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人は言葉を失った。
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 柳川 銭紋  17

 そもそも西郷隆盛は、この新政府内では逸材だった。武力も長け知略も長け人情も又
人一倍あってその上おおらかな天真爛漫の人柄であり、更に島津斉彬の家臣であった為
に人の意見を聞く度量や器量は大きなものであったと言われている。五十嵐川の戦いで
負傷した二弟の吉二郎の訃報で、これまで非情に徹して身を制していた物が壊れたのだ
。悲嘆にくれた姿を見て、緒方洪庵に学んだ大村益次郎の声かけて山県有朋らによって
招魂社が明治1(1868)年京都東山に設けられた。しかしこれは福羽美静(ふくばびせい
)らの討幕運動で、非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)に
祀ったものを真似た物だった。63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。次
いで東京招魂社が同5年東京九段上に建てられて各地から合祀された。がこれが後の、
国家神道の基礎になるとは誰も思わなかった。黒船来航時の殉国者と伏見戦争(戊辰戦
争)の殉国者を併せて慰霊した招魂社(靖国神社の前身)の設立を決定し、その境内に
は資金源としての、競馬場も設置され、神事として陸軍主催の競馬が催された。ここで
は優秀な軍馬は払下げられて、競馬産業の発展と軍資金の確保をもたらした。 閏4月21
日には政府機構の再編が行われ、アメリカ合衆国の政治制度が参考にされて、行政部・
立法部・司法部にわかれた三権分立型政府へ移行した。三権分立型政府の長として岩倉
はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任し
て京都で司った。東京にいた三条実美とともに二人体制での就任だったが、三条の方は
徳川家の処分の全権を任されていて、西郷隆盛を従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質
的な首班でこれを決めていた。こうして、岩倉は就任早々宮中改革として公家に学問の
時間を与えるため、公家の宿直(御所での24時間勤仕)の制度を廃止し、また御所内の
庶務にかかる人数も大幅に削減し反対派を押さえた。こうして身の回りに落ち付きが出
始めて後、外交交渉の行き詰まりから、日本を出てアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に
派遣する大使節団の話になったのである。岩倉は反洋の塊であり、これからの日本には
そうした頭の固い話ではいけない。とする持ち上げで、岩倉具視を正使とした、政府の
首脳陣や留学生を含む総勢 107名の大派遣団となったのである。こうして 1.条約を結
んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する目的とし 2.江戸時代後期に諸外国と結
ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉を行う。と言う義務を負い旅立
つ事になり。同時に 3.西洋文明の調査をして国力増強を図る事に主眼をおいて出航し
たのである。

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