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人は言葉を失った。
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1008: 02/06 17:13
 柳川 銭紋  12

 当時の明治政府の、国立銀行(こくりつぎんこう)の名は、1872年(明治5年)の、
国立銀行条例に基づいて開設された。大蔵少輔・伊藤博文が練った制度が創られ、「国
立銀行」とはアメリカの national bank(国法銀行)の直訳であり、「国法によって立
てられた銀行」という意味であった。したがって、民間資本が法律に基づいて設立して
経営したものであり、国が設立して経営した銀行ではない。金貨との交換義務を持つ、
兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一・第二・第四・第五の4行が設立された。この時
第三銀行を巡る戦いが、柳川に持ち込まれた。第一国立銀行は→帝国銀行としたが金が
なく一旦法人格が消滅し第一銀行として新たに第一勧業銀行を発足させて続けた。第二
国立銀行は→横浜興信銀行で今の横浜銀行の事だ。第三国立銀行は保善銀行として安田
銀行が担った。第四国立銀行は創立時の商号のまま最古の銀行で。読みは「だいし」銀
行である。当時北陸は戦乱後で、疲弊した藩は大名が統治していたが多くの藩がなくな
り、県制となって、政府から派遣された役人だった。そうした中で流通を担うべく2年
後の明治6年になってやっと第四銀行の前身、「第四国立銀行」が誕生した。明治5年
に制定された国立銀行条例(日本最古の銀行法令)に基づき、主要都市にこうして4つ
の銀行が設立された。こうして初期の国立銀行は・第一国立銀行:東京・第二国立銀行
:横浜・第四国立銀行:新潟・第五国立銀行:大阪になった。見て解る様に第三銀行が
九州には存在しない。「第四国立銀行」の名前は、4番目に銀行設立の許可を受けた事
からだが、その間に第三国立銀行において、株主間で紛議が生じ開業に至らなかったか
らだ。柳川の高椋銀行は最終的には福岡の渡辺銀行と合併し福岡銀行になるのだが、こ
の頃安田財閥に組していた。現在の、紙幣発行権は日本銀行でのみだが、かつては国立
銀行4行で発行が可能であった。しかし当時の日本には高度な印刷技術がなく、印刷は
アメリカのニューヨークで委託される事に明治政府は決議していた。しかし日本に於い
て一ヵ所のみその印刷が可能だったのが柳川だった。既にアメリカ同等のニューデンブ
ルグの印刷機をグラバーを通じて購入し、堤印刷所に於いて藩札を発行していたのだ。
その藩札を司どる為に長崎の教会職員から連れて来たのが内山田氏だった。内山田家の
河童伝説はそうした中に産まれた。この物語は簡単に言えば、新妻の新造さんに便所で
悪戯する河童に、武士の妻であったので刀を持ち込み伸びる手を叩き切って主人に見せ
た。幾晩かした後その手を貰い受けに来たので帰してやると、お礼に尻を拭きとる約束
をして帰り、その時から便所の尻拭き紙が要らなくなった。と言う話で、子供心により
怖くなったのじゃないか。と疑問に思って変わり種の昔話の童話だと記憶していた。通
常昔話や童話は、何らかの解決がなされ終わるが、人の尻をなでる手が無くなった河童
が、最後は貴方が死ぬまで尻拭きします。で終わるのだからおかしいのは当然である。

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