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人は言葉を失った。
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 柳川 銭紋  13

 西郷隆盛は、安政5年(1858年)7月、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとした
が、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意した。又、8月に近衛家から託さ
れた孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰っ
ている。安政2年越前藩士の橋本左内が訪れた時には、国事を話し合い、その博識に驚
いたと言う逸話が残る。この頃から政治活動資金を斉彬の命で賜り国事に関わりあって
いる。江戸無血開城では03月の13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについて
の交渉を行い、当時の薩摩藩の後ろ盾となっていたイギリスからは、日本との貿易に支
障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対を伝え聞いていた。しかし、実は大久保利通ら
は「血を流さなければダメだ。」と強硬に武力行使にこだわっていて、その狭間にいた
のである。「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針で西郷隆盛は単なる持ち上げられた
鉄砲玉であったし、本人もそれで良い。と思っていた。しかし、それを見切っていたの
が勝海舟で、「お前はん、天皇を持ち上げる事も大事だが、ちゃんと新政府で国民の命
を騒乱から守り、日本を異国船から守るつもりはありますか。日本国中がこれで荒れて
国民が居なくなった所にエゲレスから多くの南蛮人を受け入れて国をつくるつもりかな
。少なくとも徳川幕府は今まで守りおおせている。今の天下万民が日本語を受け継いで
いるがなや。己が死してその罪を背負うても、それは背負うた事にはならんのや。大奥
が、家主の子を産むようにとあるように、新政府は子子孫孫まで、十年後百年後も日本
のこの日本国土の上に日本人が日本語をしゃべって生活してると言う保障はあるのかい
。」と問いかけている。無血開城は望みであったが、問題は自軍の熱気であった。橋本
屋での2回目の会談で海舟から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道
軍に伝えるように命令し、自らは直ぐに江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督であ
った有栖川宮に謁見して勝案を示して、さらに又静岡を発して京都に赴いて説明し、20
日、朝議にかけて了承を得てやっと無血開城となったのである。つまり、勝海舟と会談
した二日目は如何に新政府軍の上層部や京都の公家や公家を守る武人を説き伏せるかに
あったのである。その為に勝海舟は多分に幾つもの書状をもって来たと思われる。江戸
へ帰った西郷は、改めて4月4日に勅使・橋本実梁らを迎え入れ、江戸城に乗り込み、
田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。その時の
寂しさは、新たな日本政府の不安と同じだったのではなかろか。

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