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人は言葉を失った。
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 柳川 銭紋  15

 つまり、ここで起こった戦闘は西洋式の将棋兵法であった。いわゆる戦略戦争である
。その意味では大村益次郎は、早くも急襲し敵の逃げ道まで用意した戦いを体得してい
たのだった。この後西郷は、5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主
の島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害してい
て、日当山温泉で湯治した。しかし、北越戦争に赴いた北陸道の新政府軍の戦況が思わ
しくないため西郷の出馬が要請されて、07月23日に薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官
)を命ぜられた。その後8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間
もない14日、五十嵐川の戦いで負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。藩の差引の立場
から北陸道本営のある新発田には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋
らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台
藩、会津藩が降伏すると09月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で、幕
を閉じる事となった。三条実美(さんじょうさねとみ)は、尊王攘夷派を代表する人物
で、公家出身の実力者の家系で、摂関家に次ぐ公家の名門だった。三条家の父も強硬な
尊王攘夷派であった為、実美もその影響でか熱心な尊王攘夷派で七卿落ちになっている
。実は大政奉還からこの明治政府が改めて選挙による政府に為る間は、実は今の中国の
様に、明日の解らない束縛の中にあった。開国を迫った通商条約までに各藩の鬱憤が詰
まっていた。徳川慶喜は大政奉還を出したところで幕府がなくなるだけで徳川家自体の
力は残っていて議会制政治に上手く行けるだろう。と鷹をくくっていた。しかし、その
後この大政奉還後の政治体制のしくみについての、朝議の小御所会議に出席しなかった
のである。ここに王政復古の大号令案を奏上された。王政復古案の合意は容易であった
が、新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となっていた。もともと
が合議制の徳川の小田原評定に呆れていて、それ以上の公家の評定に怒りがあったのだ
。@大政奉還の時に出された将軍職辞職の許可A京都守護職の廃止B幕府の廃止C摂政
・関白の廃止(これは藤原道長の子孫である五摂家「一条・二条・九条・鷹司・近衛」
の存在で、後見役として務めてきた天皇の代理権力者である摂政と関白を廃止した。こ
うして天皇に権力が集中するようになった。Dこうして幕府の代わりに三職を設置して
・総裁(幕府の将軍と同じポスト。有栖川宮熾仁親王が就任した) ・議定(議員みたいな
ポスト。主に公家や皇族が就任した) ・参与(議員と同じポスト主に薩摩藩と長州藩の
人が就任した。) という役職を作った。E徳川治領地の返納、と言うこの会議によって
徳川家の辞官納地(役職をやめて領地を天皇に返す)ことが決められ、権力ポストすらも
つけなくなってしまっていたのである。この展開はおそらく徳川慶喜には意外だった筈
だ。慶喜は幕府がなくなっても天皇は権力はないから、結局は徳川家中心の政治体制に
なると思っていた。さらにこの時薩摩藩と長州藩は朝廷から倒幕の密勅を出されており
、幕府を潰せると思っていた長州藩と薩摩藩は、この大政奉還によって肩透かしをくら
う事で公武合体派の力を削げると信じていた。


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