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人は言葉を失った。
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 柳川 銭紋  14

 こうして江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩の伊達氏を盟主として樹立された奥羽
越列藩同盟との「東北戦争」に臨む事になった。5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山
軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかで、江戸守備を他藩にまかせて、配下の
薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとした。しかし多くの反対に遭い、大村益次郎の説得
によって、上野攻撃を優先し、ここでの戦いをすることにした。05月15日、上野戦争が
始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破ったがこの上野戦争は実は会津藩すらも
全員が戦争とは思っていなかった。もともと無血開城の会談にも、幕府は主戦派の小栗
忠順や榎本武揚らと、恭順派との対立があった。慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新
政府軍の東征大総督府参謀である西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談して、徳川
慶喜を納得させ、水戸謹慎と04月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸の
総攻撃をやっと回避された様な形だった。幕府方も又徳川慶喜に戦う気はなく、徳川恩
顧の強硬派を沈める方策を模索する状態だったのである。抗戦派の幕臣や一橋家家臣の
渋沢成一郎、天野八郎らは勝手に彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置い
たが、後に上野に移した。旧幕府は仕方なく恭順派が彰義隊を公認し、江戸市内の警護
を命ずるなどして懐柔をはかった。がしかし京都の新撰組同様に、徳川慶喜が水戸へ向
かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭して行動を始めていたの
だ。こうして彰義隊ら旧幕府軍の関与が疑われる殺傷事件が続発し、西郷の持つ大総督
府軍は05月14日、大総督府軍は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを正式に決めた。こう
して翌日の戦火に備えて徳川家達に徳川家の位牌や宝物などを寛永寺から避難させるよ
うに命じた。こうして突然彰義隊との戦いになり、徳川家家臣は位牌や宝物などの避難
の終わるまで攻撃開始を遅らせるように求め、又一方で寛永寺の旧幕府軍の解散を説得
し、彰義隊に解散を説得するので攻撃開始を遅らせるように大総督府に働いたが手遅れ
であった。5月15日(7月4日)新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門
口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突したという。新政府軍は
新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の
東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃
を行い。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射し
たが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込み、計画通りに
午後5時頃には戦闘は終結し、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走し
た。戦闘中には江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると
予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

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