカと共に欧州戦線で中国権益に出遅れていたロシア・フランス・ドイツは、この
極東の一島国がアジアの強国となるのを嫌っていたのである。又日本と言う国の文化も
言語も習慣もしらないで、東南アジアの野蛮な国ぐらいの認知しか国内にはなかったの
だ。こうして当時極東政策を進めていた各国は申し合わせて、威圧的に日本に中国への
返還を促したのである。英国も米国もこれには反対ではあったが、クリミヤ戦争で同盟
国となったフランスとドイツあるいはロシアとは表だって反対できない中にあったのだ
。当時フランスは、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャ
と、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャ
ツカ半島にまで及んだ、第一次世界大戦なみの近代史上稀にみる大規模な戦争である。
モンテネグロはやセルビアあるいはボスニアはそれぞれの支援や助言受けて独立の為に
善戦するも、兵力の上で圧倒的に不利な小国であり、スラブのユダヤは疲弊していた。
1852年12月にオスマン帝国がアドリア海に艦隊を派遣すると、ロシア帝国からの助言の
下に和平交渉を進めたが、当時皇帝ナポレオンに追われたイタリアやギリシャあるいは
ドイツの公国群が義勇兵を引き連れて十字軍の様な様相であったが、そこにプロテスタ
ントのイギリスやフランスが同盟国としてオスマンを押していた。極東でもカムチャッ
カでは英国領や仏領のアメリカ人とロシアの商人が争いその中に原住民も巻き込まれて
戦争に至っている。これは一般的に東方問題とされていた長年のロシア=トルコ戦争の
一環であったが、急速な鉄文化の普及で、大きな戦争となり、ロシア正教カトリック更
にプロテスタントとイスラム各宗の確執も交えた領土獲得食料増産の為の合戦となった
実はここに、三国干渉があり朝鮮半島もある意味影響を及ぼしていたのである。この時
の戦争で後進性が露呈したロシアは、急速に内政改革をし、外交で手腕を発揮できなか
ったオーストリアは国際的地位を失った。国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整え
たサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に台頭し、
ここで影響力を持つようになった。北欧政治にも影響を与え、米国の独立戦争にも北方
整理が急がれ、英仏艦隊によるバルト海侵攻にも艦隊が派遣された。イギリスフランス
の国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及し、こうしてロシアが南下
を朝鮮半島に向けたのである。


203: 名無しさんAA:19/08/21 18:53
 朝鮮人に 喝!  257

 日本政府は知っていたか知らなかったかは不明のままだが、おそらく欧州使節団が出
て国際社会や世界が危険なことは充分認識していたのであろう。日本の国力では三国に
対抗できないことが分かっていた日本は三国干渉による勧告を受諾し、遼東半島を清に
返還する事を決めた。しかし返還についての約束は反故にされ、事実上ロシアの保護下
にトーチカ建設が行われロシア軍の要塞化が着々と進んでいったのである。こうした事
で日露戦争になったのだが、この三国干渉で返還した事は朝鮮王朝の親日派の居所を無
くさせた。朝鮮王朝の政府内部には、まだまたロシアと結んで日本の勢力を排除しよう
と画策する親露派が中国派と共に3割ほど形成されていたが、それが7割にも達したの
だ。というのも強国についていくべきというのが大勢を占め、その急先鋒で中心となっ
たのが閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)である。その動きを危ぶむ日本は公使として
三浦梧楼を送ったが、その後1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃ら
を殺害し死体を焼き払った事件が起こった。乙未事変である。これは中国に返還したの
であってロシアに近づいた事で多くの中国派の発言が抑えられたからと言われる。三浦
梧楼は長州出身の軍人で、韓国駐在の公使となったのは、前任の公使の長州の井上馨の
推薦で、伊藤博文と山県有朋が決定したものとされる。どれだけ支援しても閔妃の浪費
は止まらず、国費は負債が嵩むのみであり親日になびくことなく親ロシア路線を通した
と言われる。しかし、独立を願っていた多くの民衆は日本型明治政府の形を望んでいて
暗殺計画や襲撃計画が多々あったとされる。その頃高宗は自国も又富国強兵が必要とし
て、自国軍隊を養成する事をしていた。訓練部隊の創設である。ところがなかなか集ま
らず、日本からの大陸浪人と称した者を雇用していた。此の頃は朝鮮人にも国家の危亡
を訴える者が増加し、彼等いわく、宮中の意は、先ず訓練隊を解散して政府の武力を奪
いて云々・・・であった。つまり宮中や国内共に改革の声が高かったのである。この乙
未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年
10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、
日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。
とされているが、実はそうじゃない証言も多々ある。三浦公使が高宗に呼ばれて、杉村
書記官と共に王宮に向かったのは午前8時ごろ。待機していた大院君の許へ勅使が派遣
され、「速やかに参内すべし」と伝えたのは10月8日午前8時30分頃。高宗、三浦公使と
の三者会談。三浦が日本守備隊までを動員して王宮を占領したが、侍衛隊がはいったの
は侵入せし者より僅か後であった事がアメリカ人教官ダイとロシア人技師サバチンの二
人などで目撃されている。乾清宮の前庭に立って、日本人集団の暴行を初めから目撃し
侵入隊は、第二の中門をくぐり、康寧殿のそばに大院君の輿をおろし、閔妃殺害まで、
大院君はここで「国王の允許を待つ」として。一部の日本兵が大院君護衛のために残り
、他の将兵が王宮の奥を目指した。というものだ。右の間道を進んだ民間人の一団は、
荻原警部を先頭にほとんど抵抗を受けずにいたし、本道では侍衛隊の抵抗を受けた日本
部隊より先に乾清宮に到達している。いずれも日本隊が入場を制限され、不審な侵入隊
は朝鮮人の王宮の侍衛隊に案内されたかのように入場し殺戮し帰っているのである。閔
妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、日本は三浦梧楼らを召還し、裁判
にかけたが、証拠不十分で犯人や動機や背景はわからず、企てたとされた三浦梧楼の、
閔妃暗殺と、そのあとの親日政権樹立は計画があった。とされた。つまり計画実行の前
に計画が朝鮮訓練隊の中にいただろう大陸浪人達に横取りされた形だったのである。


204: 名無しさんAA:19/08/21 18:53
 朝鮮人に 喝!  257

 朝鮮側の調査資料、広島裁判の記録、内田領事の報告書などを突き合わせてみると大
きな間違いがある。一つは乾清宮の神寧閣には、多数の宮女がいて。暴徒たちには容貌
、服装の美しい二人を斬殺しさらに一人を隣室の玉壺楼で殺害した。しかし、誰も閔妃
の顔を知らず、女官と王太子を連れてきて首実検し、玉壺楼で殺された最後の一人がや
っと閔妃だったと確認出来た点である。三浦公使は少なくとも外交官で知らないはずも
なく当時の事件が杜撰であった事が伺える。事件前には「狐狩り」と言い、事件後には
「これで朝鮮もいよいよ日本のものになった」と発言した。とあり事件の首謀者は彼で
あろうと推測をたて、単に日本の影響力を回復するだけでなく、一気に従属国化まで図
ることを目的に閔妃殺害を図ったもの。と解釈されているがこれも作り話の域を出ない
。事実この犯行計画は、「夜陰に乗じて暗殺を決行」であったのが遅れて朝以降までも
つれ、宮中の女官らやアメリカ人教官・ロシア人技師など、多数の人が目撃している前
で犯行・殺害を行っている。閔妃の当時の夜遊びの習性から、陽が昇ってから寝所に入
ることが多く夜襲が不可能だった事ぐらいは周知の事実となっていたのだ。高宗・閔妃
が起きていれば、周りの女官や担当官なども皆起きているのが当前で現に、内田領事は
殺害当日の午前2時に国王に拝謁(角田前掲書)していたぐらいだ。この国王や王妃の
夜更かしの習性が、公使館内で広く知られていなかったはずはない。すると、たとえ、
夜明け前でも、宮中の多数の人の目撃が避けられない環境にあって問題化すると考えた
のは当然のはずだ。さらに薬殺や幽閉もできた中でわざわざの襲撃なのである。また、
国内事情としてそもそも従属化を図る宮中に庶民は大きな反発があり、赤字財政の破綻
は跳ね上がるばかりだったのである。高宗・閔妃から王権を奪取すればいいというのは
短絡的で、その後ろにいた旧帝の大院君・李呵Oに政権を移す事を中心とすれば、日本
は更に朝鮮と遠のく事は日本軍や政府はわかっていたはずだ。つまり、日本には襲撃の
理由はなく、逆に襲撃は困る話だったのである。例え大院君・李呵Oへの王権交替が出
来ていたとしても、背後に中国やロシアや日本がいることは変わる事はなく、大院君・
李呵O体制は更に日本より中国よりの思考で日本が望むように安定するにはやはり日本
からの資金援助しかなかったのだ。実は大院君・李呵Oは兄であり祖父興宣大院君によ
り、高宗の代わりの国王に意図された人物だった。しかし母后などの反対で退けられ、
高宗が王となっていた。この事変の前、1894年 7月23日に王宮襲撃事件があっていて、
日本公使館と混成旅団が事前に十分な協議を行い、軍事行動は旅団を挙げて組織的行動
襲撃していた。この事で大院君・李呵O1895年 5月に、親日派内閣大臣の暗殺を陰謀し
たという罪で捕まり、特別裁判所で死刑判決を受けていた。しかし、大院君の嘆願によ
り、国王の特赦で流刑に減刑され、その年 8月特赦で釈放されていた。この頃既に前任
の井上馨が公使就任で来た頃、朝鮮半島には東学党の乱と言う西洋化反対運動が起こっ
ていてこれが朝鮮国王を補佐する国王の父大院君と、京城統営という軍のトップであり
大院君の孫である李呵Oによる教唆扇動があって、それが東学党の乱を起こしていた事
が判明している。つまりすでに宮中闘争があって国王の印が押された密書が出回ってい
て今の管制デモを企画し、外国人排斥に出ていた事がわかっている。このトップが日本
を担いだ父大院君と兄李呵Oであり、どうも高宗国王も含めた計画で、閔妃殺害をした
。と考えたほうが一番しっくりいく経過のようなのである。


205: 名無しさんAA:19/08/21 18:53
 朝鮮人に 喝!  258

 当然こうしたことで外国の目が厳しくなって、三国干渉以後、井上馨も日本政府も、
従属国化という課題は成り立たなくなった上に、日本主導の内政改革も困難となった。
また事件の影響力も強く、日本の影響力確保が不可能となった問題がでた。日本政府が
この事件を知ったのは、楠瀬中佐から川上参謀長あての、10月8日午前8時50分発の電報
で、「大院君が訓練隊を率いて王宮に入った」の知らせをきいてからだ。又、 9時20分
新納在韓公使館付武官から伊東海軍軍令部長あて、「国王無事、王妃殺害せられしとの
ことなり」。午後 1時30分、西園寺外務大臣臨時代理は三浦の午前11時発の電報を受け
取っている。「大院君のクーデタ」、「王妃は行方不明」と騒がれる中。午後 3時30分
、やっと三浦から西園寺宛に、「王妃の所在はいまだ詳らかならず。多分殺害せられた
るならん。日本人の之に加わりたるや否やは取調中なり。」と電報が打たれている事は
はっきりしている。つまり状況的には確かに日本は時の李氏韓国をどうにかしたいとし
圧力を強めていたことは確かで、更に日本から渡航した大陸浪人や宮中や商業的にも、
多くに革命運動とはつながっていたであろう。しかしどう考えても日本がやったと思え
ない。現にその後日本は反発を受けて更に朝鮮政府はロシア寄りになるのである。その
後日露戦争がおこるのだが、近頃、モスクワ郊外の町バラシハで、ロシア航空宇宙軍創
設記念日の9日に日本武道フェスティバル「ロシアの翼」が開催されている。ロシアの
翼とは、日露戦争の最中だった1905年 5月28日に、島根県江津市和木真島沖で遭難した
ロシアのバルティック艦隊「イルティッシュ号」の乗組員265人を、沖合まで船を出
し地元住民が救助したエピソードを、歌と寸劇で紹介された題名である。こうした知ら
れざる歴史は本当は多くあり、外国船員救助といえば、1890年に遭難したオスマン帝国
(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号の乗組員を、和歌山県串本町の住民が助けた
エピソードが有名だろう。「ロシアの翼」では、フェスティバルのハイライトとして、
日本側の作詞作曲による「イルティッシュ号の歌」が披露されたほか、ロシアからの「
返歌」として作られた歌「ブージム・ポームニチ」(いつまでも記憶に)が披露された
といい。この歌は、イルティッシュ号の史実について知ったロシア功労芸術家のウラジ
ーミル・ミハイロフ氏が作曲し、ミハイロフ氏の友人で詩人のウラジーミル・パスィン
コフ氏が作詞したものだという。吉山さんが2018年 1月にイルティッシュ号の史実が初
めて絵本になり広められた形だ。日本とロシアの友好に役立てようと働きかけてきたら
しい。「祖国に戻ったイルティッシュ号の乗組員たちは、いったん捕虜になったのが、
その後、本国に戻り、それぞれの生活に戻ることができたとされている。日清戦争でも
ドイツ人捕虜が収容所内でそれぞれ洋菓子屋やパン屋やハム屋や自転車屋などを開いて
、それぞれ母国の国内事情で帰れない為日本で独立した話などは数多く残っている。又
この外国人対応の良さが日本への技術者派遣や翻訳者を育てた話も聞く。こうした10
年くらいの朝鮮半島のモヤモヤ政治が行われたが、結局は日露戦争(にちろせんそう)に
至った。日露戦争は、1904(明治37)年2月8日から1905(明治38)年9月5日にかけて約一年
かかったロシア軍の旅順要塞を占領でしかない。大日本帝国(日本)とロシア帝国の間で
1904年に開戦し、翌年に日本は奉天会戦で大勝利し、その後の日本海海戦ではロシアの
バルチェック艦隊を破って、1905年9月に日露両国は、アメリカ大統領のセオドア=ル
ーズヴェルトの仲介でポーツマス条約を締結し、日露戦争は終結した。


206: 名無しさんAA:19/08/21 18:54
 朝鮮人に 喝!  259

日清戦争に勝利した日本は、清国の属国として数百年ものあいだも扱かわれてきた朝鮮
から、中国に手を引かせ、朝鮮を独立国とすることに成功したものだったが、朝鮮自身
がその意味を知らなかったし、朝鮮皇帝にはその外交や行政の形式や形態すらわかり得
なかったようだ。また、この日本の勝利は、それまで清国こそがアジアで最も力のある
国とみていた欧米列強に、アジア戦略を見直させるほど衝撃を与えたらしい。特に衝撃
を受けたのは、「アヘン戦争」以来、清国を脅かしていたイギリスと、東アジアに南下
政策で圧力をかけていたロシアであり、そして、この頃スペインとの戦争に勝って、フ
ィリピン、グアムを手に入れ、さらにハワイをはじめ太平洋の島々を領有・植民地化し
ていくアメリカさらにこれから進出しようとしたドイツ・フランスは死活問題の三国と
なっていた。当時の世界情勢は、主に米英露の3国が覇権争いを繰り広げており、その
主戦場が東南アジアと清国の領土、朝鮮半島、および日本列島となっていた事実がある
。このロシア、ドイツ、フランスの三国が、日本が日清戦争で得た清国の領土とされた
遼東半島の領有権の放棄要求はひどいものだった。放棄しない場合は、この三国と戦争
することになる。という明言がはいった、まさに恐喝で「脅し」以外の何ものでもない
もので欧州の国際外交が起こっていたのである。その上ロシアは、日本の放棄に対し、
清には領土を日本から返還させてやったぞ。という恩着せをし、朝鮮宮中には黙れとい
わんばかりの工作を行っていたのである。その遼東半島を清から租借する(借りる)と
いう名目で手に入れた離れ業は、清国との領土の国境線紛争も大きく関係し、清国領土
の領有権を次々に主張していた。そして周到に準備されたこうした工作で、経済と軍事
力と賄賂と人民威圧と巧みに駆使して、朝鮮半島のすぐ北に自国の軍を配備するまでに
いたったのである。従って歴史的には清国に頼り、現状ではロシアに頼った行政移行で
、日本が日露戦争に勝った事は、大きな問題だったのである。この日露戦争では日本軍
の被害は莫大なもので昭和の時代まで借金返済を背負ったし、国民のほとんどの身内に
一人は戦地に出向いただろうと言われる。もちろん死者も数多く、学者は小村寿太郎が
満鉄経営に共同経営を持ち出したアメリカの提案を蹴った為に後の日米戦争に至った。
などと言っているが、遅かれ早かれそれは人種差別主義に埋もれた西洋社会とアジアの
盟友としての誇りは衝突せざるを得ない状況だったのである。これまで、約400年も
の長きに渡って世界中の有色人種の国々では、肌の色で区別され人々が何の根拠もなく
虐げられ、搾取され、奴隷として連れ去られる暴虐が日常的にある程常識的だったが、
こうしたまともな人間としてさえ扱われて来なかった有色人種にとって、この日露戦争
の勝利は、そんな有色人種の命運を変え人々に計り知れない勇気や希望を与えた戦勝結
果だったのです。これには仲介者アメリカでも腹が立つほど苦々しいことだったのであ
る。何故なら当時のアメリカ経営は多くが黒人奴隷で成り立ち、アジア女郎で経済が回
っている状態だったのだ。当然チャイナタウンには韓国女性の娼婦はかなりいたのだ。
ここで我々はこの時代に深く思いを寄せても尚時代を知れない事を深く考えるべきだ。
この朝鮮半島の戦いには日本は英国からは、陰で応援されたがそれ以外は孤立無援の中
でアジアはもちろん現地朝鮮人すらかも手助けされなかったのだ。逆にカザフの騎馬隊
すなわち黒海付近の中央アジアの遊牧民が対ロシアと言う事で義勇軍がいたぐらいで、
中国も朝鮮もまったく日本無視を装っていた事だ。

207: 名無しさんAA:19/08/21 18:54
 朝鮮人に 喝!  260

 小村寿太郎の日露の賠償金交渉は苦難の連続で、とうとうアメリカは仲介者として、
もう一度戦争を再開するか。と日本側に威嚇するほどだったと言われる。アメリカとし
ては、アジアにまだ権益足場が無いこと、有色人種を奴隷に使っていた事西洋社会での
地位のない日本を応援する事で欧州社会から蹴られること。などの背景があって全くの
仲介者の地位になかった。事実アメリカは独立戦争の痛手のままで、欧州ユダヤからの
借金で膨大な負債の返済を迫られていたのである。本来であれば、元老の伊藤博文が担
うべき立場だったが、実はこうした事象を知っていて会議が難航することは誰の目にも
明らかだった。更に同様な事がロシアにも起こっていて、しかもこの時のニコライ皇帝
は日本の大津事件で暴行をうけ刺されていた皇太子が帝位についていたのである。そう
した事情で、伊藤博文は簡単に拒否した。というのは、彼は苦学生で渡航当初に追いは
ぎにやられ勝手に奴隷として売られた経験があってアメリカの非情さが解っていたから
だ幸い売られた先の主人が大変な人権意識のある人で開放し、その後歴史に残る偉業を
したが、彼はすでに老いて国際社会の理不尽さにうんざりしていたのだ。そんな中で、
「貧乏くじ」を、あえて引いたのが小村寿太郎である。彼は第1回文部省留学生として
、ハーバード大学法学部に入学している。卒業後はニューヨークの法律事務所で、実務
経験もあり、英語は堪能であったし法律にも詳しかった。実は当初の和平交渉打診は、
陸奥国出身の駐米公使の高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化している。
この頃桂内閣が発足し、戦前には桂の主戦論と伊藤の慎重論が対立していた。つまり、
伊藤博文にすれば言わんこちゃない。何故尻拭いばかりなのか。という思いだったのだ
ろう。この頃小村寿太郎は、上司を批判したとして、長く仕事に恵まれない環境にあっ
た。外務省内では、小村寿太郎の才能は出来過ぎで評価は厳しいものであった。外務大
臣・陸奥宗光が小村の才能を見出して、それがきっかけで外交官としての道を歩み、先
の日英同盟に難なくこの大役を果たしていた。そうしたつながりと実績で選任された。
1891年に、大津事件で来日中のロシア皇太子ニコライが斬りつけられて負傷して、責任
をとって外相青木周蔵が辞任しているが外務大臣はかなりのリスクがある。この時欧州
では、対スラブ戦略とトルコ対策で、露仏同盟を締結するに至っていた。ユダヤ資本と
されるベルギー国内の大小の国際商会は、銀行に預けその預けられた資産管理はフラン
スの銀行が管理して利潤を得ていた。英国の10倍米国の70倍と予想された資産であ
る。このフランス資金で、シベリア鉄道の建設を開始しその開通式にロシア皇帝は日本
に立ち寄っていた。しかし日清戦争(1894年〜1895年)に日本が勝利し、日清講和条約
が締結され権益が失われようとした。そこで1895年ロシアは三国干渉を主導して、遼東
半島を清へ返還させ、翌1896年清と露清密約を結んで東清鉄道の施設権を獲得し成功を
得たのである。その後 日本は、1898年には遼東半島の旅順・大連を租借し、(旅順港・
大連湾租借に関する条約)を結び、同年ロシアは朝鮮から撤退させ、日露間での 韓国へ
の勝手な干渉を制限する西・ローゼン協定が締結されていた。


208: 名無しさんAA:19/08/21 18:55
 朝鮮人に 喝!  261

 しかし、ロシアは1900年、義和団の乱の際には、帝政軍が、江東六十四屯の村々に入
り虐殺を起こった。江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん)とは、アムール川域の
(黒竜江)の左岸(東側)に広がる 3,600平方キロメートルに及ぶ中規模の中国人居留
地区の集合村名つまり地域名である。中国・黒竜江省黒河市の対岸で、ロシア側の都市
ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)や南側(ゼヤ川より東)の一帯に64箇所の村落があっ
たためこう呼ばれていた。頭越しの清朝とロシア帝国の間で1858年に締結されたと言わ
れるアイグン条約で、清の領土だったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲された。
今の香港のような頭越しの大国契約の状態である。こうして「江東六十四屯」地域には
大勢の中国人居留民がいたが一掃する為に、ロシアは軍を派遣したのである。その後に
なかなか決着がつかずアムール川左岸はこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置
かれることになったが、その混乱に乗じて満州の南北全域を支配しようと画策していた
。1902年になって、日本にはこのロシアの清進出を嫌うイギリスが日英同盟を希望し結
んだ。もともとこの地区は騎馬民族の馬賊つまりオスマントルコの支配地だったので、
その帰属は清にもロシアにも無かったのである。ロシアは清国と満州還付に関する露清
条約を結び、一時満州からの撤兵を始めたものの、その後には、皇帝の威信も弱くなり
、対日強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフが台頭して、1903年に満州からの撤兵
を中断して、逆に朝鮮の鴨緑江河口の龍岩浦へ軍事基地を設置しようとしていた。これ
が日本の危機に映った(龍岩浦事件)。このスラブからモンゴルにまたがる地はユダヤの
地であり、伊藤が全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフや鉄道王のエドワード
・ヘンリー・ハリマンの先頭に立っての支援を知っていた。この日本の国債を買い支え
で日露戦争の資金繰りをしていたのだ。しかし、アメリカ政府や国民は、その後の満洲
、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していたのである。
そうした裏事情は小村も知っていた。しかしこの日露交渉は難航に難航を重ね、朝鮮の
ロシア鉄道の権益をもぎ取り、樺太やシベリアの共同使用や分割線の決定で落ち着き、
日本への賠償金支払いまでは至らなかったのである。ロシア側のウラジオストックなど
の共同統治は、この大陸横断鉄道の運営に利益を生むと見ていたし、日本は大陸割譲こ
そなかったが、樺太とこのアムール川域の活動には障害のないものとなった。もともと
ロシア事情は、外交どころの話ではなく自国の革命が進行中だったのである。桂政権は
、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本
的に解決することを当面の目標とする」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せ
ざる覚悟無かる可からず。」という対露交渉方針を決めていた。こうして日本では国際
情勢や国内事情に合わせていたが、朝鮮国王はその基(もとい)となる民衆の信認もな
かった為、この日露戦争には何ら日本に手伝う事はなかった。それどころか宮廷内親露
派と親中派はこぞって連絡を取り合い対日抗戦に物資や情報を与えだして、やっと日本
は勝ったのである。


209: 名無しさんAA:19/08/21 18:55
 朝鮮人に 喝!  262

 ヘンリー・ハリマンが日本に満鉄の共同運営を持ち掛け小村寿太郎によって御破算に
なった事は日本では当然の事でで、まったく海外の不信の中を日本が漂い始めていたの
である。もし今の文氏が言うように朝鮮国や朝鮮人が世界的に認められる国として行動
があった。と言う過去があったなら日韓併合もなかったであろうし、アヘン戦争の後の
所有地英国領が、恐らく香港などでなく朝鮮半島に置き変わっていたであろう。何故な
ら朝鮮半島の領有の方が遥かに長崎に近い利とロシアの威嚇という軍事上の利があった
のだが、マラニアなどの伝染病があっても香港島を求めた訳は、朝鮮の小汚く臭さには
英国人は耐えられなく、水や食べ物が取れなかったからだ。と伝えている。この食物の
差はロシアの雪を溶かして飲み、トナカイを解体して食するロシアには関係なかったが
、ワインやシャンパンを飲み、ブドウやレモンなどの果物や野菜を食した英国などには
耐えられない匂いと環境だったのである。又イギリスは、すでに世界中に広げすぎた頃
で植民地経営に苦慮していた。ロシアの勢力拡大をこれ以上許したくなかったわけでは
あっても、直接ロシアを相手に戦争をするほどの余裕もなくなっていた。できれば自国
の国軍の手を煩わせたくもなく、経済的にも国費は底についてアメリカをユダヤに売る
ほどだったのだ。米国独立戦争は、面白いことに米国居留民が戦争したが、この兵器の
売却にはフランス資金ユダヤ資本家が貸付し、結局は宗主国イギリスも米国居留民も、
払えない程の借金が派生して、合衆国となって合同資本で返す形にしたものだった。国
が大きくなることが資本家との国債変返還の日延べ交渉に有利だったからだ。結局米国
は今日まで政府の紙幣発行権利を持つ事は出来なかった。戦争が公共事業だと揶揄され
るほど戦争に後押しされて戦後不況が襲っている間にユダヤ議員が増えた議会を形成し
ていたからだ。こうして朝鮮人の応援しない日露戦争は終わりを遂げたが、朝鮮人や現
代人の間違いは、米英の植民地のように、ある時戦争し一括して条約をして帝国日本に
組み入れられた。と言うものではなかったのだ。日韓併合はこの日露開戦での勝利に対
して三国干渉の契約は履行できなかったが、今後の国際社会は朝鮮半島の領有所有権の
履行を保証し、どこの国でもこれを侵さないと言う確約の元に、ポースマス条約が成立
した事いよる。従ってヘンリー・ハリマンは米政府を動かすこともなく私企業の合同経
営の申し出にしかならなかったのである。1910年8月 29日に公布施行された「日韓併合
に関する条約」に基づき日本が行なった韓国領有。日露戦争の結果、調印されたポーツ
マス条約 (1905) 第2条日英同盟、又改定された第3条においてそれぞれ日本の韓国に
おける政治上や軍事上および経済上の卓絶した地位が、この時再確認され承認された。
それでも日本は紳士的に植民地経営はしなかった。つまり日本の領土とはしなかったの
である。日韓協約によって日本は韓国の外交権を獲得し、韓国は国際法上の保護国とな
っての統監がおかれた地位を与えてたが、属国気分や自治独立の意識のない朝鮮では、
ハーグ密使事件、伊藤博文暗殺、李完用刺傷、啓蒙運動、義兵闘争、農民反乱などの、
宮廷指導の日本排斥の攻略を、親中派や親露派が官製闘争を続けていた。多くの民衆は
まったくこれに乗らなかった為広範な運動はあったが、皇帝の地位は失墜し、10年8月
22日第3代統監寺内正毅と首相李完用の間で「日韓併合に関する条約」に調印がなされ
ていよいよ「併合」は強固なものとなった。条約8ヵ条の内容は,統治権の日本皇帝へ
の譲与、日本帝国への韓国併合、韓国皇族らへの尊称、歳費などの供与、功労者への栄
爵、恩金供与、日本の国法に従う韓国人の身体・財産の保護、日本への忠誠、韓国人の
官吏登用などが記されていて、これによって売春婦や苦力輸出で潤っていた宮廷の身売
り政治は止まり、李承晩などのコリアンカーストの上層部、両班達は廃れ、それまでの
奇妙な風習も風化した。

210: 名無しさんAA:19/08/21 18:55
 朝鮮人に 喝!  263

 この「併合」には親日派の一進会などの日韓合邦運動などがあったが,旧官人,貴族
層は併合に際しては自決したり親日派暗殺・反日義兵への援助・加入などを行なった。
又、知識人は言論機関を通して宮廷の言いなりに反対声明を出したり反対運動に加わる
事も多かったといわれる。また海外に渡航した朝鮮人達によって、ロシアやアメリカに
いる人も反対の言論運動を行い在韓外国人紙・誌も反対の論旨を掲げる事もあった。が
、しかし、大方の新聞はこぞって賛成を表明し明るい明日を論評している。何よりも、
政府筋はどの国も賛意と称賛をしたのだった。それはロシアの脅威に晒された国には、
日本は盟友の勝利国だったし、アジアの植民地では日本が希望の星だったからだ。島国
のこの国はその後、大日本帝国に変化を遂げ、軍隊をソウルなど韓国内要地に配置した
反対運動にそなえ総督府を設立し行政統治を開始した。称賛され先進国からの朝鮮債権
の返却に迫られながらも、ここに大陸朝鮮の日本統治が始ったのである。これは国際的
には不良債権化を止めた事で大いに喜ばれた併合になった。不運にも凶弾に倒れた伊藤
博文はその様子を見ることはできなかったが、その後朝鮮銀行などの設立でロシア人す
らも、日本の銀行制度のこれを利用することにもなった。野口尊(のくちしたごう)は
大正12年(1923)延岡工場を新設し、硫安を生産する工場開設した。ドイツの電球売りで
独学で知識や知故をえていた野口は日本でカーバイト開発や金山開発の木曾の発電所工
事などで資金を得ていた。こうして野口は郷里九州で会社を興し水俣にカーバイド工場
を設立した。カーバイトは膨大な電力を食う高熱での生石灰と石炭を高温で焼いて製造
した鉱物だったが、これが鉱山の電力供給の余剰電気を使って作られていた。日露開戦
の頃は、水との反応で発生するアセチレンガスによって、ランプ替わりや焚火代わり、
あるいは穀物の虫の殺虫防腐代わりに重用され昭和時代まで使われていたが、財閥群の
三井や日産などが相次いで市場投入し安価競争に陥った。そこで新たにチッソの元にな
る肥料工場、日本窒素肥料を開業させたのである。この式典に陸軍代表で長州閥の山縣
有朋の方から朝鮮開発が打診されている。こうして大正13年(1924)協議の上朝鮮への
進出を決定し、大正14年(1925)に北朝鮮赴戦江で水力発電の開発(20万kW)に着手した
。続いて長津江(33万kW)、虚川江(34万kW)を完成、鴨緑江本流には水豊発電所(70万kW)
などを次々に建設した。この時東京芝浦電気の元となった芝浦技術院は発電機の納入に
積極的に応援している。赴戦江ダム(ふせんこうだむ)は1929年10月にはダムが竣工、
鴨緑江の支流・赴戦江を堰き止め、面積約24平方キロメートルの赴戦湖が生成したダム
で、一気に朝鮮国内の農業生産が上がったとされる。又電力供給は朝鮮国を日本以上の
文化文明国に一変させた。1925年夏から久保田豊らが現地で調査し、1926年1月27日、
日窒コンツェルンの全額出資で朝鮮水電株式会社が設立され、赴戦江ダムと赴戦江発電
所の建設し、わずか3年で成果を得たのである。赴戦湖(標高1200m)の湖は27.5kmの
トンネルを通じて咸鏡山脈南麓の城川江に落とされ、20万KWの電力は朝鮮窒素肥料株式
会社・興南工場で使用された。ここで作られた肥料が又生産量を高めて日本の兵站基地
とされるほど増産がなされて潤った。又この時の日本は人種差別がなく、朝鮮人商会も
次々に会社を立てて、日本人と同等の単価取引をしたために、日本との貿易にも活気に
あって軍の接収がない限りには日本をも豊かにしたのだった。経済はわずか23年で、
560倍の流通とされる。



211: 名無しさんAA:19/08/21 18:56
 朝鮮人に 喝!  264

 陸軍が訪ねて資金と技術提供を求めた時、野口尊は腹をくくって朝鮮の経済運営に乗
り出した。その成果は僅か3年でだして5年後は日本を上回った。その後も資金投下が
なされ、朝鮮半島が日本の統治下であった1937年(昭和12年)に満州国や朝鮮の電力の
拡大確保の為、水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)が(北朝鮮平安北道の朔州郡と
中国遼寧省の寛甸満族自治県の鴨緑江上流の中朝国境)に建設された。日満国境のこの
ダムは、設置された発電機7基のうち、3基は朝鮮向けの60 Hz、3基は北京向けの50
Hz、1基は50 Hz、60 Hzどちらでも発電可能な物であった。竣工から70年以上経過した
現在もダム本体は大きな改修工事が行われず現役である。日本統治時代の末期に8年の
歳月をかけて建設され、その強力な発電能力は北朝鮮に戦後から莫大な富と電力をもた
らし、1948年春に金日成主席によって国章に含まれるまでなっている程だ。ダムは、高
さは約106メートル・幅約900メートル・総貯水容量116億立方メートルであり 建設当時
は東洋一の規模を誇った。又アメリカコロンビア川などのフーバーダムなどに引けをと
らない技術と先駆けをほこっている。ダムによって形成された水豊湖は長さ100km 面積
345km2にも達し、湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル)のほぼ半分にも
相当する。その後も華川ダム(ファチョンダム)を、大韓民国江原道華川郡の北漢江に
建設した。丁度今の朝鮮の南北国境沿いである川だ。ダム湖の名前は破虜湖(パロこ)
と呼称される。朝鮮半島の一次電力源として1944年に完成した。朝鮮戦争中には空襲の
目標となり、米軍は三回の攻撃でとうとう魚雷を持ち出しやっと破壊したという伝説の
ダムだ。このダムは北朝鮮の任南ダムからの洪水を防ぐ役目も担っていたし、首都ソウ
ルの電力を担っていたため、戦後の分断前には金日成がここで籠城し李承晩に圧力をか
けて李承晩は人民の人気を失墜させたといわれる。この日本統治時代の朝鮮におけるこ
うした努力は、第二次世界大戦下で日本人によって幾多の困難の中建設された。1939年
夏に漢江水力電気株式会社が建設を開始し、1944年10月に完工したが、最初の発電機は
その数ヶ月前に稼動していて、10月に第二の発電機が稼動している。この時の電気の使
用推定はどの国よりも遠くまで照らして街を灯している。こうして当時の朝鮮半島の国
力は、世界大戦前の特に日露大戦時とは比べ物にならないほど強大で、時のイギリス・
アメリカに勝るとも劣らない工業国に変貌していた。しかし近代的な戦争にも慣れてい
たアメリカの参戦で日本は敗戦の憂き目にあうと、日本人技術者も居なくなったしその
上、水豊ダムは1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍の侵攻により、7基の発電機のうち
5基を略奪された。略奪された発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川(エ
ルティシ川)上流のダムで使われていたという。また朝鮮戦争中にアメリカ軍機の攻撃
を受けたが、ダム構造が堅牢であったため決壊を免れた。ただしこの攻撃で北朝鮮では
発電能力が激減し、一時、広域にわたって停電した。休戦後に北朝鮮は発電能力を増強
して復興したらしい。華川ダム(ファチョンダム)は米軍機によって崩壊させられたが
ソウルは水浸しになった様だ、その後北朝鮮の上流にダム建設されると、韓国側は下流
にその防波堤としてダムを建設している。こうした歴史で韓国の今があることを知って
いるのだろうか。かつて日本の5倍の工業や産業が栄えて繁盛していた事を。しかし、
朝鮮人は戦後には、その平和や技術力や工業や産業は大事にしなかった。ロシアの盗賊
行為にも加担し米軍のダム攻撃にも李承晩は進言したほど同意して国民生活を疲弊させ
大統領の座を暗殺集団で防備したのである。


212: 名無しさんAA:19/08/22 11:24
 朝鮮人に 喝!  265

 実は今の韓国は、当時の朝鮮半島によく似ている。王宮内が三つに分かれ未来的思考
も国際的視野もなく言いたい放題の我がまま主張で国際社会から外された中でのロシア
の接近にぬか喜びの債権発行や権益譲渡を重ねに重ねたのがこの時代だったが、結果は
混乱に混乱を重ねて結局は日本が出てくるまで永年に渡り議会も民主化も果たせずに、
過去からの儒教の教義を、曲げに曲げを重ねて権力者や王宮の都合の言いように、ねじ
曲がった思想のコリアンカースト制を作ってしまっていて、そうした伝統を更に強くし
ていたのである。教育に力を入れず言語すら統一できず地方の指導は搾取のみに至り、
度々の反乱に中国からの制圧を頼み込んで、その代りに侵されるままだった。従って、
宮中は漢文漢語だが街は日本語長崎弁、田舎はウイグル語海岸は広東語といった姿だっ
たろう。人は時として他民族に排斥的である。中国社会では、楼閣城が作られそれらは
四階建てでかなり大きく外に壁内側に遊び働く場が設けられて一族郎党の数十や百人位
の一部落で住んでいた。これは砂漠の吐幡族やカシュガルの回教族と同じ形態だ。その
為北京の紫禁城もだだ広くこの中で全て使いの生活が出来るほどだった。しかし朝鮮の
生活様式はモンゴルのパオに近い。土中に洞穴を堀り糞尿を焚いて暖をとり冬を過ごす
。しかし、それは乾燥が早い北朝鮮地域でしか暖は取れない。南下すると共にペチカを
作り煙突替わりに床下に煙道を敷き一段下げてオンドルを置いた。そうした焚火生活で
朝鮮の山は禿山だらけだった。と言われるダムが出来るまでちょっとした高地では草す
らも育たず貧困の窮みにあったといい、日韓併合時の一番の大仕事は山に木を植えると
いう事の植林作業にこぎ着ける為の講習会であった。という。しかしその理解率は3割
を越えなかったが、作業を重ねるうちに農地は拡大したようだ。そうした日記が軍隊を
もった九州の将校の日記からは遺品として幾つも出てくる。朝鮮半島では「南北統一」
がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱
えられてきたが未だ成し遂げられていたのは併合時にしかない事実は、どんなに日本の
非難や徴用工や慰安婦を問題にしても、韓国社会自体が過去にはもっとひどく醜い社会
だったことの証左でしかなく動かしがたい歴史の事実である。「国土・民族・主権など
の統合や自己回復」の民族的スローガンはどこでも置かれるが、ヒットラーすらも当初
は民族融和を掲げているのに比べ、韓国や中国政治はのっけから抗日排日対日である。
まさに、朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や
支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と移行し、南方からの倭寇や秀吉の侵略
を受け、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。
ちょっと前の韓国の教育本に秀吉の朝鮮出兵の非を3ページに渡って書かれていた為か
、1970年代の韓国の主張は、秀吉が犯した罪を同じ子孫の日本国民として謝罪せよ
。だったのである。当然その頃の日本は、だったら蒙古襲来時の非道を謝るべきだ。と
反論していたのである。当の昔の記憶さえないない秀吉の朝鮮出兵が議員外交の壁とは
考えられない。と時のインターピューアは苦笑いしていた。つまりどこかに穴ほる性格
は昔から変わらず、やっと近代史に近づいただけのことである。米軍はこのヤクザ体質
をよく知っていたようで、李承晩には何ら自由も権利も与えなかった。これが日本から
の策謀に見えていてより日本を敵視していた。


213: 名無しさんAA:19/08/22 11:56
 考えればアメリカ人とは何をアイデンテティにしてきたかが問われる事件が頻発して
いる。ユダヤ人が人種としては分類がなくユダヤ教徒を一括して呼称したように、米国
の米国人という枠は、フランスから受け継いだ自由・平等・博愛の下に集まった移民達
という事になる。となると、トランプはオバマに出生記録を求めるほどアメリカ人では
ないと懐疑心を発揮したが、実はトランプや白人優位主義者こそが、このあめりかに根
を張ったがん細胞的厄介な異物であろう。つまりアメリカn旗の下に集まる者が米国人
とした規定からすれば、寄ってくるな出ていけという先行移民は乗っ取り屋に他ならず
アメリカの意思を受け継いでいない。つまりユダヤ教を捨てたユダヤ人と言う位置だが
、これは今の贋のユダヤ教団国イスラエルにほとんど同じだ。果たしてイスラムが過激
なイスラム国をイスラム教徒ではない。と明言して旧来の布教活動しているが、果たし
て旧来の平和の意思を受け継がないアメリカ人達であるトランプや白人優位主義者やオ
ルタナブル者をアメリカ人ではないと表明できるだろうか。盲目の愚者は別に米国人に
限った事ではない。あれほどレーダー照射問題や来賓料理の独島エビや観艦式の日章旗
問題やら執拗に幾度ともなく韓国が仕掛けておいて、突然安倍政権が喧嘩を吹っ掛けて
来たなど馬鹿をさらけ出す韓国人も多い。厚顔無恥といいたいが世界にはこうした人の
ほうが多いのかもしれない。


214: 名無しさんAA:19/08/22 12:54
 嘘つきジョンソンがドイツを訪問している。かつて「私は訪問しない。向うがやって
くるのだ。EU離脱は英国の自由の権利だ」などと言っていたが、今やドイツの公式な
記者向けの演台の前に立つ。しかしよく見ていると彼らは共に典型的なスラブ民族の顔
をしている黄金の頭髪の上に福余かな顔に堀の深い中に少したれ目の鋭い眼光と一見し
て意思を曲げない闘争心のある顔だ。人種主義者ではなくとも、二人がかつてナチスが
迫害してやまなかったロマ人の血が混ざっている。翻弄された家系であったろうことが
伺いしれる。堅実なメルケルおばさんといい加減なジョンソン爺さん。生まれ育ちで、
こうも違う行動になるのは驚きだ。性格や考え方は頭脳明晰で程よい一途さだろうが、
環境でこうも責め立てられる位置で対立している。不思議な人類史の一環であろう。と
ころでロシアのプーチンはバチカンを訪ねて、フランスを訪ねた。実は2年ほど前から
欧米諸国を驚かせている兵器がある。「RSー28」というものだ。このの性能は不明
ながらもロシアの国防系メディアによると飛行速度は秒速7km、これは時速約25,000km
に相当し、音速の20倍をも上回る。また航続距離は約10,000kmで、モスクワから発射す
ればホワイトハウスも射程に入る。そしてミサイルの弾頭には16個の核爆弾を搭載でき
、破壊力は40メガトン級。これは、広島と長崎に落とされた原爆の二千倍の破壊力とな
り、1発でフランス全土あるいは、米テキサス州、そしてイングランドとウェールズを
消し去ることができるという。しかもハイテク兵器である RS-28は、レーダーを回避す
るために絶妙に軌道を調整しながら飛行することができる。日本も含めた各国が配備を
進めているミサイル防衛システムさえ“無用の長物”に変えてしまうといわれている。
しかしロシアでこの7日大爆発が起きた。ロシア国防省は8日、北部アルハンゲリスク
州セベロドビンスク近郊のミサイル実験場で爆発が起きたと発表している。同省職員と
関連企業職員の2人が死亡、4人が負傷した。液体燃料エンジンの実験中に爆発が起き
、火災が広がったという。同省はこの爆発について「いかなる有害物質も出ておらず、
放射性物質のレベルも正常値だ」と発表したが、タス通信によると、セベロドビンスク
の市当局者は爆発後、一時的に放射能レベルの上昇が観測されたと述べたし、放射能の
欧州で放射能測定している世界放射能測定保険機構には、その後無線遮断されロシアの
国内の測定値が届かない状態である。かなり危険レベルの放射能が漏れ出たので一時的
に大統領を非難させた。との声もある。国営RIAノーボスチ通信は、地方法執行機関
当局の情報として犠牲者は2人で負傷者は15人と報道。爆発現場、セベロドビンスク
市から30キロ離れた場所と伝えた。セベロドビンスクには一般者は入れない。原子力
潜水艦工場やその関連施設がある。爆発が起きたのはロシア海軍の主要なミサイル実験
場で、ソ連時代から潜水艦や艦船に搭載する弾道ミサイルや巡航ミサイルの製造、発射
実験が行われてきたことがわかっている。2015年12月に、実験中の巡航ミサイル
が住宅に落下している。しかしフランスでは、この放射能物質管理がロシアはずさんだ
。と非難している。というのも、ヨーロッパの放射能の状況を常に監視を担当している
フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)が 11月9日に発表した地図では、明らか
に放置された低濃度放射能灰が空中を漂い、時にヨーロッパ中にアメリカに雨となって
降り注いでいることが判明しているからだ。今回の爆発事故はウラン高熱エンジン時に
原子力ジェットエンジンと呼ばれるものの実験失敗ではなかったかと言われている。過
去にアメリカは原子力ジェットエンジンを研究していた。これがスパイを通じてソ連に
流れ出たものと思われている。2017年に核ジェット巡航ミサイルが完成したとされ
実質的に無限の航続距離とあらゆる迎撃ミサイルをよけて敵国を核攻撃出来るとされる
じつはこの開発・研究の目くらましに、北朝鮮のミサイル発射を唆したのではないか。
とささやかれている。


215: 名無しさんAA:19/08/22 22:05 ID:jI
 朝鮮人に 喝!  266

 我々が韓国の歴史について見落としがちなことがある。それは原爆実験についての事
だ。戦前の韓国は日本以上に進んでいた。陸軍からの要請で開発されたとはいえ野口の
作ったダムは朝鮮半島のみならず中国北東部をカバーしていた。そこでの電力事情は、
豊富に使えていたのである。アーネスト・ラザフォードはマイケル・ファラデーと並び
称される実験物理学の大家で世界的な物理学者ある。α線とβ線の発見し、その後ラザ
フォード散乱という運動原理から原子核の発見、原子核の人工変換などの業績を持つ。
こうして英国の王立研究所の会員となり後には、ノーベル賞をとりロンドン王立協会長
に就任したり英国物理学会長に就任して66歳で死んだ。こうして世界的に「原子物理
学の父」と呼ばれる。彼がガイガー、マースデンとともにα線の散乱実験を行い原子核
を発見。この実験結果に基づいてラザフォードの原子模型を発表したのは1911年である
。ところがこの基礎になったのは長岡半太郎の土星モデルである事は、あまり知られて
いない。1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけドイツに留学し、ルートヴ
ィッヒ・ボルツマンのもとで学び、帰国後教授に就任した。以来、1926年(大正15年)
に60歳で定年退職するまで東京帝国大学教授を勤めている。1900年(明治33年)のフラ
ンス・パリで開催された万国物理学会に、アンリ・ポアンカレやキュリー夫妻、アンリ
・ベクレルなどといった当時の錚々たる有名物理学者とともに参加し。磁歪の研究成果
を報告発表している。1904年に、正に帯電した球の内部を負電荷の粒子が自由に運動し
ているという、ブドウパンのような原子モデルを英国のJ・J・トムソンは提唱した。そ
れに対して長岡は、同じ1904年(明治37年)に、中央に正電荷を帯びた原子核があり、
その周りを負電荷を帯びた電子がリング状に回っている土星型の原子モデルを発表した
。今では当然となった原子核に電子が回っていると言うリング運動モデルである。彼は
まだまだ遅れていた日本の物理学会に、世界の物理学の最新情勢を日本に紹介する仕事
も積極的に行なった。1888年(明治21年)には、ハインリヒ・ヘルツの実験についての
特別講演を行い、こうした中で物理学の土壌を作り湯川秀樹が生まれた。当時大阪大学
の理学部の講師をしていた湯川秀樹は、原子核の中で陽子と中性子が離れずに原子核を
構成しているか考察した。その上でこの問題に間を行き来している中間子という粒子が
あるのではないかという仮説を「中間子論」として発表した。1934年11月、東京大学で
開かれた日本数学物理学会での正式な発表だったが当時は全く相手にされませんでした
、1937年にアンダーソンが宇宙線の中からそれらしき素粒子を発見され注目されたが、
その後、その素粒子は湯川博士の予言した「中間子」ではなかったが、1947年パウエル
によって宇宙線中に「中間子」が発見され、湯川博士の予言が正しかったことが証明さ
れたのだった。こうして2年後の1949年、日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞し
また。こうした物理学の偏移の中に仁科 芳雄(にしな よしお)博士がいる。海軍の中
で戦艦ヤマトの主砲を拡大増強する中で原子爆弾の利用を考えていたのである。仁科は
1920年に理化学研究所の研究員補に就職し、翌1921年には2年間のヨーロッパ留学生に
決まった。北野丸でマルセイユに渡り、最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ
研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移っている。ここでの彼は「(
日本の)物理学は十分に成熟していて新たに取り組むべき問題はもはやない」と家族へ
ぼやきの手紙に書き、日本の当時の科学技術の高さをかいま見せている。この後ニール
ス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持って、1923年にコペン
ハーゲン大学に移りボーアの研究室に入った。ここで研究員として5年半も過ごして、
1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してのクラ
イン=仁科の公式を導いて大変な功績を残している。この結果一区切りついたのか同年
10月にコペンハーゲンを出港し12月25日に7年半ぶりに帰国したのだった。


216: 名無しさんAA:19/08/22 22:05
 朝鮮人に 喝!  267

 ところが帰国後は講師として招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に
所属して研究した。実は1928年代は既に戦争前夜の様相を呈していたのである。大
変な天候不順な年で、英国ではロンドンのテムズ川が氾濫し14人が死亡し、イングラン
ドに大規模な雹が降りひょう害が発生して11人が死亡している。ギリシャのコリントで
は大地震が発生し、20万棟の建物が倒壊。しかし一方でニューヨークで、最初のテレビ
定期放送が開始され、大相撲ラジオ実況放送開始されるという平和を満喫していた年で
もあった。大陸では済南事件で日本軍が山東省済南で国民政府軍と衝突し、6月4日に張
作霖爆殺事件(満洲某重大事件)が起こると、日本国内でも緊急勅令で治安維持法改正
公布施行(死刑・無期刑を追加)が出された。コミンテルンが暗躍し、危険思想団体と
して、治安警察法により労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散
命令を出している。世界は騒々しい中だったのだ。イギリスで公民権運動で女性参政権
が認められ、アメリカではジェンキンス研究所のテレビ局「W3XK」のワシントンのTV
放送が開始されたが、日本がロシアに勝ちロシアがソ連に代わりロシアのくびきまで取
れて、多くの帝国や米英の植民地の現地人は、独立抗争に明け暮れていたのである。そ
んな中で日本も例外でなく、ロシア支援の朝鮮亡命人達は中国に逃げていた。 5月14日
にやっとアヘン患者の一掃が出来てこれから台湾建設という処に、台中不敬事件おこっ
た。これが日本を大きく狂わせた。日露戦争以降台湾行政は日本が台湾国建設に力を注
いでいた中で、治安を取り戻し宮中視察の中だった。児玉源太郎総督の下で明治31年
民政長官の後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設な
ど数々の整備をし、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成
することで台湾近代化を果たし、一方で統治叛逆者には取り締まりをするという「飴と
鞭」の政策は統治体制を確立していたのだ。しかし上山 満之進(かみやま みつのしん
)の出迎える中で、台湾を訪問中の久邇宮邦彦王は台中を巡視中に1928年(昭和3年)5
月、その沿道で趙明河が短刀を投げつけられた。短刀は邦彦王には当たらず暗殺は失敗
するが、この事件で台湾総督上山満之進、総務長官後藤文夫、警務局長本山文平、台中
州知事佐藤続らは引責辞任しより厳しい統治に変わった。趙はその場で取り押さえられ
た。同年7月、趙は台湾総督府の高等法院上告部において刑法75条(対皇族危害罪) お
よび殺人未遂の罪により死刑の宣告を受け、不敬事件は一審制のため即日刑が確定し、
取り調べの上同年の10月10日に死刑を執行された。韓国の団体『チョ・ミョンハ義士研
究会』は、「邦彦王は短刀に塗られていた毒が回ったために翌年に死亡した」と主張し
、このテロ事件を「朝鮮独立闘争の出発点」と主張する。 実はここが肝心な所である。
つまり、安定し安全で比較的穏やかなこの進歩的文化生活する台湾統治領で韓国人だけ
が、騒々しく革命を謳い、日本を呪い活動して世界を混乱の挙動に先導していたのであ
る。この時の尋問や調査ではその中核が、実は李承晩が社会革命家だった事は一度もな
い。只の変質狂の独裁者でしかない。コリアンカーストの両班の家に育って言わば金満
家でワイロに埋まった家で不自由はなかったようだ。しかし、大日本帝国が李氏朝鮮を
立て直す為に近寄ると、当然この階層はほとんどが共産党の資金を得てテロリストに変
化した。名目上は独立運動だったが、社会活動も国体の建設運動もしない暗殺者集団に
加わったのである。当然国内の生産活動などに従事しないから日本統治時代には生活の
糧を得ず台湾にわたっている。もともと李氏朝鮮時代から李承晩は科挙が目標だったが
一度落ちた後、科挙制度が廃止された。そこでアメリカン・スクールに入学して学ぶが
親露派政権によって投獄された。しかし、英語を話せることで高宗に認められて出獄、
一転してアメリカ留学生で派遣された。ところが、高宗の世話になり、高宗の手配のお
陰でセオドア・ルーズベルトと面会の機会を得ても、「自分は高宗の代理者ではない。
一進会の代表だ。」などと主張している。一進会は日韓合邦を推進した民間団体である
。ただのハッタリかどうかは懐疑的だが、時の朝鮮政権や宮中などは敵視していた。と
いうのが正解だろう。韓国人特有の天邪鬼的思想で、米軍占領後も徹底的に困らせ建国
思想家や独立革命家を暗殺しまくって 自分に追従する人気者や実力者を蹴落としてい
る。



217: 名無しさんAA:19/08/22 22:06
 朝鮮人に 喝!  268

 既に破綻した李氏朝鮮を救済してくれる国があるとするなら、それは日本以外にない
。ということが当時の朝鮮人知識階級のみならずほとんどの民衆の共通認識だったのだ
。この中で李承晩は何回も訪日している。日韓併合後も日本を観光旅行している。反日
でも独立運動家でもなく隠密旅行で、中国や他の国の革命家や政治家の様に日本の有志
との会談などさらさらしてはいない。頭を下げ挨拶もしたくなかったろうし、暗殺の批
判にも遇いたくなかったらしい。又敗戦後は日本が呂運亨を押して居たことも、米国が
朴憲永や宋鎮禹を高く評価していた事も知っていたようである。李承晩が、時代に翻弄
されたのは青年時代のほんの2年間で、後は出世の路を模索し暗殺集団を抱え、要領よ
く独立運動家に収まり、たまたま、アメリカの留学生になっていた事から名声を得て、
初代大統領に、日本から政権を預かった呂運亨から推挙されただけのようだ。帝国日本
がアメリカと戦争した関係で、南朝鮮に米軍が進駐することになって、アメリカに留学
経験があった李承晩がたまたま注目され通訳や案内役として上陸した。もし日本が抗戦
の意思があり銃弾の飛ぶ中だったら拒否していただろうが、仮設の政権代表は部下の呂
運亨であり、朝鮮の情報はいとも簡単に取れて日本軍が引き揚げた後の上陸だったのだ
。もし日本がソ連と敗戦時の戦争を想定していたなら朝鮮はソ連領となったであろうし
、そうなれば李承晩のアメリカ留学などなんの箔にもならないし、恐らく李承晩などは
出てこないで統一共産党国家であったかもしれない。李承晩が生まれた黄海道は、現在
では北朝鮮の領土で、ソ連軍に支配された北朝鮮では李承晩には万に一つも出世や統治
のチャンスがなかった。その頃経済が発展し、貿易商資本家の他の有力政治家が多々い
たからだ。こうして韓国を選びそれも済州島に基盤をえらんでいる。アメリカにとって
はソ連後押しの北朝鮮鮮が建国宣言したので、南朝鮮を独立させる必要がありあわてて
李承晩を置いた。実はこの時既に米軍は治安の良さと自治ができているので呂運亨達に
このまま、独立政府の議会政治を行う事を約束させている。日本統治に専念したかった
のである。ところがこれを李承晩はことごとくつぶしていく。議会の攪乱、選挙の反対
、反対論者の暗殺と部下を使って威圧脅迫拉致監禁何でもありで政権の座についたし、
就いた後もそうした虐殺暗殺は終わることはなかった。ところが、この北朝鮮成立時に
ロシアでは核実験に成功するのである。イギリスからの暗号名チューブアロイズ放送で
は、原爆開発は当初からドイツ系数学者がロシアスパイとして情報漏えいを果たしてい
て、1945年 7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード北の砂漠で有名な米国の原爆実験
の成功の朗報に時のトルーマンは大喜びしてロシアのスターリンは全く動じる気配はな
いのが映像に残っている。既にスパイから多くの情報を得ていたからだ。そうして米国
に遅れること僅か3年で、ソ連の科学者たちは研究を続け、1949年 8月29日にソ連初の
原爆実験がセミパラチンスク核実験場で行われた。人類史初の原爆投下が1945年8月6日
の広島、1945年8月9日長崎へ投下されている。又、朝鮮の歴史で、1948年9月9日に朝鮮
民主主義人民共和国の北朝鮮は、ソビエト連邦の朝鮮占領期に独立・建国された。更に
朝鮮戦争は1950年 6月25日に、金日成率いる北朝鮮が38度線を越して突然襲ってきた
戦争である。つまり核実験の成功を睨んで、建国も朝鮮戦争もロシアは北に指導したの
である。


218: 名無しさんAA:19/08/22 22:06
 朝鮮人に 喝!  269

 当時の情勢を感じを紹介するような『北朝鮮を継ぐ男―革命家・朴甲東の80年の軌跡
』という本がある。この記述にはどのくらい真実かは不明だが朝鮮半島の非情さが見れ
る。
こうした中、ソウル市民を震撼させる事件が起こった。韓国民主党党首の宋鎮禹が、一
二月三〇日に暗殺されたのである。解放後の暗いテロの時代の始まりだった。P110
金九や民族派がつぎに刺客を差し向けてくるのは、共産党に対してであることは間違い
なかった。 P110
共産党はさらに攻勢に出た。翌三日、ソウル運動場で「民族統一自主独立促成市民大会
」と銘打った決起集会を開いたのである。労働組合、農民組合、青年同盟など100以
上の団体と、ソウル市内270の町内会代表が参加した。委員長の朴憲永は姿をあらわ
さなかったが、信託統治賛成を全会一致で決議した。その後、市内で「賛託」のデモ行
進をおこなう予定だったが、運動場を出たところで石つぶてが飛んできた。先頭を歩い
ていた党員は頭から血を流し、混乱の中、デモ隊は散会してしまった。民族派団体は、
朴憲永が朝鮮の独立を抹殺し、朝鮮を永久にソ連の衛星国にしようとしていると喧伝し
、信託統治をめぐって緊張が高まった。 P111
韓国民主党党首・宋鎮禹が暗殺されて以来、ソウルの街は、日増しに物騒になっていっ
た。甲東は、ソウルを南北に分ける漢江に、ちぎれた人間の手足が浮いていたり、麻袋
から身体の一部がのぞく死体が川岸に漂着しているのを目撃して、悪夢でうなされる事
もあった。刺客がいつ自分を背後から襲ってくるかしれないので、街を歩くときは細心
の注意を払った。北では金日成が、反対派を容赦なく粛清しているとのことで、南への
逃亡して来る者があとを絶たなかった。そうした北からやってきた者たちが中心になっ
て「青年会」をはじめとする民族派のテロ団体が結成された。 P113
通りの反対側を見ると、棍棒や日本刀らしきものを持った100人以上の学生が、仁寺
洞通りのほうから走ってきた。武装した学生たちは、ソウル市人民委員会の三階建ての
ビルの前で立ち止まるや、いっせいにドアや窓ガラスを叩き割った。彼らは事務所の中
へ入っていき、間髪入れずに出てきたかと思うと、仁寺洞のほうへ走って逃げた。すべ
ては一瞬の出来事だった。驚いた甲東は、人民委員会の事務所に急行した。幸い、中に
人はいなかったが、机、椅子、ロッカー、書類など、あらゆるものが壊され室内は廃墟
と化していた。 P113-114
その無残な遺体は従弟の晋東だった。甲東は号泣した。晋東は身体を何ヵ所も銃で撃ち
ぬかれており、さらに銃剣で身体中を刺され、銃身で殴打された跡まであった。天井を
見据えるように虚ろに開かれた目が、無念さを物語っていた。甲束は茫然自失となって
、もう一度講堂内を見回すと、東西の出口近くに、うつ伏せになった死体が一体ずつ転
かっていた。逃げ遅れた学兵のようだった。 P116




219: 名無しさんAA:19/08/22 22:06
 朝鮮人に 喝!  270

 こういう壮絶な内ゲバが始まると、常識人ほど嫌気がさしてきます。嫌気がさした呂
運亨の言葉が当時のありえなさをあらわしています。こうした中、渦中の呂運亨がテロ
リストに襲われて刺されるという事件が起こっている。
(中略)
呂運亨は部屋の中央のベッドに、半身を起こした格好でじっと座っていた。窓から差し
込む午後の陽光を浴びた白い韓服姿は、悟りを開いた仙人のように見えた。「先生、お
身体は大丈夫ですか。心配になってやってまいりました」呂運亨は達観したような顔を
あげて、「朴君、元気でやっているかね」と、いつもの太い声で聞いた。「私はいまも
朴憲永先生の下にいますが、共産党は内部分裂を始めており、自分でもどうしたものか
思い悩んでおるところです」甲東は正直に答えた。呂運亨は、小さく息を吸って、病室
の天井を仰ぎ見た。「朴君、じつは私はもう何もかもが嫌になった。田舎に帰って、静
かに余生を過ごそうと思っているところだ」呂は苦衷に満ちた表情で、かぶりを振った
。還暦を迎えた顔には深い皺が刻まれていた。中央高普生のときに初めて出会って以来
、呂運亨に接するたびに、甲東は故郷の丹渓にそびえる銀杏の大木を思い出した。大木
は四方から風を受けるたびに素直にその風になびいた。呂運亨も同様に日本になびき、
蒋介石になびき、ハッジ将軍になびき、スターリンになびき、朴憲永になびき、いま又
金日成になびいていた。あまりに八方美人なために、どの派からも信頼されなくなって
いた。当時の朝鮮政界では「中道」というものはありえなかったのである。「呂先生は
朝鮮建国になくてはならないお方です。どうか旗色を鮮明にして、建国のために尽くし
てください。」甲東はそこまでいうと涙が溢れてきて、そのまま深々と頭を下げて病室
を後にした。自分の将来について呂運亨に相談に行ったつもりが、さらに思い迷う結果
となった。呂運亨は、翌一九四七年七月、恵化洞のロータリーで、ふたたび刺客に襲わ
れて死去した。享年六一。二〇世紀朝鮮を代表する政治家にしては哀れな末期だった。
 P124-125
「何もかも嫌になった。田舎で静かに余生を過ごすよ、、、。」
「当時の朝鮮には中道というものがなかった」言葉だけが残っている。

 こうした韓国人の心情は大変である、無慈悲な李承晩を大統領に掲げた呂運亨の馬鹿
さではあるが、それだけ責任回避しかしないで、批判のみの国民性の結果の表れであろ
う。日本の自らが一心にその責任を負うとした切腹主義の対称な国の悲惨さがここにあ
る。日本でも愛国馬鹿といい、昔の人に妙な幻想を抱いていますが、李承晩政権の「気
に入らない奴は暗殺せよ」、がまかり通り時代の常識となって韓国社会の風潮に変わっ
て行って今がある。と思えば約束のゴールも、条約も、境界線も過去の歴史も蹴っ飛ば
す今の韓国人の横暴さが解る気もする。こういうのを知れば知るほど現代に生まれて、
韓国人ではなく日本人で本当に良かったと神に感謝する毎日である。


220: 名無しさんAA:19/08/22 22:35
 森ビルは馬鹿なことに東京麻布に超高層ビルを建てるという。こんなバカな再開発を
日本政府は許してはならない。横浜の賭博場建設に手を挙げた事も同じだが、いったい
ぜんたい日本という国をどう考えているのか。森ビルの収益がどうなのかは知らないが
もともとは大江戸の町並みは完成された安静な安全に生活できる数少ない地球上の首都
であったはずだ。つまり群馬や岐阜などの未開発都市地域ならいざ知らず、収益のみの
犯罪者集団しか住居としない高級ビルをさらに東京に作るというのだ。会社の汚職温床
の部屋あるいは芸能人の詐欺の温床麻薬売人達の城などと称されても一向に反省がない
。それどころか、生活の安全は充実していようが生命の安全にはとんとお構いなしで、
かつては回転ドアに挟まれた事件すら起こっている。この社長は一体何を目指して都市
をどうしようとして地上げ屋や詐欺集団あるいは外国人犯罪者集団とつるんでいるのだ
ろうか。麻布に遺跡も記念碑も伝統的価値も無いと見ているのだろうか。いい加減にし
ろといいたい。



221: 名無しさんAA:19/08/23 04:48
 朝鮮人に 喝!  271

 1945年 7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード北の砂漠で、ガジェットと名付けら
れた原爆を用いてトリニティ実験という人類最初の核実験が実施された。原爆は TNT換
算で約 19kton ものエネルギーを放出した。これは当時までに使用されたあらゆる兵器
の威力を上回るものであった。実験成功のニュースは直ちにトルーマン大統領へ届けら
れた。ソ連も負けることなく、1953年 8月12日にアンドレイ・サハロフによって設計さ
れた最初の熱核兵器を爆発させた。これは西側では"Joe-4"(RDS-6)として知られてい
る。ソ連の水爆開発はアメリカ政府と軍部両方に、ソ連が既に運搬可能な水爆を所有し
ているのではないかとの推測さえ持たせた。遡ること1943年に、イギリス連邦は、アメ
リカと核開発のリソースを共有しての開発を持ち込んでケベック協定をチャーチルは結
んでいた。以来、マンハッタン計画の初期からのメンバーであった。しかし、1946年に
アメリカ合衆国でマクマホン法として知られる、原子力技術の国外転移を禁じる法律を
成立させて、アメリカは一方的にイギリスとのパートナーシップを破棄している。その
為以後イギリスには一切の情報を渡さないと通告をうけ、クレメント・アトリー政権下
のイギリスは、英国独自の原爆開発がなんとしても必要であると決定し、新たに開発の
予算が必要だった。マンハッタン計画に協力していたため、イギリスは一部の分野では
豊富な知識を持っていたが、実用兵器を開発するまでの道はまだほど遠いものだったの
である。ナチスが1938年にチェコスロバキアへ1939年にポーランドへ侵攻して以来、第
二次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパのトップ物理学者たちは差し迫った危機を避け
てアメリカへと渡っていった中にボーアもいた。仁科芳雄博士は、1923年にコペンハー
ゲン大学に移りボーアの研究室に入り、。ここで研究員として5年半も過ごして、コン
プトン散乱の有効断面積を計算してのクライン=仁科の公式を導いて原子爆弾が作れる
と言う確信を世界の物理学者は得たのである。1928年にこの公式発表後帰国したのだが
日本の反応は冷ややかだったのである。しかしドイツのロケット研究と共に新型爆弾の
情報がもたらされるとにわかに日本の原子爆弾の研究開発が動きだした。1940年陸軍の
航空技術研究所所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であ
るかどうか」について調査を命じている。鈴木は、当時原子核を学んだ者として陸軍で
鈴木と新妻精一 (最終階級は陸軍中佐) の2名の経歴があった。既に帰国して幾つかの
講演をしていた仁科芳雄は、理化学研究所に仁科研究室を置いて若い研究者を育ててい
た。この二科の研究生を航空技術研究所に招き、原子物理学概論の講演をしてもらって
いる。これは将来必ず原子爆弾が実現すると考えて、若い軍人たちにも知ってもらうた
めであった。こうして鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉助教授の助言を得て、
2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出したという
。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案す
るとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布したのである。しかし
、この大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より取っている)の以前に密かに
理化学研究所に予算を送り、理研の長岡半太郎研究室にF研究(Fは核分裂を意味する
頭文字)をさせていたのが 大日本帝国海軍であった。



222: 名無しさんAA:19/08/23 04:48
 朝鮮人に 喝!  272

 1940年仁科芳雄にウラン爆弾の要請があり断ったが、その後1941年に陸軍研究所から
理化学研究所の大河内正敏所長を通じて 「ウラン爆弾製造の可能性」の研究が正式に
依頼された。これを受け仁科芳雄は6月から研究に着手した。当初から仁科はこの要請
を断っていた。というのもすでに日本海軍は、中国の上海における闇市場で 130kgの二
酸化ウランを購入する一方で飯盛研究室を通じて、小さな原子爆弾を作り既に実験前の
天皇の了承を得るまでに至っていたのである。飯盛研究室はその後、当時チェコのウラ
ン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツから二酸化ウラン輸入が
契約され事業家を図るところだったのである。その後潜水艦 (U-234) による560kgもの
ウラン輸送が試みられたが、沈められている。その後も1941年、その後も希元素関連の
業務を事業化するために、大河内正敏所長を会長、飯盛里安を最高顧問としての理研の
希元素工業株式会社が設立され、田中角栄にその朝鮮での工場建設が委託されている。
海軍は一番早く原子爆弾に注目し、海軍技術研究所の伊藤庸二大佐(電波兵器が専門)
で1938年には仁科芳雄の講義をきき東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子
爆弾の開発を相談している。仁科が帰国してすぐに、理研の長岡半太郎研究室に所属し
て帰国して一年後、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルクや、ポール・ディラックを
日本に招いている。その後1930年 11月 東京大学より理学博士をもらったが、日本での
長岡半太郎は留学中の1895年には、ヴィルヘルム・レントゲンによる]線発見の報告を
日本に送っているほど日本の物理学を普及させる努力をした。1922年(大正11年)には
アルベルト・アインシュタインが来日し、日本中でアインシュタインブームが起こった
際は、宮中にて相対性理論の講義を行なったが、その解説をした。こうした物理先進国
の日本が原爆を作らない事の方が不可解なことだった。日本の原爆開発の着想は1934年
に遡り終戦3日前に完成した。とされるがそれは帝国陸軍の話であった。戦時中肝心の
原料であるウランが国内では十分手に入らないことから、ウランが埋蔵されている朝鮮
にその供給源を求めることとなってその研究施設を作った。デービッド・スネルはその
情報の報告を軍に出した。AP通信は、「ジャップが原爆を開発したというレポートは
信じるに足らない」という記事を出しすべてを否定している。ワシントンとして、絶対
に漏れてはならない極秘情報であったのだろう。その後日本軍が北朝鮮で原爆を開発し
ていたことは、元米軍の情報将校、デイビッド・J・ディオニシ氏が本にして、簡潔に
まとめそれを日本側の協力者が日本語に翻訳したPdfファイルがアップされてもいる。
(第二次世界大戦秘史「日本の原爆計画」)日本の敗戦後に、情報漏えいを防ぐため、
興南地区はただちに北朝鮮とソ連の厳しい監視下におかれた。この地区を偵察に来てい
たその為B29をソ連軍が撃墜するという事件が起きた。ソ連は原爆用の物理学者は、
少数しかいなかったのだ。すぐさまこの研究職員数名を本国に連れ帰った。その中には
日本の著名な科学者3名が知られている。この事を隠すように戦後すぐに、南北朝鮮が
分断され、1948年には、正式に北緯38度線付近に軍事境界線が引かれた。、実は日本軍
の原爆開発の痕跡を知られないようにするための隠蔽工作だった。と多くの歴史家は言
う。この日本の原爆計画は、海軍→ナチス→英国→陸軍→米国と諜報合戦て伝わってい
て、米国の計画から10年も前に着手し昭和天皇によって開発停止の命令下だったとさ
れている。つまり嵯峨根遼吉博士はその開発や放射能の危険性を充分に天皇に進言して
いたのである。

223: 名無しさんAA:19/08/23 11:33
弁護士は、煽り運転に「たとえば殺人未遂を適用しようにも、立件するには殺意をどう
証明するかという問題がある。実際には、「相手を脅かしてやれ」と考えたと思われる
あおり運転がきっかけでバイクが転倒し、煽られた相手が 死亡した事件がありますが
、危険運転致死までは立件できても、殺意を立件するのは難しい。こうしたことを一つ
一つ検討し、きちんと法律を変更していかなければ、真の意味での対応はできません。
」と書いている。これは戯言に等しい。ナイフで刺して死んだとして殺意があったかが
難しい。と話しているのと同じだ。自動車の日常点検の認識と高速道路の死亡事故の認
識とがなければ、運転免許は渡さない。これが日本のシステムだ。人が死ぬということ
すら認識しない赤ん坊におもちゃ代わりにナイフを持たせるバカ親はいない。最低でも
竹細工で怪我し痛みを知ったぐらいの小学生しか持たさない。つまり殺意などというの
は、裁判所や弁護士が作った詭弁ということになる。西洋流では唯物主義だからそれで
社会は構成し精神世界をそうした言葉でごまかすだろうが、日本は精神主義であり悪意
がある。誰が見ても事故が起きる或いは死人が出るかもしれない。と言う第三者視点で
すでに、その嘘は通らない。つまりそれを知っていて刃物が使われる資格運転する資格
がある。とされ当然殺人罪は問える。というのも昔の藩主の責任制に基づいているから
だ。武士の責任は騒動が起こっても切腹である。実質被害は関係ない精神世界なのだ。
だからこそ、問題あれば会社の長は社会的責任において、会社閉鎖か社長や経営者の退
任か辞任かが行われるのだ。そこで屋号ののれんが丁稚にしろ養子にしろ継がれて何代
にもある事が信用の目安とする世界を築いてきたのである。それを裁判所や政府は無文
の法律として守ってきたのは日本の伝統なのである。いわゆる不文律というものだ。英
国流にいうなれば、慣習法である。つまり今回のあおり運転で死刑であっても国民は、
納得する話であるということだ。


224: 名無しさんAA:19/08/25 12:02 ID:Fs
 朝鮮人に 喝!  273

 こうして、日本は原爆を陸軍・海軍共に試作を作っていながら、それを製品化する事
はなかった。田中角栄史を読むと、この敗戦まじかの頃、東条英機が首相になったのは
、この研究が満州の研究所で極小規模で成功していて陸軍たっての頼みで首相になった
らしく、その予算で理化学研究所から遠心分離機の装置設置工場を作りに行き、やっと
現地に機械納入に至っときこれを売って帰ってきているようだ。彼が工事したとされる
興南地区の日本の原爆開発施設は北緯38度線以り北に位置しています。この分割によっ
て、1950年、朝鮮戦争が勃発し、ソ連は悠々と日本の核開発施設をダムの発電機と共に
接収することができてソ連の原発が完成したらしいのである。1941年11月、アメリカの
不審な動きでウラン鉱石の国外持ち出し禁止などが行われ、これを察知し両名ともその
ウラン国内生産調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司
・電気研究部長佐々木清恭にこの件を諮った。佐々木達は日野、嵯峨根の意見を聞き、
関係方面と交渉の結果海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。
ただし、この計画書の目的は原子力機関となっていて原子爆弾の文字は無い。もちろん
、本当の目的は原子爆弾であったが、既に天皇陛下の裁可を仰ぎ、人道に劣る兵器を、
日本から作り出してならない。と海軍は強く否決を貰ったあとだったのである。この後
も、陸軍の裁可に強く異議をして昭和天皇の決心は変わらなかった木戸 幸一(きど こ
ういち)は、昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなどした
内閣のお庭番的存在だった。太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後には、GHQに
よって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となった
が後に仮釈放されている。近衛内閣時代に却下されたとされ、その後日米交渉の行き詰
まりによって第3次近衛内閣は1941年(昭和16年)10月に総辞職している。後継候補と
して、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集
めており、近衛もこの案を昭和天皇に奏上した。ところが天皇は「若し皇族総理の際、
万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた。」ために
否定的であった。と書かれるがそうではない。軍は「万一皇族内閣の決定が、開戦とい
うことになった場合、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れ なきにもあらず」と述べ
ていて、既に日米開戦し敗戦を誰もが解っていたのである。林銑十郎から東久邇宮の総
理出馬を求める声にこうして反対した木戸が東條を推している。すると若槻禮次郎は、
東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と
大反論された。といわれる。かといって先の内大臣室の辞表後の近衛と後継について、
密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げたが、及川海軍では陸軍が
陸相を出さないだろうと反論されていた。海軍の及川では既に核開発の一切禁止が念を
押されていて、海軍出身の岡田啓介と米内光政には陸軍でも開発は無理だと解っていた
のである。しかし他にこれといった人物も挙がらぬ中で陸軍の押しも強く、最終的には
阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸は、その日の午後に天皇へは東條を後継
内閣首班とすることを奉答している。



225: 名無しさんAA:19/08/25 12:03
 朝鮮人に 喝!  274

 ドイツでは、早くの1938年1月に、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シ
ュトラスマンの論文によって、ウラニウムの核分裂反応が発見されていた。このことは
世界的にも発表されている。彼らは世界初の、ウラン235 の原子核に中性子を衝突させ
て分裂させることに成功したのである。ナチス・ドイツ政権下で、既に1939年 9月末の
頃から国防軍兵器局のもとに原爆開発のための実験が試みられるようになっていた。し
かし当時、ユダヤ人系の学者は追放され、または亡命していたので、残っていたドイツ
人学者によって開発が進められた為遅々と進まなかった。ドイツでは、日本やアメリカ
より進んでいて核分裂の理論は、既に完成していたのである。濃縮ウランの連鎖反応を
利用することが通常の方法だったが、ウラン235 の分離法についての技術が困難を極め
た。そこで、技術的に困難であった濃縮ウランではなく、自然界に存在する天然ウラン
を利用した連鎖反応の大胆な理論の可能性を検討した。しかし当初取っていたスウェー
デン南部ベステルイェートランド州のランスタッド鉱床のウラン資源は、非常に低品位
(0.025?0.032%U)であり、副産物として他の鉱物の方が多かった。スウェーデンには
、ウラン鉱石から六フッ化ウランに転換する転換工場も、またその六フッ化ウランを、
濃縮する濃縮工場もなく、転換及び濃縮などはすべて船で運ばなければならなかった。
大きな量のある天然ウランの中でも最大わずか0.7パーセントしか含まれないウラン235
の核分裂によって、発生した中性子のスピードを重水減速して、天然ウランに99.3パー
セント含まれるウラン238に飲み込ませないようにして、残りの0.7パーセントのウラン
235に減速した中性子を集中させて、確実に連鎖反応を起こさせるという理論であった。
ハイゼンベルクらは、この理論では原子炉の製造は可能でも、爆撃機に搭載できるよう
な小型軽量な原子爆弾の開発は不可能だと見ていた。しかし1940年春、ナチス・ドイツ
は科学者達の要請によってノルウェー作戦を実行し、これによりヴェモルクの世界最大
の重水製造工場の、ノルスク・ハイドロ電気化学工場を占領する。これによって中性子
減速材である重水を取得することが可能となった。これがイギリスの諜報部に連絡され
てしまう。その後1943年 2月23日、ノルスク・ハイドロの重水工場が、6人のノルウェ
ー人の決死隊により、爆破されてしまった。これにより、重水が入手困難になったのだ
。また、戦況の切迫から、6週間以内に実践に使用できる兵器以外の研究をヒトラーが
許さなかったため、シュペーアは第二次世界大戦中に製造が間に合わないと予想された
原子爆弾の開発中止を決定した。その前にアルベルト・シュペーア軍需大臣は、新兵器
が開発されない限り、ドイツが戦争に勝つ見込みがない。と言った考えを示し。そして
、科学者らを集めて、ナチスの政府高官たちに講演を開いた。その時、ハイゼンベルク
が原子核破壊とウランとサイクロトロン開発に関して報告している。この講演後には、
シュペーアがハイゼンベルクに原子爆弾の開発は何年後に可能かと質問し、ハイゼンベ
ルクは、「原爆製造の理論には何の障害もなく、生産技術への援助があれば、2年以内
に可能である。」と答えている。オランダの物理学者らが、ヴァイゼッカーの研究室で
ドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見したが、それによると、ヒトラーは1942
年に原爆の可能性について報告を受けたが、1944年後半には原子力開発はまだ実験段階
にあり、原爆製造の考えを放棄していた。という事実が書かれていた。


226: 名無しさんAA:19/08/25 12:03
 朝鮮人に 喝!  275

 技術的には、日本やドイツの物理理論は進んでいて、理化学研究所の選んだ熱拡散法
はアメリカの気体拡散法(隔膜法)よりも効率が悪かったが、成功率は高かった。10%
の濃縮ウラン10kgを製造することは世界では不可能と判断されており、これに対しての
京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく特注の遠心分離機の設計図が完成
し材料の調達が始まった所だった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり
、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させる。と
いうもので、いわば、暴走した小型軽水炉のようなものであった。ウラン濃度も10%程
度ものが10kgで原爆が開発できる。と計算されていた。この原爆開発原理には基本的な
誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書により発見される。しか
し、同様の経緯である1999年 9月に東海村JOCの臨界事故により、殺傷力のある放射
線が多数拡散放出されることは明らかとなっている。原爆投下の直後の1945年 8月14日
のポツダム宣言受諾時には、日本陸軍の原爆開発は最も進んだところでも、結局は基礎
段階の実験の域を出ていなかったとされる。旧日本陸軍が第二次世界大戦の終戦直前に
、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で
原爆実験を実施した。との情報を米軍はつかんでいた。戦後日本を占領統治した連合国
軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことは、今回米国立公文書館で時事
通信が入手した米軍機密文書(約三百ページ)で分かっている。一九四七年の米軍の防
諜機関の報告には「原爆に似た爆発があった」と、伝えている。しかし、真相は解明で
きていない。また、これらの文書から、米軍では興南にあった化学コンビナートでの、
日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(五〇―五三年)に乗じての
疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。その中にダムの魚雷爆破があ
った。つまり北朝鮮の砦としてのみならず、今後の原爆製造のきっかけを確実につぶす
狙いがあったのだ。でなければ、およそソウルの生活全部を支える電力源をそう容易く
爆破できるものではない。終戦時東条英機は、家族を引き取らせ「大詔を拝した上は、
大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受
けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』。戦争責任者
と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮
する」と複雑な心中を吐露して、1945年(昭和20年) 9月11日、自らのGHQ逮捕に際
して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こっている。
敗戦が決まっては多くの者が自殺した。著名なものでは娘婿の古賀秀正少佐や阿南惟幾
らの陸軍高官、貴族院議長から総理大臣を務めた近衛文麿などだ。彼らの収監後内大臣
の木戸幸一は、口裏合わせにかなり回って歩いたようだ。



227: 名無しさんAA:19/08/25 12:05
 朝鮮人に 喝!  276

 在朝鮮米軍司令部防諜部隊の四七年一月十六日付で作成した報告には、調査結果とし
て日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た
爆発が起きた。関与した科学者らの名も正確だ。と「スネル報告」が指摘する。科学者
は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えられ、場所の興南は八月十二日にはソ連軍
に占領されている所だ。興南地方での日本軍の核開発説については、45年のGHQの
文書で(1)日本軍復員者証言で、興南の化学工場の原子力関係の実験が行われていた
(2)日本海軍では興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物
によるジェット燃料実験を実施していた(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連
軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている。----などの情報を挙げる。
徹底調査を命じて、興南での戦前に、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場が
海軍と共同で重水などを生産していた事を掴んでいる。この海軍原爆のF計画が遅れた
理由は簡単には掴めない。陸軍の二号計画がF計画の後であったが、現実には昭和18
年(1943年)5月で陸軍に2年遅れで、それは始まった。とされている。計画が委
託されたのは、京都大学の荒勝文策教授で、京大の原子物理学は、世界の十指に入る程
実力を持っていた。スタッフの中には、あの『湯川秀樹博士』も参加していたらしい。
陸軍で日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相、『東条英機』がその旨を昭和天皇
に上奏した。彼は「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」と思っていた
。しかし、昭和天皇は『意外に強い口調』で反対されたという。「数カ国が新兵器開発
を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も又全力を傾注して
完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは、人類滅亡の
悪の宗家に日本がなるではないか。」と言った。さらに「ハワイに投下する計画との事
だが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築
きあげたところだ。そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」とも
言ったようだ。しかし、東条内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生し、杉山元帥は再
び入閣し、陸軍大臣となる。彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。ところが新兵器
を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発し、天皇陛下の耳に入った。杉山元帥
の述懐記録では、「天皇陛下から呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責
され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。」としている


228: 名無しさんAA:19/08/25 12:05
 朝鮮人に 喝!  277

しかし、杉山元帥は東条にこうも主張している。「敗戦となれば日本が滅びてしまい、
全てを無くしてしまう・・・・参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くこと
はできない。戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本において、
手段を云々できるときではない。勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。そして 天皇
が希求される世界平和を実現できるではないか。」と。杉山元帥は、敗戦直後自決した
。天皇はおそらく日本の未来を見据えていたのだろう。ハワイの真珠湾攻撃にも、当日
に充分に記者を呼んで宣戦布告を記者会見をしている。海軍大将の山本五十六はラジオ
でそれを聞いていた、神戸に浮かんだ船の上でエッソの支配人と会談し、貯蔵タンクを
空爆させない故を伝えていたと言う。つまり既に和平交渉をしていたのである。しかし
既に日本向けの石油は英国の海軍の権利となっていた。更に陸軍はハワイ攻撃と共に、
チェンバレンの油井をパラシュート部隊で窃取することに成功していたのである。が、
こうしたことは、米国の諜報活動で、すべてルーズベルトには筒抜けだったのである。
つまり「日本人ジャップが卑怯にも、ハワイに奇襲攻撃をした。」と言うのは真っ赤な
嘘の演説であり、日本側もそうした嘘がないようにハワイの油井タンクを攻撃しなかっ
たのである。もっともこのハワイをできる限り軍艦のみの攻撃にしたのは天皇の意向で
あったのだろう。そもそもこの世界大戦の理由はソ連の台頭にドイツが怒り、フランス
がソ連を後押しした事にある。鉄道インフラ、石油燃料機関、化学兵器、電気電信機器
などの新しい文明の利器のインフラに、当初イギリスが余裕に浸っていた。しかし米国
の物凄い速さでの終結で、利益を米英で分かち合った。古来より資本家の貴公子の国は
投資先に米国とソ連を選んでいたが第一次大戦の痛手が米国には残って大恐慌をきたし
ソ連は革命の火が残っていて、ドイツと英国にしか安全な投資先は無かったのだ。この
中でドイツが持ち上げた拳はソ連との戦争で領土拡大する事だった。事実第一次大戦時
ほとんどの北欧や東欧のいわゆるスラブやバルカンの地は一時的にしろドイツ帝国のも
のとなった。これがヒットラーの東方生存権構想の発端である。戦時中の戦略は色々と
たとえば「人種差別」とか「V2ロケット」「絶滅収容所」とかキーワードは出るが、
ドイツ人の生産にかまけて仏英人が仕事しなくなって戦後賠償の金融の利子で食ってい
た事が背景にある。これが白人社会に優位主義を生んだ。つまり米国を欲深き守銭奴に
変えたのだ。その中でヘンリー・ハリマンが日本に満鉄の共同運営を持ち掛けて、小村
寿太郎によって御破算になった。桂ハリマン協定(かつらはりまんきょうてい)は西暦
1905年の10月である。小村の留守中に訪日し、日本国の内閣総理大臣であった桂
太郎とアメリカの企業経営者であったエドワード・ヘンリー・ハリマンで成立した合意
が破棄された。つまり代理大使の小村寿太郎の方が、総理の桂寿太郎より上だったのだ
。これは海外の外国人には奇妙なことだったに違いない。



229: 名無しさんAA:19/08/25 12:06
 朝鮮人に 喝!  278

 更にこの協定についての桂ハリマン覚書(おぼえがき)という予備協定で合意された
内容は、鉄道の維持、整備などを行うために企業が連携する組織を作ること、その組織
が得た財産は均等に所有権を持つこと、経営によって得る利益も公平に得られること。
などが盛り込まれていた。日本側とアメリカ側で所有権や利益を公平に分割するという
ことの覚書でほとんど双方には了承できる内容だった。この協定に賛成した日本側の方
はアメリカが関与してくれた方が、すぐ近くに存在するロシアに対するけん制になる。
という期待があったし、当時の日本にはロシアの陪食金がなく、満州を経営するのには
十分なお金が用意できるか心配だった。という側面がある。アメリカが資本参加してく
れるなら渡りに船の出来事だった。その点での心配は解消されるため、一旦は双方合意
が成り立った。ところがこの「桂ハリマン協定」の存在を後で知り、ポーツマス条約の
仕事などでやっと帰国した小村外務大臣は、多くの怒りを持って大反対した。日露戦争
の後始末であるポーツマス条約では、ずいぶんと正論が通らず、更に仲介のアメリカの
立場からも恫喝や人種差別を受けていたからだった。政府首脳、外務大臣、共に、その
現場にはいなかった空気差があって大きな認識のズレがそこに現れたのである。さらに
時の国民が日露戦争に勝ったと浮かれていたし、新聞ではイエロージャーナルが幅を利
かせていた背景もあった。軽率に合意した。という批判がそこかしこにあったのだろう
。こうして外務大臣が強く反対したことが理由で協定が破棄された。この協定に賛成し
ていたのは首相の桂太郎、元老の井上馨や伊藤博文、更に山県有朋などそうそうたる、
発言力のある政治家達だった。しかし彼らを前に協定の問題点を説得し、結局桂の名義
で「十分な調査がさらに必要なので先日の合意については一時中止したものと思ってく
ださい」というような内容がアメリカ側に電報によって伝えられた。ハリマンは激怒し
た。小村は「いわゆる満州地域に存在する鉄道の日本への譲り渡しについて。未だ清国
の同意が必要だが、まだ清国から同意を得ていない。そのような状況で米国と共同経営
の話をするというのは順番が違う。」ということや「日本軍の多数の犠牲によって得た
南満州の鉄道という権益のかなりの割合を米国が取得する」という話の軽率さ、外交上
問題であり日本国民が納得しないだろう。といったことを理由で桂ハリマン協定に反対
の立場をとっていたのだった。この協定破棄についてハリマンは非常に強い不満を示し
後々の世界大戦につながっている。渡米していた小村外務大臣のポーツマス条約締結の
帰国報告を受けて日本単独資本となって初代総裁には台湾総督府元民政長官の後藤新平
が就任した。が後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に
活動できないことを懸念し総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を
兼任する。政府が1906年半官半民の特殊会社として設立させ勅令(南満洲鉄道株式会社
に関する件)に基づいて、資本金2億円の内1億円は日本政府によって鉄道・炭坑など
の現物で出資され発足した。


230: 名無しさんAA:19/08/25 12:07
 朝鮮人に 喝!  279

、結局は、後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円
を調達するに至り、これらの事業の原資とした。つまり日露戦争であれだけ国債を買っ
たのに敵方のベルギーのBNBから資本提供を受けていた。これがハリマンには全くの
連絡もなく許せなかったのである。しかし、それは仕方なかった。1894年に露仏同盟が
締結された上、下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際には、それを、
露仏銀行団が引受けて払っていたからだ。これらを契機として設立された露清銀行は、
目的を露清間商取引の決済やシベリア鉄道の完工などを行っていた。 創業資本金は600
万ルーブル=600万$=600万円の世界であった。そのうち 5/8がオタンゲルなどのオー
トバンクとベルギーのソシエテ・ジェネラルによる出資で、3/8 がディスコント・ゲゼ
ルシャフトからロシア系銀行家を通して払い込まれている。パリバとクレディ・リヨネ
もフランス側出資団に参加した。上述の出資割合にかかわらず、露清銀行は定款で業務
の相当部分にロシア蔵相の認可を必要としていた。当然日本がバリバの銀行団を信用し
ていたのは確かだった。中国の許景澄とサンクトペテルブルクでの東清鉄道の敷設に関
する協約を結んだのは1896年9月8日だった。鉄道会社に露清銀行が資本金 500万ルーブ
ルの全額を出資して運営していた。こうしてロシアが鉄道の建設を取り仕切ることにな
っていた。一方で清国は鉄道経営に参加するために、500万庫平銀を 露清銀行に出資し
全額を払い込み清が参加した形の銀行となった。こうして露清銀行は資本金は 900万ル
ーブル、準備金28万ルーブル、総資産3882万ルーブル、支店は国内外に18ヶ所の大銀行
となっていた。露清銀行は1898年の京広線契約と敷設借款に関するベルギー資本や債権
のほとんどを預かり、清国の金融取引を担っている。ベルギーのバリバ関係のためか、
翌年末やっとフランス人取締役が任命された。その後ロシアは1万2000株の増資をロシ
ア帝国国立銀行が全て引受けて強くロシアの圧力をかけた。フランス勢のソシエテ・ジ
ェネラルやクレディ・リヨネは脱落し、対して李鴻章やホープ商会に加え、ディスコン
ト・ゲゼルシャフトなどのドイツ個人銀行も増資に乗ったがロシア勢4、フランス勢2
の株式を保有割合となって進んだ。こうして露清銀行は、同じパリバ由来のインドシナ
銀行と、中国市場や東アジアの顧客競争を展開した。長崎・横浜。神戸に支店を開いて
いたが1904年2月上旬、日露戦争の開戦で日本の全支店を閉鎖し横浜支店のみ再開した。
遅れて1920年に神戸支店再開、オリエンタル・バンク張りの経営拡大を見せた露清銀行
であったが、日露戦争中でも10%配当を出すほどの利益をあげたが、1903年に極東支店
の放漫経営が明らかとなり、1907年恐慌に遭って経営危機に陥っていた。他行との合併
により打開しようとした。方々のロシア国内の銀行と模索したがソシエテ・ジェネラル
のロシア子会社である北方銀行が拾う形に合併して露亜銀行に落ち着いた。ロシア軍事
産業を支配下におき、顧客にバクー油田、シベリアの金鉱山会社などをもつ裾野が広い
営業を展開した。1911年にレンスキー金鉱山会社の株式を購入し、もともと経営に参加
していたギンツブルク商会とシンジケートを組み株式を分割した。ペテルブルク国際銀
行やレンスキーの経営も掌握した。


231: 名無しさんAA:19/08/25 12:07
 朝鮮人に 喝!  280

 しかし、ロシア革命により支店が整理統合され強制的に国立銀行に編入され、こうし
て政府が無くなった事で、露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は 死に物狂い
になって交渉に挑んだ。まず義和団事件の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国
に対して弁済を要請した。又中国の関税収入を協定で香港上海銀行と露亜1対2で分けあ
い鉄道の敷設経営借款引き受けなどが決められた。日本のシベリア出兵と並行して銀行
経営が分裂したが、結果として、パリ支店が本店に格上げされた。 1924年9月22日、張
作霖がソ連側と勝手に協定し、露亜銀行が決めていた 東清鉄道の経営陣がソ連政府の
派遣したメンバーにそっくり変わった。これをきっかけに満州支店で取り付け騒ぎとな
って、年明けに露亜銀行の資金は枯渇した。もはや銀行をフランス資本に取り戻すこと
は困難となり、フランス人役員はロシア人に席を譲るようになった。こうして1926年9月
26日パリの外為市場で500万ポンドの損失を出して、2日後に露亜銀行は清算された。
露亜銀行は1910年に露清銀行とソシエテ・ジェネラル子会社の北方銀行とが合併して出
来た銀行であるが、露清銀行は1902年に横浜支店を開設していた。1921年に、露亜銀行
横浜支店として建設されたのが今のラ・バンク・ド・ロアの結婚式場である。露亜銀行
は、1926年に日本から撤退、その後J・H・モーガン設計事務所、1928年に横浜市瓦斯局
、1935年よりドイツ領事館として使用された。第二次世界大戦後には進駐軍が使用し、
1959年からは横浜入国管理事務所となっていた。バロック様式の建物をコンクリート造
で建設した初期のものと考えられ、横浜で最後に建設されたバロック建築であるようだ
。東清鉄道は、現在の中国の鉄道路線のうち 浜洲線(ハルビン-満洲里)、浜綏線(ハ
ルビン-綏芬河)、哈大線(ハルビン-大連)の各路線に相当する。ポーツマス条約によ
り長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。1911年、辛亥
革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。1917
年ロシア革命後、ペテルブルクの理事会は機能停止し、現地の最高責任者であるホルヴ
ァート管理局長が実権を握った。彼が1920年に中国軍に放逐されると、奉天軍閥が影響
力を強め、また1919年〜1922年にかけては、日米などが参加した連合国鉄道管理委員会
がその経営に干渉した。特に、ハルビンに駐在した委員会技術部長のスティーブンスは
、革命後の混乱した経営の立て直しに辣腕をふるった。ソ連は1919年の第一次カラハン
宣言でいったんは東清鉄道を放棄することを表明した。にもかかわらず方針を転換させ
、北京政府や奉天軍閥に経営への参入を粘り強く求め、中ソ両国は国交回復の協定に、
調印し、この中で東清鉄道の利権を確認した。同協定に不満を持つ東三省の張作霖政権
は北京政府とは別に、同年9月奉ソ協定を結び、1925年1月20日、更に 日ソ基本条約が
締結された。しかし1925年4月9日ソ連の第九十四号命令、1928年張作霖爆殺事件。1929
年張学良の武力回収(中ソ紛争)1929年12月ハバロフスク議定書と、次々に紛争の種と
なった。1932年に満洲国が成立するとソ連は満洲国を承認しなかったものの、東清鉄道
は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路
に変更した。1935年になって、ようやくソ連は満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満
鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こうしてやっと朝鮮半島の安定
が出来たのだった。

232: 名無しさんAA:19/08/25 15:23
 朝鮮人に 喝!  281

 なぜ原爆と満鉄と朝鮮が関係あるのか。というのは台湾総督府元民政長官の後藤新平
にある。台湾統治がほぼ成功に終わりかけた時、東京大震災がある。関東大震災(かん
とうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に起こったとされる
。山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」の創設により、大きな復興計画が動
いたが、しかし、第一次世界大戦終結後の不況下の日本経済には、震災手形問題や復興
資材の輸入超過問題などが生じた。結果経済の閉塞感がいっそう深刻化し、のちの昭和
恐慌に至る長い景気低迷期に入ったのである。震災直後の7日には、緊急勅令によるモ
ラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による
損失を政府が補償する体制がとられた。1924年に朝鮮総督府の印刷局が東京の印刷局へ
送られ、アメリカ製の凹版速刷機やパンタグラフを搬送し、その後に新たに発注された
アメリカ製の凸版・平版印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年に復旧した。
後藤新平は復興計画を打診され案を出した。しかし計画の規模の大きさから「大風呂敷
」とあだ名されたが、彼は既に実績のある植民地経営者であり、都市計画家であった。
台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁としての
国内の鉄道を整備していた。関東大震災後に呼び戻され、内務大臣兼帝都復興院総裁と
して東京の帝都復興計画を立案したのである。実はこの時の東京復興原資はほとんどが
台湾総統府や朝鮮総督府や満州鉄道の経営利益から出していると言ってよいだろうと思
う。明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任して、大連を拠点にし満洲経営に
活躍した後藤は、ここでも中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用する。更
に30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充し、
大連などの都市の建設に当たった。この時、満洲でも「生物学的開発」に重きをなして
調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。当時の清朝の官僚の中で
満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であった。東三省建置
の明治40年(1907年)に彼の腹心である人物が多く要職に配置させていた。彼らは日本
の満州における権益独占を好んでいなく、アメリカを盛んに引き込もうとしその経済力
を以って満鉄に並行する路線を建設しようとまでしていた。これは大連を中心にして、
満鉄経営を推し進めてやっと軌道に乗っていた日本にとって大きな脅威であった。そこ
で後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫さ
せた。また北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄
のレールをロシアから輸入したり、伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図していた
。しかしこの途中伊藤がハルビンで暗殺されたためにこの会談は実現しなかった。1923
年の震災後にも、抗日運動が日増しに高まり1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件
がおこり、その後1931年(昭和6年)の柳条湖鉄道爆破事件が起こった。リットン
調査団まで派遣された国際的事件だが、今ではこの事件が、北京政府の申し出により、
ソ連側の中国共産化運動の為に行われた事が解っている。つまり権益拡大の為だったの
だ。しかし、すぐにの柳条湖鉄道爆破事件を起こして日本軍は石原・板垣によって満州
全域を確保するに至ったのである。これら事件は日本は首謀者とはならないまでもこの
情報は軍首脳部にはわかっていたが、対策を取らず利用したと言われている。


233: 名無しさんAA:19/08/25 15:23
 朝鮮人に 喝!  282

 1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起
こった。昭和金融恐慌である。若槻内閣は同年4月に総辞職し、代わって立憲政友会総
裁の田中義一が同20日に組閣し総理大臣となった。田中義一は、1928年に起きた張作霖
爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべ
きと主張して、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなか
ったのである。この時ゾルゲ事件など見るように日本の陸軍幹部にも相当数ソ連コンミ
ンテルンの共産諜報者がいたようであり、日本政府の信用や情報は既にいいように利用
されておいたのである。関東軍は、地元の親日派軍閥長であったはずの張作霖には軍事
顧問団を送り取り込みを図っていた。がしかし、張作霖は排日運動の高まりや欧米から
の支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄
の並行線を建設し始めると、日本の属国としての熱河省地域は張作霖の縄張りだった。
というのも張作霖はそもそもが汗民族つまり馬賊の子で、知っての通り朝鮮で成功した
。日本軍は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉していたが埒が明かない
状態だった。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年
まで中国河北省に存在した政権である。当時の日本側見解によると、地方自治を求める
民衆を背景に殷汝耕の指導により成立したとされる。しかし、中国側からでは当時から
現代に至るまで日本側の特務機関の工作活動により設立された傀儡政権であると主張さ
れており、今では日本や米国にも中国側と同様の認識で傀儡政権とされる。しかし現実
は全く違っていて馬賊の逃げ込む厄介な地だったから、北京政府も日本政府も朝鮮国も
それなりの対応していた地域だったのである。ところが日本が日韓併合してダム工事が
なされて朝鮮農民と中国の農民とに領界争いや水争いがおこったとされる。満州地域は
、実は北京政府も及ばない地域でもあった。本来北京政府にとっては痛くも痒くもない
不毛の高原大地だった。そこには遊牧民族が跋扈し、日本人が知らないところで交易路
としていた。ここに満州国ができると、北京政府との抗争を避けるために緩衝地帯を、
強制的に設けた。これが冀東防共自治政府の始まりだった。しかし、満州国は不毛の地
だったが、この緩衝地帯は湿地で畑ができこれまで皇帝の命で北京域から出れなかった
農民達が日清戦争以降はこぞって開墾に出てきて集落を作っていた。1935年 11月 25日
冀東防共自治委員会が成立し,12月25日冀東防共自治政府と改称し管轄地域を決めて、
塘沽 (タンクー) 停戦協定による非戦区とし、18県を含む 22県で人口は約 600万 首都
は通州として政務長官に殷汝耕を置いて五色旗を掲げた国を作った。1933年 5月31日に
日本と中国との間で塘沽協定が締結され、中国側に非武装地帯を認めさせ、治安は中国
側警察が担当することとした。その範囲は延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴
、林亭鎮、寧河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められた 。しかし、
中国北京政府は混乱が相次ぎ、又この中間地帯の開発に、日本の三井財閥が乗り出して
アヘン生産地帯にしたことから、これまで中東のアヘンを扱かっていた朝鮮、中国の闇
の勢力に異変が起こっていた。熱河は清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとと
もに満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっ
ていて貴重な交易地だった。この地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽
協定が締結された当時は、その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、
あるいは満州へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重用だった
のである。

234: 名無しさんAA:19/08/25 15:24
 朝鮮人に 喝!  283

 だがそうした前にここには、清国時代はジョーオダ盟(昭烏達盟)、ジョソト盟(卓
索図盟)及びチャハル盟(察哈爾盟)東部に位置し独立闘争の中にあった。1914年に、
中華民国はジョーオダ、ジョソトの両盟及びチャハル盟の一部に熱河特別地区を設置し
、管轄外に指定していたのである。しかしロシア資金の線路が通り、直隷省の管轄から
国民政府の直轄とし、同年7月には熱河道が成立した、旧直隷熱河都統が管轄する14県
に加えて、内モンゴルのジョソト盟7旗、ジョーオダ盟12旗を管轄する事に変化した
。日本が開国し明治政府として廃藩置県を西郷隆盛が行ったが、その後献上地召し上げ
が数多く起こった。知行献上で藩の殿様が伯爵でわずかの政府からの給与があてがわれ
たのだが家老以下は路頭に迷って食い詰め浪人が多数発生した。多くの郷士の会は種々
の職業斡旋には出たが、農民や商人に身を落とす事を潔しとしなかった人たちも少なか
らずいた。そうした人の中には大陸に渡って大陸浪人と名乗った人達も数多くいたので
ある。明治から100年過ぎようとする頃は3世代が過ぎる頃で、多くは現地人に溶け
込んで暮らしていたはずだ。田中義一はそうした熱河特別地区の事情をよく知る人であ
ったようだ。チャハルのみでも、チャハル八旗の領域は農地化が進み、牧地が減少して
争いが絶えなかった。清の滅亡後、1914年にチャハル八旗は周辺のチャハル系遊牧領は
チャハル特別区とされ、1928年に解体されて東部に張家口を省都とする察哈爾省が置か
れた歴史が残る。昭和12年7月 北京郊外の盧溝橋で事変が発生して、日中戦争にな
り、日本の大陸政策として内蒙古は満州国のように中国から独立させようとする方向に
進んでいたのだ。当時、内蒙古は五つの盟(地域)に分かれていて(チャハル盟、パイ
ンタラ盟、イクチャオ盟、シリンゴール盟、ウランチャプ盟)、それぞれの盟はいくつ
かの旗(行政単位)を統括していた。それぞれの旗には旗長(ジャサック=札薩克)が
いて、ジンギスカンの末裔の旗長からえらばれた5人の盟長が内蒙古を統括していた。
当然ながら、彼らにはジンギスカンの血が流れていて、帝国の復活の夢があったわけで
、それを大義名分として、内蒙古独立をめざして、満州国政権樹立のメンバーから全面
支援のための人材を日本からも送り込んだ。つまり、満州国政権、冀東防共自治政府の
みならず、各所は自治を持つ国の形を成していた。国際的には何らお墨付きは無かった
が、かつては中国の軍隊として馬を駆けて戦った「つわもの」の地域である。清という
という箍(たが)が外れれば、大きな組織として大陸浪人達を受け入れる素地はあった
ようだ。また新たな日本からの開拓員に通訳も必要だった。五郎は新京特別市公署から
満州国国務院総務庁に転属(地方公務員から国家公務員)になり、そこから蒙古政府へと
派遣された。金井内蒙古最高顧問に、直属の上司であった高橋福次郎とともに随行し、
いまのフフホト(当時の厚和)の巴彦塔拉盟(パインタラ盟)公署所管の豊鎮県顧問と
なっている。豊鎮県を含む大同(北京の西にある内蒙古第二の都市)周辺は、開発開墾
で豊かな穀倉地帯に変わっていた。また中国の遼寧省と並んで有数の阿片の生産地だっ
た。豊鎮には日本人の小学校がなくて、ていと圭子と健二郎は豊鎮に近く小学校のある
大同に住むことになった。 



235: 名無しさんAA:19/08/25 15:24
 朝鮮人に 喝!  284

 この大陸浪人や苦力を買いに行き自領で農民としたかったのが、両班の世界であった
。多くは細々と小作民に農地を耕作させていたが、ロシアの鉄道開通と共にアヘン物流
の仲買人になっていた。理由は簡単で、台湾での中東アヘンが一掃されようとしたこと
、アヘン戦争で中国人にアヘン需要があった事、更には中国の開発地区にアヘン栽培を
頼む事が出来た事などがあった。しかし、そうしたアヘン貿易も日本が目を付けた形と
なった。水力発電で朝鮮や中国東北部に都市型経済がおこると、日本の財閥の本格進出
になり、日本軍と共に三井財閥などが、熱河省に大規模栽培地を開墾した上に、アヘン
を農くした麻酔剤のモルヒネが開発されたのだ。これで一気に時代が変わることになっ
た。朝鮮の夜明け時代に幅を利かしたコリアンピラミッドで奴隷輸出とアヘン売買で生
き抜いて来た両班は、日本の統治下になった満鉄構内都市である鉄道付属地の経営での
道路や電気水道などのインフラが整い始めると日本の遊郭や娼婦宿に習って、泊りのな
い用足し女郎宿を始めた。これが売春婦の元になり、戦争が始まると戦線の中前線まで
着いていったとされる。理由は多くがロシアの共産党の諜報員に使われた情報員だった
からである。南満州鉄道株式会社運輸課で、1913年に『駅勢一班』其壱〜其四の4
冊の本を刊行した。この本によれば、満鉄の事業は幅広く、鉄道業、炭鉱業、製鉄所、
海運業、港湾・埠頭のほか、鉄道付属地の経営や調査研究事業など広範囲にわたってい
る。もちろん主力は鉄道事業に置かれていたが、満州に張り巡らされた同社の路線は、
満州の貨物や旅客の流動を支え、欧亜交通の幹線として満州支配の要になるものであっ
た為、それを支える職員の社宅と社宅を支えた家族の生活に不足する商店は直ぐに作ら
れたようだ。当然日本流の遊郭は娼婦や愛妻の宿として繁栄していた。しかし、現地人
や朝鮮人が台頭すると一般人向けの安宿に朝鮮からの身売り娘を置いた簡易女郎屋が、
林立し性病である梅毒や淋病が流行ってしまい、軍が衛生管理するに至って困った様だ
。更に満州国が建設され、こうした鉄道付属地には、これまで税金のない家賃でインフ
ラ整備されていた行政が軍の管轄になり、しばし諍いと領有や権利争いが満鉄と軍に起
こって行政と経営さらに防衛が混乱した。昭和の時代の幕開けは正に恐慌が走り、日本
が今後の生産技術の確立が出来て、発展するその転換期であったのである。もともとは
保線管理に1896年にロシアは清国と条約(露清密約)を結び、鉄道の建設に必要な土地
の管理権を獲得したのが「鉄道附属地」の発祥である。その後1917年にロシア革命が勃
発して、革命政府が中国内の権益の放棄を宣言した。そのため中国は1921年に附属地の
行政権を回収し、「東省特別行政区」を設置したが、朝鮮もそうした土地は日本に譲渡
されていた。ロシア時代に、この条約を拡大解釈し、単なる土地の所有権だけでなく、
清朝の行政権が及ばない排他的行政権を認めさせていた。そして線路や駅などの本来の
鉄道用地のみならず、鉄道から数百メートルも離れた用地をも鉄道附属地とし、鉱山や
都市などを開発して運用していた。それは中国に石炭が豊富にあったからだ。


236: 名無しさんAA:19/08/25 15:25
 朝鮮人に 喝!  285

 1906年に日本の国策会社南満州鉄道が設立されると、この鉄道附属地制度も継承した
。さらには満州国の成立後には、1937年に行政権が移譲され、南満州鉄道の附属地とし
てついていった。こうして住民は満鉄の家賃や水道などと共に税金の徴収が起こってい
た。こうして次々と日本の権益が強化されると、これまで逃げ込んでいた盗賊まがいの
夜盗や安い賃金や単価で薄利多売の娼婦の茶店は食っていけなくなり、しばしば満鉄の
徴収員や軍や行政自治会長などとの諍いが起こったが、その多くが朝鮮人達だった。こ
うして大陸の戦場の前線までついていったと思われる。間違ってならないのはこの娼婦
は決して貧乏ではなかった。それは兵士が集中して居るため、時の陸軍の隊長の給与の
二倍を一晩で稼いでいたからだ。そのため運営側も娼婦を大事にしながらついていき、
娼婦も他の一般市民では出来ない贅沢を続けていた。徴用工も又わざわざ日本に渡る程
給与は良かった。本人は日本人と同じ給与だったが、渡航費や斡旋業者とされる者への
キックバックはすべて会社が払っていた。そのせいで炭鉱などの掘削には危険な最前線
で働く事が多かった。しかし、会社の中にはその為の危険手当があったり、扶養がなく
ても同額を払ったりしていたのである。しかしこれらはあくまで任意であり本人の意思
での作業だったのだ。1923年(大正12年)の東京大震災から1927年(昭和2年)第1次
若槻内閣までで、人々の意識は相当に変わったといわれる。それほど震災は大正ロマン
に浮かれていた日本人を海外まで大きく視野を入れた行動に目覚めさせた。同時に海外
も中国大陸では大きく教育水準が上がって中国人特に共産党の諜報活動がロシアなどと
海外資本家や軍の提供から提携に進む事に変わった年になった。それは恐慌が理由で、
渋っていた海外資本がより高い利潤を目指す事で軍事に拠り所を見つけようとしたから
だった。満鉄経営はなかなか不思議な形態で日本特有のものだった。清国と露清銀行(
帝政ロシアとフランスの合弁銀行)とのあいだで結ばれた「東清鉄道建設及経営に関す
る契約」で建設された東清鉄道だったが開業から36年後に清国政府に買い戻しの権利が
生じることなどが約されていた。ところが戦争で日露講和条約と日清条約が結ばれて、
東清鉄道の長春〜旅順・大連が日本に譲渡され、露清間の条約がそのまま適用されない
ものとなってしまった。東京に満州鉄道会社を設立し、日本政府は、満鉄の設立につい
ては清国政府に説明をしたが、同意を得ることなく、満鉄を設立している。戦争賠償に
ロシアの同意があったからだ。これらの条約や契約に配慮した点は、株式募集の期日の
清国側への通達のみであった。したがって、清国政府は、満鉄の設立を日清条約に違反
しているとし、日本政府に抗議したが株式配布を要求はしなかった。とされる。建設の
資金100%がロシア資金だったからだ。こうして日本政府は、その抗議に耳を傾ける
ことなく、既成事実を積み上げていった。東京に登記して、東清鉄道ダーリニー事務所
が、ロシアの特別市制度を導入し、市役所となっていたので日露戦争後は日本軍が占領
して、同じように遼東守備軍の司令部や関東州民政署の本庁として行政指令所として使
われ、関東都督府民政部となった。1908年12月に満鉄本社が満州に移転すると、東京の
要人達の泊まる大連ヤマトホテルとして使われて、満鉄の中心となった。こうして中国
認識がそりの合わないのまま満鉄は出発した。



237: 名無しさんAA:19/08/25 15:25
 朝鮮人に 喝!  286

 そもそも、日露戦争後の中国東北地方支配を見据えた児玉源太郎は、後藤新平ととも
に「満洲経営策梗概」をつくり、そのなかで、日露戦争後の東清鉄道の日本への譲渡を
見越して、「戦後満洲経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設
を実行するにあり。」と記している。特に後藤新平は台湾建設で朝鮮人の野蛮さや中国
人のいい加減さを熟知していて、更に自治統制に手腕豊かなスタッフを台湾からひきぬ
き満鉄運営に当たっている。そこには当然中国情勢やロシア権益現地支配の不可の検討
がなされ分析の上に占領している。まずこの譲渡契約は相手がロシアのみだったのは、
中国はいまだ清時代の軍閥が跋扈していて馬賊を含めて中国政府と言えるものが無かっ
た点にある。つまり遠く上海に生まれたての北京政府は未だ北京を占領自治に至っては
いなかったのだ。その状況からして国際的にロシアとの契約が済めば批判は受けるに当
たらず。と判断したのかもしれない。またその後愛新覚羅を満州国王としたことからも
、日本政府は単に安心安全な中国ができればそれで良かったようだ。しかし軍や財閥は
違っていた。そこにはかつての幕藩体制の各藩の藩主や大老などの経済的寄りかかりが
朝鮮族の両班と同じように蠢(うごめ)いていたのである。満鉄定款の事業大別では、
「鉄道の運輸業」と「鉄道の便益のための付帯事業」に分けられる。満鉄の事業の実態
は、定款での表向きの満鉄を鉄道会社として扱っているが、当時の鉄道事業は今の様な
輸送業と違い、国際的には兵隊まで装備し大砲すら持って大航海時代に国王代理のよう
な形態を踏襲して西洋社会にあった。すなわち、日本ででも、この約款の事業分類は単
に記載しているにすぎない物で日本国内の鉄道事業とは大きく異なっていたのである。
定款においての問題は、鉄道の便益のための付帯事業に分類された事業の中身であり、
定款では、「鉱業、特に撫順及煙台の炭坑採掘」「水運業」「電気業」「倉庫業」「鉄
道付属地に於ける土地及家屋の経営」「其他、政府の認可を受けたる営業」と記されて
いる。これらは定款の字面どおり鉄道の便益のための付帯事業となっているのは世界的
標準のものだった。水運業や倉庫業は当然ながら、鉱業や鉄道付属地における不動産業
も鉄道の便益のための事業とされている。採掘した鉱物資源の特に石炭などの運搬など
や沿線の人目増加による輸送量の規模拡大が、鉄道業におけるおおきな収益増大につな
がっていて、そこには関税を抜けた中国間のアヘン輸送の形態まで備わっていた。表向
き鉄道会社の体裁を装い、実際には欧州型の多種多様な事業をおこなう機関として白人
流の満鉄経営を目指していた。しかしこの経営が前近代的でロシアすら中国合意を取り
付けて経営してのに比べると強引ではあったようだ。「満洲経営策梗概」では鉄道経営
のために国家機関(満洲鉄道庁)を設けることを主張している。さすがに採用されなか
ったが、ロシアではそれが特別市制度だった。満鉄が、中国東北地方支配のための機関
であるという性格づけは、すでに日露交渉時の主眼であり三国交渉以降の日本の国策だ
ったといえる。この為、定款は「命令書」と同様に支配機関としての満鉄の性格が如実
にあらわれている。


238: 名無しさんAA:19/08/25 15:26
 朝鮮人に 喝!  287

 満鉄事業は、鉄道業と共にほとんど自治体建設であった。付随するホテル運営や倉庫
の経営、鉄道付属地の経営、炭坑と製鉄所、大連港の経営と海運業、理・工・農の研究
開発、経済政策の立案、高等教育や普通教育施設建設、という具合に大別され多種に渡
る。こうして1907年、本社を東京から大連に移転した時の、満鉄の組織は、総裁のもと
に総務・調査・運輸・鉱業・地方の五つの部と大連病院、撫順炭坑をおいた形から発展
する。総務部は、会社の事務・経理と会社の各種事業に必要な建物や鉄道付属地などの
建設・土木の事業を担当し、調査部は政策立案とそのもととなる基礎的調査をおこなう
部であり基幹の調査を独自分析して報告を行っていた。運輸部は主として鉄道と大連港
の建設・経営を担当し実務の要であった。鉱業部は地質調査と鉱産物の販売を担当し、
地方部は鉄道付属地の行政を担当する部である。この五つの部によって満鉄本社が構成
されており、大連病院と撫順炭坑は本社からは独立性の強い組織として位置づけられた
。つまり厚生施設部門で独自に医療や健康管理や安全管理をしていたのである。特筆は
この別部門として安全管理して行政指導している点だ。しかしこれが逆に軍や特高の、
OBの溜まり場になった。そして本社から比較的独立性の強い組織として、撫順炭坑(
炭鎖)があった。又満鉄は開設以後も、多くの職制改正によって部局の名称が変更され
た若返りの激しい特異な公設民間会社であった。今でいう「カイゼン」の早い収益率の
高い会社だったのだ。中央試験所などの新たな研究機関が設けられたり、組織は肥大化
するものの、鉄道付属地が撤廃される1937年まで、本社直属部門は、事務・経理、運輸
、地方経営、鉱山経営から政策立案や研究開発などを幅広く担う興業部門が活きていた
。慢性化や賄賂供託忖度が横行する白人経営の行政からすれば、極めて厳格で活気を秘
め成長著しい会社で、海外では五年かかる事業を一〜二年で満鉄は行うとして「脅威」
の国に日本が見えた事が数々の記述に残る。こうして満鉄は必要に応じて子会社を作り
暖簾分けしている。たとえば、運輸業では、大連汽船という海運会社を設立し、大連を
起点に安東(丹東)、天津、青島、上海、新潟、敦賀などに定期航路を開拓した。又、
大連市内に電気が余ると、路面電車が導入され、大連電気鉄道という子会社をつくり、
その経営を託した。大連や鉄道付属地の都市に対しての電気やガスの供給についても、
当初は満鉄が直接おこなっていた。しかし後にはそれぞれに、南満洲電気株式会社と南
満洲ガス株式会社を設立しその業務は移譲された。これらは満洲重工業開発株式会社の
本社が出来て更に発展する。満洲重工業開発は、日本産業株式会社(日産コンツェルン
)の満洲国内への資本導入によってつくられた満洲国の国策会社となった。建物は自社
ビルではなく、東洋拓殖が満洲国の首都新京の目抜き通りであった大同大街に而して、
1938年に新築した新京東拓ビルに入った。設計は東京の池田吉治建築事務所が行い、施
工は大連の福島公司が行った。しかし満洲事変から満洲国の成立を経て、満洲国の産業
を牛耳った満洲重工業開発株式会社設立に至るまでのあいだに、満鉄が果たした役割は
大きく、関東軍との馴れ合いが出来て満州経営は軍部の台頭になり人民からの批判も、
革命の機運も高くなった。


239: 名無しさんAA:19/08/25 15:26
 朝鮮人に 喝!  289

 日本国内の鉄道の多くは、線路の幅を1067mmとしているが、新幹線はいずれも1435mm
である。国際的には前者のレール幅を狭軌、後者のレール幅を標準軌と呼んでいるが、
帝政ロシアの多くの鉄道が標準軌より更にレール幅の大きい広軌と呼ばれる1524mmで敷
設されてあったことから、東清鉄道のレール幅は広軌で建設されていた。この改造工事
に結局、奉天以北の改造は、鉄嶺(てつれい)までが4月、終点の長春まで満鉄本線の
すべてが標準軌に更新されたのは4月30日であった。こうして 狭軌用の車両を大連へ回
送が終わるころは5月を迎えようとしていた。実際に標準軌での営業が始まったのは同
年 5月30日のことであった。こうして戦争中の日本式狭軌は、標準軌道幅に変更されて
その上に回送のレール幅も整える用意がなされていた。委託された車両も野戦鉄道から
引き継いだ車両は使いものにならず、満鉄は自前で標準軌用の車両を調達しなければな
らなかった。満鉄はさっそく大連西郊の沙河口(さがこう)に鉄道工場の建設を始めた
が、標準軌への改築に合わせて標準軌用の車両を大量に用意するには、満鉄自らの製造
能力には限界があった。機関車を中心に大量の車両を輸入した。こうして帝政ロシアが
建設した東清鉄道の遺産を改修し、アメリカを中心とした欧米の鉄道技術を使いながら
満鉄は営業を始めて、自立する道を探っていたのである。動力がなく内装もいらない貨
車の製造は容易だが、動力を有する機関車の製造は簡単ではない。また、高級な客車も
内装の設計や施工には手間がかかる。結局、創業から2年間に満鉄が保有した標準軌用
機関車205両は すべてアメリカ製で揃えた。満鉄が自から機関車を製造したのは営業か
ら7年後の1913年のこととなった。客車も、食堂車や特等車はアメリカから輸入した。
今の韓国人や北朝鮮人やあるいは中国人は、帝国日本は、虐殺した侵略した植民地化し
たなどと叫ぶが、それは戦前に日本に帰化し諜報活動していた在日朝鮮系の新聞記者の
受け売りに過ぎない。確かに事実として虐殺に近いものは多々あったろう。しかし中国
国内の中国人の死亡者は日本人が殺したとされる数は中国軍の起こした殺戮の5%であ
る。何故か督戦隊戦争で背後に正規軍で殺していったし、共産党の躍進で北進するとき
も64の村落を皆殺ししているし、国民党軍も清野作戦で1200以上の村落を廃村に
して生き残り、その性格が今の都市化改造にも色濃く残っている。日本軍がもし植民地
化した社会を目標として作っていたなら、こうしたインフラ整備は必要なかった。石炭
さえも、日本からの出荷が多く、すでにガソリンなど石油ディーゼル機関すら発明され
ていたし、飛行機もゼロ戦など日本の技術で完成していた時代に苦労して行政指導する
事も無かったはずだった。たとえ大陸と繋がらない鉄道であっても沢山のクーリー達を
奴隷の如く鞭をつかって使えば済む話だったからだ。しかし都市の建設や鉄道の全通に
沢山の金と労力と時間を使って教育施設まで整えたのは、やはり、アジア浮上、西洋の
侵略への対抗や、人種差別しない、アジアを植民地としない。といった強い希望があっ
て行ったものだった。


240: 名無しさんAA:19/08/26 12:19 ID:lQ
  新経済論               57

 トランプ政権が立ち上げた「カントリーファースト主義」は、まるで合図をあげた狼
煙(のろし)のように世界を変えた。トランプは決して悪い男ではなかったろう、しか
し決して人類にとっての良い影響の男では無いだろう。イギリスのEU離脱状況は人類
や市民たちが、政府の思うような、知識や良心やあるいは常識ある知恵者では決してな
い。と言う現実をさらけだしている。これまでの西洋主義文化が市民裁判や見えざる手
の市場にゆだねて衆人合意の形成で成り立っていた。これが魔女狩りの裁判の様に権力
者に委ねられた世界に変わったのをまざまざと見せつけられた21世紀でもある。今や
温暖化は、地球が東京スタンドというものが実証された。シンガーポールで世界温暖化
が1℃上昇すれば1,2℃さらに2℃では3℃近く気温が上がる事が認められた。上下の
偏差を除いても最低2倍である。つまり都市構造の機能負担を減らす努力をした地域で
あっても倍の気温上昇が認められたのである。これは異常な事だが原因はヒートアイラ
ンド現象の為でエアコンやアスファルト舗装などの原因で当然だろうと学者は見ている
。だが問題はそれだけではない。気候変動が人間の生活部において世界の温度上昇の2
倍ないし3倍ということは、それだけ多降雨と多寒冷が天候に起こるということである
。地球温暖化が温度上昇が起こると思っている人は多いがそれは全く違う。地球の比熱
はほとんどが水が補っている。そして地球上の水はほとんどが海水と地表以下にある。
こうして、より高くより低く厳しい夏ときびしい冬が訪れ、乾燥地帯はより乾燥する。
それを平均化して均等化してきたのが鳥や小動物である。ビーバー現象というのが米国
のラスベガスで認められた。ビーバーと言えば河川に木切れでダムを造る事でイギリス
では嫌われていた。つまりダム化する川は水位が高くなり堤防が決壊すると考えられて
いたのだ。だが最新研究では全く逆だったのだ。通常の時は堤防に保水をもたらし雑草
や木の根を増やし、増水して流されれば堤防は通常の水位に、ダムがあるときでも適度
にダム下で流れをせき止めない仕組みだったのだ。同じようにラスベガス研究ではその
草木が虫や細菌などの微生物を潤して小動物を繁栄させ、彼らの糞尿がまた草木を育て
るという循環が一つの楽園を育てていたのだ。ビーバー保護区とベガス都市部は小さな
川一つ隔てていてこの川の保護区側と都市部側の農業には水が不足してしまったのであ
る。それは当然ながら木々が気温にしてたったの0.2〜2℃の差が起こっていて地表で
最大5℃の差が生まれていた。そのことでビーバー保護区には絶え間ない山からのそよ
風が、気温より表土をさらに冷やしていたのである。これがビーバー現象といわれる物
だ。東京現象はそのまったく逆で、東京湾の遊泳禁止は巨大化した都市排水が分解バク
テリアの許容量を大きく上回り、エアコンが気温上昇に付加してヒート現象を更に拍車
をかける。というものだ。近年諫早水門は開けないという裁判判決がでたが、これなど
は全く人類知を無視した判決で 日本最大の忖度裁判で汚職に相当するといえる。水門
そのものが開閉をしなければ水門ではない。この当たり前の話が世界的にも通じない様
になってきて、アマゾンなどこれまで地球の肺としての栄誉ある原住民とされていたが
、ブラジル大統領は何ら気にしていないらしい。トランプが自由の旗手の国を気にしな
い様に。中国も今や共産党政治の貧民時代の屈辱政治を気にしないで党独裁を変更する
約束を反故にして気にしてないようだ。はたして地球自体や人類未来がそれでいいのか
危うい。韓国の文政権のように 自らの御輿の失敗は自らに及ぼす、常識の知恵を持て
ない寄せ手は事故になり、曳き手も押し手も神輿を壊してしまうだろう。



241: 名無しさんAA:19/08/26 18:13


 もし今度のG7の目玉として合意があるなら 自由報道の開放であろう第一次大戦中
の報道より自由が無くなってしまった現在は、例えフェイクニュースになろうとも。或
いは政府の足かせになろうとも、自由に取材させて報道させる事が時代の欲望である。




242: 名無しさんAA:19/08/26 18:36
 トランプの間違いは 北朝鮮の単距離ミサイルを打ち上げさせている事だ。つまり、
分業体制で北朝鮮にミサイル技術を確立させる部分を認める以上イランはウラン濃縮を
止めないだろう。ウラン鉱石が産業の上に、買い手のロシア・北朝鮮・中国などの買付
が望めるなら、アメリカに打つ手はない。まずは北の核そしてミサイル開発を大小に関
わらず止めることだ。更に中国の貿易交渉は訪中前に行うべき事だ。でなかったら今更
の演技としか世界はみない。そして関税撤廃の条件は香港の解放チベット・ウイグル・
台湾・香港の自治や独立を認める事が条件だ。と明快に打ち出す事が大事だ。




243: 名無しさんAA:19/08/27 03:58
   朝鮮人に 喝!  309

 モノンハン事件は2度にわたり、一度目は互角だったが2度目は急襲であり、完全に
不意をつくもので、ここに作られようとした要塞建設の最中であった。ソ連側の作戦に
不備があり天候不順とともにやっと全滅を免れた状態だった。この時の内閣が、予備役
の陸軍大将の阿部信行が第36代内閣総理大臣に任命されていたことから、野党に厳しく
糾弾され問い詰められて1939年(昭和14年)8月30日〜1940年(昭和15年)1月16日まで
と言う短命内閣であった。当然陸軍内部も責任追及の目がきびしく、責任逃れの軍将が
多数出て、軍の明晰有能な者が排出された。この時の責任追及は特別な調査団を結成し
派遣するでもなく証拠集めて現況調査するでも無かった為、報告書による上申書の記述
で事の真相が計られて賞罰を決める事になった。この風潮が更に日中戦争の係争解決を
更に困難なものにした。阿部内閣は大戦不介入の方針を採る陸軍の重石として天皇期待
の内閣だったが、日中戦争の解決に努めたものの、時代はイギリスとフランスが9月3日
に対ドイツ宣戦布告して、第二次世界大戦が勃発し、日中戦争の解決が不調に終わって
内閣総辞職。天津事件ではイギリスと、日米通商航海条約ではアメリカと、ノモンハン
事件ではソ連と対立した日本に、独ソ不可侵条約が成立し、情勢では無限の閉塞状態に
なり、国際社会では孤立無援に陥った状態であった。いよいよの開戦勃発に国民生活は
閃々恐々として軍部の暴走を止める手だてを失ってしまったのである。1940年は、
フランコ軍がマドリードを占領しスペイン内戦終結したように見えたが、ドイツがチェ
コスロバキアの侵攻しボヘミア占領して保護領化を宣言(チェコスロバキア併合)した
危険視したハンガリー国王は、カルパト・ウクライナを攻撃しハンガリーはカルパト・
ウクライナ共和国を併合するに至った。バルカンの導火線に火がついたのだ。国際社会
で非難をうけたハンガリーは、日本と同じに国際連盟を脱退した。天候不順で凶作の年
となり、日本でも米穀配給統制令法公布せざるを得なかった。イギリスまでもが戦争準
備で徴兵制を導入し、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約破棄をあっさり宣言して
しまった。スペインもフランコ政権になり国際連盟を脱退し、何故か満蒙国境で争いが
おきて日本・ソビエト連邦両軍が衝突しノモンハン事件を起こしている。ソ連は日本と
の国境に兵を裂きたくなかったがウイグル人はいてほしかった。という内情もあった。
モノンハン事件が深淵に入る中、日本では総動員令で国民徴用令公布した。この危険さ
にアメリカ合衆国は日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告している。日本軍部は
これまでの国際規制のタガがはずれて、資金も人事も人材も豊富になった。内閣はいよ
いよ力が無くなって、文民統制は効かなかった。515事件や226事件の傷跡がここ
にもあった。賃金統制令・価格等統制令・物価統制令・地代家賃統制令施行と矢継ぎ早
に法令が施行されるに至る。米穀強制買上げ制公布実施・白米禁止令実施(七分づき以
上を禁止)・木炭の配給実施と庶民は貧困のアリ地獄にはいる。特に10月の日本国内
の石油が統制品となり、配給制となったのは、軍の取り出しが増えたからだった。



244: 名無しさんAA:19/08/27 03:59
   朝鮮人に 喝!  310

 日本の大江戸開城前の黒船来航以来、江戸幕府や明治政府が幾多にも翻弄され続けた
通商条約は突如として1939年7月に、アメリカ合衆国から日米通商航海条約の破棄
を通告された。1931年の満州事変以来、日本の中国大陸建設が進み、1937年に
日中戦争がはじまるとさらにその支配圏は、満州のみならず中国本土に拡充されたが、
これは、第一次世界大戦後のベルサユ条約時の覚書によるものだった。ヴェルサイユ条
約の建前は、第一世界大戦終結後の世界の支配をどうするか。の協定であった。大戦の
原因となったの植民地政策だということを確認し、アジアとアフリカの解放を謳った。
しかし実際には、欧州の戦勝国の賠償請求が目立って決められアジアは日本だけが戦勝
国となっていた。勝てば官軍のしきたりのまま、勝った国が負けた国から領土を奪う事
は(賠償)正義だった。しかし、第一次世界大戦はこれまでの戦争とは比べ物にならな
被害があって大きかった。米国ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日
には「十四か条の平和原則」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールし「国際連盟
創設」、公海の自由、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無
き講和」を訴えていた。条約調印式は1919年 6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行
われたが、中華民国は出席するものの山東問題の解決を不服として署名しなかった。し
かし、太平洋のドイツ領の信託統治が決められ、大陸中国国内のドイツの権限の委譲や
中国6都市租界地の日本移譲など、いわゆるドイツの植民地やドイツの協定破棄がここ
に決まった。南洋諸島についてもドイツ領ニューギニア・マリアナ諸島、カロリン諸島
、パラオ、マーシャル諸島などの南洋諸島の受任国権限も日本に任されたのだった。こ
の会議こそ、近衛文麿が西園寺公望の随行員として欧州に訪問していた一次大戦後の、
世界を決める大正8年パリ講和会議会議だった。しかしながら、あれほど米国ウィルソ
ンは人類の自由を現地民の自治を公式発表していたが、それはあくまで白人社会の中の
権利だったのである。自らも提案に加わった人種的差別の撤廃提案が否決された時には
彼は茫然とした。ウィルソンすら反対したからだ。中国6都市の日本支配を認めたのは
、単に租界地の治安が中国人やくーりーと言われる現地人では無理だと思っていたから
であった。こうした現地民とは合意しない頭越しの条約は至って簡単に行われてたのだ
が、いまの香港デモよろしく混乱の元だったが、日本は曲がりなりにも北方領土の境界
とシベリアの共同統治と中国の権益の確認を手に入れて帰国している。この後日本は、
国際社会に治安維持を理由に第三国の貿易・旅行の自由を制限し、華北・華中でも独占
的な経済的優位で支配していた。これに対してアメリカの知識人は良くなったと喜んだ
が国としては、日本が中国におけるアメリカの通商権益を妨げている。と糾弾し、日本
に対して1939年に日米通商航海条約の破棄を通告した。条約破棄は規定により6ヶ
月後の1940年に発効し、日米間の貿易関係が簡単に途絶えた。その結果多くの戦略
物資をアメリカに依存していた日本は、資源を自前調達するしかなく、この資源を東南
アジアに求めるという南進論が強まり、折からフランス・オランダなどがナチスドイツ
によって占領され併合した為に、空白となったフランス領インドシナやオランダ領イン
ドシナに進出して、石油資源その他を確保しようという路線に転じた。これは米国の罠
だったが松岡はこのドイツ領となった地の権益のために三国協定に向かっていったのだ
った。こうして1940年9月に北部仏印進駐を実行した。さらに硬化したアメリカと
の間で日米交渉が行われたが、アメリカは更に鉄屑や石油の輸出の制限に踏み切った。


245: 名無しさんAA:19/08/27 04:11
   朝鮮人に 喝!  311

こうして、日本政府はそのままABCDライン包囲網の中に経済制裁されて、その打破
という世論を高めて、太平洋戦争へと突入することとなった。そして不幸な事にすでに
アメリカの潜水艦は民間の通商交易船を魚雷で沈めていたので日本に資材が届くことは
極端に少なかった。この頃本土は非常に危機的食料不足だったが満州国や朝鮮あるいは
台湾にはさほど影響はあってない。逆に日本に輸出するほどふんだんにあった。それは
満州も朝鮮も一応は農業改革が成功していた為だ。更に日本では火力発電も多かったが
満州朝鮮は水力ダムの電力がほとんどだった。さらに日本の進駐する前は薪によっての
オンドルやペチカの暖を取っていたが石炭に変化していた。石油こそは供給が樺太オハ
油田のみになって不都合となったが、民間などでは木炭自動車も走っていて本土ほどに
は不都合していなかった。兵役の懲役制度も満蒙開拓団には農業生産に勤しませて食料
供給を重要としていたので本土以外はなかった。又不思議な事に、アメリカ国内では、
日本がゴムの供給を断った。と盛んに宣伝されて戦時国債とともに愛国心を煽ったが、
現実にはゴムの輸入を絶ったのではなく、ゴム原料輸送船が、米国潜水艦による無差別
の商船攻撃に晒されて、日本へもその後の航路のアメリカへも商船運行が出来なかった
のである。開戦にドイツの電撃作戦をまやかし戦争とされたが、自動的にイギリス・フ
ランス・オーストラリアがドイツに宣戦布告する事になった。米国は中立を表明したが
既に同盟国支援は決まっていた。せめて、南アフリカやカナダがドイツに宣戦布告した
のに続き、日本もドイツに宣戦布告して仏印占領に向かったら、又違っていたであろう
が仕方ない。こうして日本は真面目に戦争し、米英に対峙してしまった。真珠湾攻撃(
しんじゅわんこうげき)は1941年(昭和16年)12月8日に ハワイオワフ島海軍の港で起
きたたが、日本海軍の航空機攻撃は油井タンクら攻撃しない甘さだった。同時にマレー
作戦も行われたが、実は大東亜戦争(太平洋戦争)での日本軍の目的はこの南方作戦に
あった。イギリス領マレーの石油確保作戦と、国連違反の援蒋ルートの支援物資の遮断
が目的だった。南方作戦は陸海軍中央協定で定められたE作戦である。マレー作戦は、
太平洋戦争において全てに先行して攻撃の肝だった。シンガポール島の攻略を最終目標
にしてマレーの虎とされた山下将軍が進軍し、1942年 2月15日にそれを達成した。しか
し成功した理由は、あまりにも貧弱な軽い戦車と、銀輪部隊と言う奇抜な作戦が功を奏
した。欧州の進んだ重装備戦車なら渡れない橋や行けない湿地帯を進めたからだった。
その為無防備なあらぬ方向からの攻撃で落ちた。日本は第一次大戦後からの戦車の進化
は無かったのだ。それは航空機のゼロ戦でも、大型空母でも同じであった。レーダーも
爆薬兵器すら金をかけられないほど貧弱な兵器だったのだ。その中で、中国に騙されて
米国は日本退治に走って経済封鎖を行っていた。本来の共産南下阻止運動を、この戦争
はドイツの移り気で変えてしまって、国連違反も非道な殺戮も可能な戦争になっていた
事を日本人は知らないでいた。しかしこれらが米国の行動が全くの間違いだったことが
今後の世界のの混乱のもとになっていくであろう。だいたいアメリカ人とか日本人とか
人種のくくりを行うが、この国や人種のくくりは曖昧なレッテルにすぎない。本来の人
の看板は意志であり考え方であり文化文明の思想なのである。そうした意味でアメリカ
人が自由・平等・博愛の精神を捨てた時には、既にアメリカ人ではなくなる。日本の恥
の文化も同じで厚顔無恥な態度は既に日本人ではなくなる。つまりトランプは今や米国
に住むドイツ人に成り下がったのだ。これを米国は認めただろうがそれは自由の国の中
の国民として認めたのであって、トランプの意見を支持したのではない。これを間違い
盛んにオバマ政権まで積み上げて来た仕組みを破壊し続けているが、国の継承をしない
政権に未来はない。文政権も同じである。


246: 名無しさんAA:19/08/27 14:50 ID:YM
  新経済論               60

 1922年突然アメリカは暴れ川の氾濫で大きな災害となった。コロラド災害である
。かねてからこの大河は度々洪水被害を起していた。西部劇で有名なコロラド平原にも
実は自然の治水があって、全長2300Kmのロッキーの雪解け水をカリフォルニア湾
に届けるこの川は、カリフォルニア平原の140平方Kmの農地の治水はこの川は生命
の水でもあった。フーバーダムが作られたは、恐慌の為だけはなかったのである。12
の放水弁を持つ巨大規模のこの開発を決めたのは、既にドイツに目覚ましい発達と戦争
の1929年にブラックキャニオンにダムプロジェクトが開始された。都市の3割失業
をこのプロジェクトが穴を埋めた。一日5千人の作業員が投入され1935年の竣工式
にF・ルーズベルトはこれまで使われなかった川の流れが西部に恵みをもたらすと演説
した。後にフーバーダムと名のるこのダムは、年間40億Kwの電力を3州に供給した
。日本では恐慌以来長州閥の政府も資金繰りがいかなくなって、日本の産業の祖とされ
る野口尊(したごう)に陸軍が訪ねて資金と技術提供を求めた。野口尊は腹をくくって
朝鮮の経済運営に乗り出した。当時日本初のカーバイト事業で財を成していたが三井な
どの財閥の参入によって、窒化肥料の新工場を立ち上げていた。これは後の水俣病の素
となった窒素科学の会社である。朝鮮半島に渡って、野口の私財で全額出資で朝鮮水電
株式会社が設立され、赴戦江ダムと赴戦江発電所の建設し、わずか3年で成果を得たの
である。こうして日窒コンツェルンが築かれ、赴戦湖(ふせんこう:標高 1200m)の湖
は 27.5kmのトンネルを通じて咸鏡山脈南麓の城川江に落とされ、20万KWの電力は朝鮮
窒素肥料株式会社・興南工場で使用され肥料やカーバイト生産に使われた。ダム事業の
その成果は僅か3年でだして5年後はその科学産業の量は、日本を上回った。その後も
資金投下がなされて、朝鮮半島が日本の統治下であった1937年(昭和12年)に満州国や
朝鮮の電力の拡大確保の為、水豊ダム(すいほうダム:北朝鮮平安北道と中国遼寧省の
鴨緑江上流の中朝国境)に建設された。日満国境のこのダムは、設置されたこのダムは
発電機7基のうち、3基は朝鮮向けの60 Hz、3基は北京向けの50 Hz、1基は50 Hz、60
Hzどちらでも発電可能な物であった。竣工から70年以上経過した現在もダム本体は大
きな改修工事が行われず現役であるのに驚く程だ。日本統治時代の末期に8年の歳月を
かけて建設され、その強力な発電能力は北朝鮮に戦後から莫大な富と電力をもたらし、
1948年春に金日成主席によって国章に含まれるまでなっている。ダム高さは 約106m・
幅約900m・総貯水容量116億立方mであり、建設当時は東洋一の規模を誇った。又アメ
リカコロンビア川などのフーバーダムなどに引けをとらない威容と技術と先駆けをほこ
っている。この野口の成果は経済学でもとっても重要な成果でもある。つまり技術革新
よりは、何もない所から創り出す作業の大きさは、その後のうま味と利権が莫大であり
世界を変えるほどにある。ということの日本での証左であろう。それはその後の草と蛇
しかいない。とされたテキサスが突然大油田地帯と化して日本が戦争に負けた事も歴史
が物語っている。もしテキサスやメキシコの油田がなければ、黒海油田に集中して戦争
が行われ、それこそナチスの天下だったかもしれない。赴戦湖ダムは1929年10月に竣工
している。鴨緑江の支流・赴戦江を堰き止めし、面積約24平方キロメートルの赴戦湖が
生成されたが、アメリカのフーバーダムはこれを真似てダム建設に乗り出している。




247: 名無しさんAA:19/08/27 14:51
  新経済論               61

 トランプ政権が立ち上げた「カントリーファースト主義」は、まるで合図をあげた狼
煙(のろし)のように世界を変えた。トランプは決して悪い男ではなかったろう、しか
し決して人類にとっての良い影響の男では無いだろう。イギリスのEU離脱状況は人類
や市民たちが、政府の思うような、知識や良心やあるいは常識ある知恵者では決してな
い。と言う現実をさらけだしている。これまでの西洋主義文化が市民裁判や見えざる手
の市場にゆだねて衆人合意の形成で成り立っていた。これが魔女狩りの裁判の様に権力
者に委ねられた世界に変わったのをまざまざと見せつけられた21世紀でもある。今や
温暖化は、地球が東京スタンドというものが実証された。シンガーポールで世界温暖化
が1℃上昇すれば1,2℃さらに2℃では3℃近く気温が上がる事が認められた。上下の
偏差を除いても最低2倍である。つまり都市構造の機能負担を減らす努力をした地域で
あっても倍の気温上昇が認められたのである。これは異常な事だが原因はヒートアイラ
ンド現象の為でエアコンやアスファルト舗装などの原因で当然だろうと学者は見ている
。だが問題はそれだけではない。気候変動が人間の生活部において世界の温度上昇の2
倍ないし3倍ということは、それだけ多降雨と多寒冷が天候に起こるということである
。地球温暖化が温度上昇が起こると思っている人は多いがそれは全く違う。地球の比熱
はほとんどが水が補っている。そして地球上の水はほとんどが海水と地表以下にある。
こうして、より高くより低く厳しい夏ときびしい冬が訪れ、乾燥地帯はより乾燥する。
それを平均化して均等化してきたのが鳥や小動物である。ビーバー現象というのが米国
のラスベガスで認められた。ビーバーと言えば河川に木切れでダムを造る事でイギリス
では嫌われていた。つまりダム化する川は水位が高くなり堤防が決壊すると考えられて
いたのだ。だが最新研究では全く逆だったのだ。通常の時は堤防に保水をもたらし雑草
や木の根を増やし、増水して流されれば堤防は通常の水位に、ダムがあるときでも適度
にダム下で流れをせき止めない仕組みだったのだ。同じようにラスベガス研究ではその
草木が虫や細菌などの微生物を潤して小動物を繁栄させ、彼らの糞尿がまた草木を育て
るという循環が一つの楽園を育てていたのだ。ビーバー保護区とベガス都市部は小さな
川一つ隔てていてこの川の保護区側と都市部側の農業には水が不足してしまったのであ
る。それは当然ながら木々が気温にしてたったの0.2〜2℃の差が起こっていて地表で
最大5℃の差が生まれていた。そのことでビーバー保護区には絶え間ない山からのそよ
風が、気温より表土をさらに冷やしていたのである。これがビーバー現象といわれる物
だ。東京現象はそのまったく逆で、東京湾の遊泳禁止は巨大化した都市排水が分解バク
テリアの許容量を大きく上回り、エアコンが気温上昇に付加してヒート現象を更に拍車
をかける。というものだ。近年諫早水門は開けないという裁判判決がでたが、これなど
は全く人類知を無視した判決で 日本最大の忖度裁判で汚職に相当するといえる。水門
そのものが開閉をしなければ水門ではない。この当たり前の話が世界的にも通じない様
になってきて、アマゾンなどこれまで地球の肺としての栄誉ある原住民とされていたが
、ブラジル大統領は何ら気にしていないらしい。トランプが自由の旗手の国を気にしな
い様に。中国も今や共産党政治の貧民時代の屈辱政治を気にしないで党独裁を変更する
約束を反故にして気にしてないようだ。はたして地球自体や人類未来がそれでいいのか
危うい。韓国の文政権のように 自らの御輿の失敗は自らに及ぼす、常識の知恵を持て
ない寄せ手は事故になり、曳き手も押し手も神輿を壊してしまうだろう。



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