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人は言葉を失った。
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 柳川 銭紋  16

 実は三条実美もこうした展開で自分が天皇直下の最上位にて采配を下す事は、予想し
てはいなかったし、それ以上に政府というものの実態すら、藩主の経験がなく予想だに
していないものだったのである。そう言う意味では行政に長けた者は西郷一人であった
。それは島津斉彬の采配の良さと通じていた心があったからだ。そうした中で2つ事が
起こっていた。一つは各国に対しての主権の宣言である。徳川幕府に代わって成立した
新政権との間でのみ「外交関係が結ばれる」ことを要請した書簡を送付である。しかし
これは各国政府は、既に交わした日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじ
ょうやく)は無効とはならない、新しい条約にて廃棄されると言う返事である。明治新
政府では旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度か
ら順次外国公使との交渉を続けていたが、本国との連絡もあり一向に不平等条約の改定
に向かなかった。もともと1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との
修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決め
であったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図る必要に迫られた。
2つ目は金銀通貨の漏出である。日本の通貨は価値が高く、当時は既に金貨や銀貨は、
銀行で保管し紙幣を発行してるのが普通だった。日本のこの金銀の流出を避ける為には
早急に紙幣を発行する必要に迫られていた。そこで1870年10月には、日本新政府として
北ドイツ連邦フランクフルトの印刷会社ドンドルフ・アンド・ナウマン社に注文してい
た偽造通貨対策のための紙幣がまだ届いていなかったのだ。明治通宝と呼ばれるこの紙
幣は今の悪鋳造の手間を減らす事が必要であり、改悪した鋳造通貨は一部でしかなく今
でも外国から回収させられて物価が異様な形に変わっている中にあった。更にウィーン
においての万国博覧会の開催も情報があった。本来は、元々大隈重信の発案の小規模な
使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものと変貌した。さらに
外国に行った事のある薩摩などの使節団員らからの強い視察の勧めもあった。こうした
一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは、当時でも極めて異
例な事だったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を
得ることで、彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・
経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。
しかし、この岩倉使節団(いわくらしせつだん)と呼ばれる明治4年〜明治6年(1873年
09月13日)までの間は、留守役となったが西郷と三条で後の西南戦争の原因となったの
は必然でもあったかもしれない。

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