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人は言葉を失った。
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1007: 02/06 17:13 ID:EM
 柳川 銭紋  11

 日本での最初の銀行は、公式には第一国立銀行としている。ところがそれは大きく違
う。銀行と言う名で明治政府が保障した銀行の最初の認可が第一国立銀行であったのだ
。各藩の藩主の保証する藩札を発行する両替商は何処にでもいたのだ。ところがここの
柳川藩だけは大きく違った事が一つだけある。それは裏に長崎グラバー邸まで通用した
藩札を発行していた事だ。この事で佐賀の藩札は有効な価値を持たなかった。もちろん
長崎は天領であり藩札の発行許可を持てなく銀・金・銅貨が通常の交換硬貨であった。
つまり逆に言えば大坂では米が長崎では輸入品が各藩の藩札の後ろ盾になっていたのだ
。こうして日本では、幕府発行金貨などの金属通貨のほかに、約250種が各藩領内の
通貨と為り得ていた。通貨不足を解消する為各藩はそれぞれの基本交換産品があった。
博多糸割賦も同じ様に輸入綿糸の株券だった。柳川は仏具品の積立金だった。その為に
仏壇仏具、線香提灯、燭台香炉、花立線香差、茶器にお茶などを産品とした。中でも最
もな産品はハゼ蝋で作った蝋燭だった。しかし、各藩もそれなりに発展すると売れなく
なっていったという。こうして財政赤字の補填や借金の返済資金にする為、幕府貨幣と
交換できる紙幣として、縦長の藩札を発行を許可し第一回の財政改革が行われた。これ
が仏具から神棚や瓦なども生産する事だった。それまで葦葺きや藁葺きの屋根を、瓦に
する家も増えたからだ。時の千石船で城島瓦に乗じて産品としたのだ。更に仏具と同じ
に夏場に藁で〆縄を作らせ、物産開所を開いて正月飾りに売ってその後は島原までも、
売りに行った。更にイグサの植え付けを行い、それまで畳表は、萱(カヤ)筵(むしろ
)が多かった。これはワラかススキかで編んだもので、一時期幕府が町人に禁制とした
からであったが、トカラ畳表が貧民の間で流行した。これはカヤの一種ではあったが、
イグサと同じ硬さを持っていた。さらの蓼(たで)の畳が流行して、イグサとタデには
見分けがつかなくなっていて、自然消滅の形で流通が出来た。柳川藩では3代藩主であ
った立花鑑虎(あきとら)の時代寛文・延宝(1661〜1681)の頃に立花孫左衛門は武家
たちに、御蔵米渡し(現物支給)に際して手形(交換紙幣)を発行し、手形で商品が譲
与売買できるようにして便利にさせた。孫左衛門は大鶴の姓であったが、この功により
立花の称号を許された。又、元禄元年(1688)頃に戸次数馬が「札遣役」となって
正貨(金貨)と交換できる札を発行している。のちの藩札と同様で柳川藩札の始まりと
言われた。江戸時代中期頃には、商人が扱う商品の量や種類が増えた。ここで柳川藩は
船を用立てる為に、グラバーから問題の最新印刷機を買い入れている。現在あるような
銀行業務は、10世紀頃から始まった世界の貿易や文化の交易に発生した両替商から始
まったとされる。日本でこの仕組みに基づいて国立銀行法条を定め民間銀行を認可した
。その最初が第一勧業銀行であり、今のみずほ銀行であるだけの話である。
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