負けるなふたみー


@3ch掲示板 > 負けるなふたみー
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 最新50

負けるなふたみー

1: ふたりー:11/04/09 00:17 ID:Wk
負けないためには、勝つしかない。
引き分けなど存在しないのだ!

764: 名無しさんAA:13/07/28 13:41
黄泉の国物語 109

「・・・」「そうだ。ブッダ王子とジャイナ王子は白髪王よお前を守るためにこの地に
来て祈りを捧げたのだ。私が誘った訳ではない。人を憂い生を賛美し白髪王を偲んでは
祈っていたわい。そして当然 自ら旅をしては、このパラレル界の患部を見て具合を覗
いに来てはよく祈った。」「・」「悪意から追われながらの 彼らはよく闘っていた。
呆れるほどに修行をしていたよ。誕生とは何か 暗黒とはなにか。生と死とは何か。」
「そして神とは何か。そうして彼らは人の持つ境地が神なのだと言う事を知ったのだ」
「そこで一つの結論が出たのが無の境地だが いかんせん無とは何もない世界暗黒さえ
ない世界。無さえない世界これが無だ。」「無さえない世界。」「そうだ。これこそが
知恵の中にある。」「観世音菩薩」「そうだ 我らを常世の主と呼ぶ奴もいるが観音と
呼ぶ奴もいた。ブッダは観世音菩薩、如来の化身と噂された。いい迷惑だろうがな。」
「菩薩だと。・・・」「この人は人間。・・・」「三千世界を行き来し神を凌駕しては
時空を超える老人が 如来になる約束をされただけの修行した人間だと・・笑わせるな
。」「彼らを人間だなどと誰が言った。」「・」「ただあの二人は昔そう呼ばれていた
。そして彼らが願ったのはうぬが幸せだったからのう。」「・」「お前じゃよ。白髪王
いや白日王の称号を持った程でありながら表に出られないお前の悲運をそのまま受け継
いだようにな。螺王お前を日輪の大明王大日如来と崇めていたからな。」「その悲痛な
叫びを聞いてわしがこの世を創ったのじゃよ。」「祈りか。」「そうだ。この二人が聴
きとったものは 無の叫び生への憧れだったはずだ。そして生すなわち時間が生まれれ
ば 次に無の懐かしむ声を発する。・はははは人間と奇妙なものでな そして神となっ
た彼らも又 人間と同じこの時間この真実の実の事も 自らの居場所が何処にあるかも
今だに確かめる事が出来ぬようだ。」「・・」「そうだ。お前が思う通りだ。この真実
の木の実はわしがほおり投げた訳ではない。自らにこの無の世界に有を創ろうと飛び込
んだのだ。お前には気付かなかったろうが。」「そんな筈はない。あんな小さな石の様
な物に意志や魂があろう事などあるはずもない。」「ほほう それは奇妙な論理を出す
ものようのう。木々の祈りが人間に伝わらない様に見えない感じないものじゃが、春に
芽吹き夏に茂り秋に葉を落とし年々大きくなる物が 魂が無いなどと何故断言するのだ
。これはお笑い草だ。ハハハハh」


765: 名無しさんAA:13/07/28 16:41
泉の国物語 110

「・・・」「それが人間の浅はかさを産んだ理由だ。ある頃からこのパラレルに異変が
起こった理由じゃろうてのうばあや。」「そうだろうよのう。いずれはこの木にこうし
た木室の祠となる穴は出来るとは思っとったが、こんなに早く深く傷つく羽目になると
は清龍も又思わなんだて。」「・・・・」「どうした。お前の望み通りこの世界パラレ
ル界も暗黒界も理解出来よう。ブッダ王子とジャイナ王子の救出も白髪王のお前なら、
出来よう。彼らとて言う事を聞き入れるはずだ。この地に来てお前の為に祈りを捧げた
ぐらいの彼らだ。この私が誘うよりはずっと簡単に来たはずだ。」「なるほど どうや
ら我々はお前達常世の民という この神々の罠に落ちたようだ。」「罠だと! なにを
小癪な。罠なんかではない。お前さんの言い分に合わせ 二人の話をしたまでだ。」「
ああそうかもしれない。だがそれで時間稼ぎをし 我々を喰ったこの真実の木の守り神
虹色の龍は 一体何処まで時間を遡るつもりだ。」「・・・ほっほっほ さすがに見抜
いていたか。」「遡るって。・・私達はタイムマシンにでも乗ったのか。」と鬼が騒い
だ「ああ 今時間を逆行している龍の腹に我々はいる・・・」「何だって」方々から声
がする。「どういう事か教えてくれ白髪王よ。」「なあに簡単な事だ。こいつらかが今
アインシュタイン博士の夢枕にでも言った事が 今起きているだけだ。」「相対性原理
。」「そうだ。物は光の速さを超えないって話だが、同時に我々は反物質が走る空間。
すなわちこの木の意識の下にいる。我々霊体はエネルギーも物体としての質量もない。
人々の言うブラックホールと言う光さえ飲み込む中のその又時間さえ止まっている中と
いう中にいる。かくて昔物質と反物質が出来たビックバンの後 この木が反物質を食べ
た。いや固めた。そうして時間は一方通行になったが この龍がその反物質を固める物
の集まりで 今や自由にその過去に行ける。その乗合バスに飲み込まれたのだ。」「・
」「現生では光と言うより極限の速さよりは速くは何物も動けない。だが意識界霊界は
物が無い世界だ。だからこそ生を生じさせ無から有を産む事が出来る。だがそこに時間
が存在しているのだ。一旦時間のある世界に行けば戻る事は出来ない。したがってここ
時間のない世界に物が来る事はエネルギーにしかならない。そのエネルギーこそが霊界
であり意識界なのだ。」「E=mC2・・ってか」「そうだそしてその止まった時間は
それは光でも熱でも電磁波でもない。暗黒物質との摩擦だ。この木のもつ大地だ。」「
大地だって・・この宙に浮いた木が大地に立っていると。」



766: 名無しさんAA:13/07/28 17:03
黄泉の国物語 111

「大地と言う栄養」「そうだ。そう考えれば良い アインシュタインは重力を加速する
ロケットの中と同じと言ったのだ。それが質量とした。では加速して何処に向かってい
るか。どこにも向かっていない。質量は圧迫されて反発しているだけだ。この暗黒物質
に。つまり逆に言えば重量ある物は常に暗黒物質を物を放射しているのだがその力が外
に伝わらない状態にある。だが隙間の多い空間にはその反動に重力を保てない。そこで
電磁波や熱や光の粒子が外に向かう。がここは逆だ。この空間は時間も光も閉じ込める
芯はかなりの圧力を受け およそ太陽ごとき放射でも、胡麻の粒より小さく逆行する時
に閉じ込められる。それは海の底で空き缶が水の圧力で潰れるように暗黒物質も又そこ
に押し込められた。その世界に一体何が行けるというのか。我々のような霊界の意識し
かない。ここが肝心だ。人の意識ではない。霊界の中の意識だ。何故光より早く行ける
かがその理由がそこにある。人の意識も様々な粒子の大きな空き空間の中をめぐりゆく
。だがこの我々のいる暗黒物質とて時間の中にある場合のみだ。今や虹色の龍が腹にい
る事でもその人の意識は耐えきれなかったのだろう。だからもっと薄い重力や時間の影
響のない我々の様な霊界の意識言わば魂をこのパラレルの芯に向かわせてみたのだろう
。この虹色に見える龍は そうした暗黒物質や時間を跳ね返しているから時折その虹の
姿を見せるだ。かつて青龍が水しぶきを上げているように。」「つまり人間界でいう所
の運命を時間を逆行させ具現化させたるように、と言う事。」「そうだ。」「レインボ
ウドラゴン・・・あっ・・禅問答の世界・・」「そうだ其喪参切羽の世界だ。何の障害
もないものは光より早く動くし時間より前にも後ろにも行ける。それがわしらが常世の
主と言われる所以だ。過去にも未来にも何処にでも行ける。」「そしてこの真実の木の
芯ブラックホールの芯 時空を超えた宇宙の芯まで行ける。」「36億年の昔にまでも
・・」「そうだ」「いやいやもっと前だ それは太陽系が持つ宇宙でありある時の種子
の芽でしかない時代。原始宇宙ではない。真宇宙の世界までもだ。」「だがわしらは、
行っても行くだけで何もできない。幽霊が現生界に何もできない様に。」「そしてそこ
には人間のみならず様々なものの欲や夢や悔いや怒りや悲しみが集まって来ている。」
「・・・」「その整理をしようと2人は行ったということか。」


767: 名無しさんAA:13/08/03 20:45 ID:1vw
黄泉の国物語 112


「それはわしにもばばにも解らん。更にわしら自体彼らに見えるのか見えないのか 声
が聞こえているのか聞こえてないのかさえ解らん。わしらは霊が現生界を見るように彼
らを知るだけで手を出すどころか話しかけることさえままならぬのじゃて。
 「そうか。我ら只々意識界の住民でしかあり得ないのか。」「そうだ。だがその意識
こそが光速をも超える力を持つ。そして われらはその意識界の住民の更なる意識何ら
実体のない意識が常世の主と言うわれらの存在だ。言わば岩や石或いは地球などその物
の意志。従ってどんなに動こうともどんなに叫ぼうとも聴こうとせずば聞こえない。」
「そうじゃ じゃからしてある時は天使とある時は悪魔と勝手に呼ばれていたがのう。
」「お前らはいい方じゃて 人間共に幻も夢も見させる事が出来る。悪夢も暗い気分も
。じゃがわしらはせいぜい太陽風をして銀河弾や宇宙線を守る事ぐらいじゃった。」「
守り専門の神の夢と人間の持つ欲望の夢という実体のない者同志の対談か。おもしろい
例えをするものじゃな。この虹の龍の腹の中で。がこの虹の龍が何処でわしらを降ろし
てくれるか・・ ん。。」「さっきは定期的にこの龍は見周りしていると言うことだっ
たはずだ。と言う事は 常に何億年も瞬時に往復しているのかこの龍は。」「という事
は ぬぬぬ 謀ったな常世の主このままいる事が正常になってしまう。わしらがこの腹
から出る時がビッグバンの新たな始まり 生き物の意志の中の神。その神の中の意志に
われらが命があるとすれば われらとて生き物進化を望む事を有する。常世の主お前の
意志が電脳社会を創ったのか。神々を排除しようと。われらを誘いだすために。」「・
・・」「どういう事石や岩の意志とは何。」「つまりは人間などへに砂時計を背負わせ
たという事だ。この婆と爺が。」「何のために。」「大きな宇宙の意志として いや霊
界や暗黒界の秩序の為に。生物界に2割の欠陥があるようにどんな物でも完全体を目指
す事は石や岩いや光でも同じだと言う事だ。」「それが暗黒界の秩序。」「そうだ完全
が無いという完全さだ。」「保持保身。」「常に動く事を止められない時間の中で時間
を創ってしまった以上光さえも動いたまま閉じ込めるしか方法はない。輪廻やサイクル
生物環の世界だ。」「それがパラレル世界の中心。」「そうだ そしてそれに疑問を持
った二人とその疑問を導きだす我らを人身御供のごとくに 同じ手法で龍の腹に閉じ込
めたのだ 自分達の命とも引き換えに。そうだろう 常世の主。」


768: 名無しさんAA:13/08/03 21:20
黄泉の国物語 113

「常世の主答えよ。我らを何故に此処に閉じ込める。我らを何故に虐める。そして何故
我らは此処に生きている。自立した意志を持って。そして何故2人を助けようとしたん
だ。答えよ常世の主 とても運命ではないはずだ。あの二人は何故に我らと会って共に
闘おうとしない。」「誤解じゃよ。途方もない誤解じゃよ。我が民は何も現生界も暗黒
界も或いは無の世界も神々の世界もこのパラレル界も何もかもが関知するものではない
。ただただこの真実の木のみが我らの知るところでよりどころなのだ。お前達ならば解
るはずだ。慈愛と言う名の甘露の雨を降らすことがどんなに大切な事か。何も無い所で
愛や信心からのみ創りだす まばゆいばかりの小さな命こそが 存在価値のある唯一のも
のである事が。」「その真実の木の意志によって我らは生かされ此処に来たとでも。」
「いやお前らはここまで 意志は自ら望んで此処に来たはずだそして今も又生かされて
いるのではない生きる資格を追い求めて生きているはずだ。」「まるで鳥の心情だな。
常に食べ常に飛び常に生かされる所を探す。飛びながら安住の枝を探し求める。」「・
」「だが今まだ隠しているはずだ。真の目的を。」「真の目的・・」「ああ言うなれば
最後の晩餐 仏教での宇宙の輪廻転生。」「はははは なんだそういう事か。」「笑い
話じゃない。この疎に大きな原子の中で お前達は影響が無いだろうが 我らは大きい
ダメージだ。更にこの何んともしようのない虹の龍の腹に納まった事はお前らの思うつ
ぼではあろう。」「さすが神々の王になるにふさわしい洞察力じゃてなぁじぃ。」「お
うばばや。わしが言った通りだろ。暗黒神 魔界の帝王が友を間違うはずがない。」
「どういう事。・・」「こいつらはわしらにもう一度神の創始者となって貰いたいとで
も思っているのだろう。この虹の龍が時間を遡ってい理由が 全てのパラレル世界の一
掃なのだ。もちろんこの真実の木の病根を直す為にな。なあに先の二人はわしらが来る
様に 餌として先行させたまでだ今だ生きているはずだ。正義の使徒として。」



769: 名無しさんAA:13/08/15 10:11
黄泉の国物語 114

「さすが察しが早い。」「何を偉そうに。我らに新たな世界の創造主となるを求めただ
ろうが 決してわしらはここを出ない。」「そうかな それが出来るかな。」「・例え
逆行する時間に彷徨い流浪の旅人となろうとも 古いパラレルワールドを壊したりはし
ない。つまり新たな創造主になろうはずもない。」「ほほう 果たして先行して待って
いる2人を見はなす事ができるかのう。」「人質か。」「まあ見放す事も他愛もない簡
単な事じゃが」「いいや決して見放しはしない。ここに来てまで助け出す事は当然だ。
が お前達の魂胆が解った以上 手伝いはしない。もし無理強いしたとしてもお前達は
幻覚と同じに我らに手出しが出来ないはずだ。」と言い終わらない時青鬼が足元の小石
を投げた。その小石はまるで煙に投げる様にすっーと身体を抜けて 龍の鱗の闇の中に
消えて行った。それを見て、他の赤鬼も黒鬼も次々に投げた。顔に当たりそうになった
時わずかによける。あわてて白髪王は子供を制する様に「止めよ。」と言ったが、常世
の主は「あははは、無駄だ無駄だ。無駄な事だ。もともと実体のないわしらに歯向かう
事は不可能な話じゃ。あはははは。お主らが気が変わる頃に又会おうて なあ。お婆や
」「そうじゃのう しばし時を置かねばわしらの云う事を解らぬようだてのう。」「そ
うじゃ そこの鬼っこ達に良く話をして置くが良い。時の神は何時でも何処でもお主ら
の悪行を見守っている。とな。このパラレル界を守る真実の木を守る事は 当然ながら
お主らの命を守る事だとな。」「・・・」「そうじゃ お主も速く神の意志を悟るが良
い。子孫繁栄と具主の神は契約をして この木を育てたのだ。この木が枯れる事あらば
お前たちの親である暗黒神も白日神大いに悲しむ行為のはずだ。その意志の上にわしら
がいる。白王の名も黒王の名誉も王冠も時あってこその成り立ちだて。歴史の正しさは
今のお前が証明せねば 誰がそれを行う。どうだ違うか。じゃあ又会おう。」と消えた


770: 名無しさんAA:14/01/25 23:36 ID:Pb.
黄泉の国物語 115

 鬼っ子は揃って振り向き「白王様。」「白髪王」とそれぞれに呼びかけた。ただ茫然
と立っていた白髪王は突然よろけたが 白馬はすぐさま後ろに行ってその身体を背なに
受けた。「ああ・・」と言うなり座り込んだ白髪王に又口ぐちに呼び掛ける。「白王様
。」「ああ解っている この虹の龍からどうにか脱出せねばのう。」「じゃが手立てが
見つからぬ。更に常世の主が何物かが今だ解らぬ。」「・・・」「ああは言ったものの
さてさてどうしたものか。」「大丈夫ですわ 私らは今だこうして健在だし人間と違い
食べ物がいらない身体だから。」「ああ解っているだが問題はこれだ。」と石を手に持
ち投げた。投げた石は遠くまで飛んだが 虹と交わろうと言う所で突然消えた。時間の
壁に飲み込まれたのだ。「あの壁が動かない保証はない。今のところ動く気配も無いが
のう。」みな口をつぐんだ。「う〜ん。」と座り込んだ老人は「こりゃ^困った。」と
天を仰いだ。「あの 例の真実の木の葉は役に立たないの。」とそっと娘が言った。「
ああこの魔法のような木の葉も 魔法があってこその木の葉じゃけにのう。今やわしの
身体には 霊気も覇気も何も無い事が解ろう。わし自身このこの身体を保っているのが
やっとだわい。いや〜困ったのう う〜ん。」とうなった。「でもその真実の木の葉は
霊力で薬にもなるのでしょう。少し食べてみたら。」「おおそうじゃな 他人にはやる
が自ら飲んだ試しが無かった。少し噛んで落ち着いて考えてみよう。」「ええきっと何
か良い方法もあるはずだわ。あの幽霊のようなタコ坊主の言う通りにならなくとも。」
胸元からこそぐり 財布のような袋を出し「おお皆も咥えてみな わしのようにな。」
と自分は一枚だけ口にして他の者に 3枚ずつそれぞれに手渡した。それはまるで昔の
ままごと遊びの料理の様でもあり金を払うような遊びの様でもあるような光景だった。
が「・・あははっははっはは。。なんだそういう事か。おかげで気がほぐれたわい。そ
うかそうか。ここはパラレル界の中心じゃったわい。そうか。そうか。忘れていた。」
と叫んだ。



771: 名無しさんAA:14/02/01 06:46
黄泉の国物語 115

 鬼っ子は揃って振り向き「白王様。」「白髪王」とそれぞれに呼びかけた。ただ茫然
と立っていた白髪王は突然よろけたが 白馬はすぐさま後ろに行ってその身体を背なに
受けた。「ああ・・」と言うなり座り込んだ白髪王に又口ぐちに呼び掛ける。「白王様
。」「ああ解っている この虹の龍からどうにか脱出せねばのう。」「じゃが手立てが
見つからぬ。更に常世の主が何物かが今だ解らぬ。」「・・・」「ああは言ったものの
さてさてどうしたものか。」「大丈夫ですわ 私らは今だこうして健在だし人間と違い
食べ物がいらない身体だから。」「ああ解っているだが問題はこれだ。」と石を手に持
ち投げた。投げた石は遠くまで飛んだが 虹と交わろうと言う所で突然消えた。時間の
壁に飲み込まれたのだ。「あの壁が動かない保証はない。今のところ動く気配も無いが
のう。」みな口をつぐんだ。「う〜ん。」と座り込んだ老人は「こりゃ^困った。」と
天を仰いだ。「あの 例の真実の木の葉は役に立たないの。」とそっと娘が言った。「
ああこの魔法のような木の葉も 時間があってこその木の葉じゃけにのう。今やわしの
身体には 霊気も覇気も何も無い事が解ろう。わし自身このこの身体を保っているのが
やっとだわい。いや〜困ったのう う〜ん。」とうなった。「でもその真実の木の葉は
霊力で薬にもなるのでしょう。少し食べてみたら。」「おおそうじゃな 他人にはやる
が自ら飲んだ試しが無かった。少し噛んで落ち着いて考えてみよう。」「ええきっと何
か良い方法もあるはずだわ。あの幽霊のようなタコ坊主の言う通りにならなくとも。」
胸元からこそぐり 財布のような袋を出し「おお皆も咥えてみな わしのようにな。」
と自分は一枚だけ口にして他の者に 3枚ずつそれぞれに手渡した。それはまるで昔の
ままごと遊びの料理の様でもあり金を払うような遊びの様でもあるような光景だった。
が「・・あははっははっはは。。なんだそういう事か。おかげで気がほぐれたわい。そ
うかそうか。ここはパラレル界の中心じゃったわい。そうか。そうか。忘れていた。」
と叫んだ。



772: 名無しさんAA:14/02/01 06:47
黄泉の国物語 116

「何かいい妙案でも。」「いや何こういう事だ。」とひそひそと小声で言った。「いい
かみんな 恐らくやつは次の我々が悲嘆にくれた姿を見たがってやって来る。その時に
顔に向かって行くんだ。そう皆んな一緒にだ。同時に顔その目に向かって行くんだ。も
し何かが放たれた時には少し上の額に向かって行っても良い そこがこの龍の出口だ。
このまやかしの光の龍から出るには この一つしかない運命の入り口に向かうしか他に
方法は無い。いいかもう少ししたら奴が来る筈だ この龍の速さが少し遅くなると同時
のはずだ。姫はピプロに乗っていたが良い他の者も足が遅いのであれば白馬に乗れ。い
いか同時にだぞ。それから白馬達よあまり早く走るな。そうさな白鬼に合わせたぐらい
の速度だ。わしも同じく行くがわしは何せ老体だからな。何白鬼がワシにあわせ白鬼に
白馬達が合わせれば良い。皆もワシに合わせよいいな。同時にだ。ははは。これで良い
。その時少し霧のの様な透明の龍の流れが遅くなった。「今じゃ。投げろ ドンドンな
げろ。」とその中から現れようとした影が少し揺らいだ。だがひるまず幾つもの石ころ
が投げられ「よし行くぞ。」と杖を前にして霧を切るそして少し小走りの様な調子でど
んどんと進んでいく。勢い霧が深くなった。「ひるむな進め絶対に離れるな。」まるで
猛吹雪に山を降りる登山家のようであった。しばらくすると 霧も晴れた元の岩の穴倉
の中にいた「よし晴れた。皆の者いるか。」と老人は振り返った。するとぎょっとした
。後には手が繋がった 得体の知れない者が 一人は大きな口を上にして倒れそこから
黒鬼が出て来ていた。そしてその横には大丈夫かといわんばかりよりそう様な5つ目が
後ろにいた。「お前が 常世の主の正体か。」五つ目の二つがぎょっとこちらを睨んだ
。「遊びがすぎたな常世の主。」「。。。」「お前が時間を滅ぼし 又昔の無地の世界
を織りなそうというのは解った。恐らく悔いての事であろうが だがそれは不可能じゃ
。世界を飲み込もうにも今や 世界は広がりの中ありお前の胃袋の龍では消化は出来ぬ
。」



773: 名無しさんAA:14/02/04 02:46 ID:EXo


黄泉の国物語 116

「胃袋の龍・・・」「ああそうだ この常世の主は時間を歩くと言うのは真っ赤な嘘。
只単に 裏返しの世界への入り口に過ぎぬ。と言う事だ。」「・裏返しの世界・・・」
「ああ かつてわしらは 単に物質にすらもなってない時代があった。常世の主がこの
世の創造主であるのは間違いない事実だろうが。常世の主であって神になれない理由は
一つ。意志や意識或いは精神世界と言っても過言ではないが その中の芯であって単な
る記録を司るのみだからだ。つまり架空の意識のない意識。」「意識のない意識。」「
ああ夢と同じ。いや動けずひたすら人に問いかけると言えば 現実世界では大木や植物
と同じと考えればいいだろう。」「木々・・・大木」「そうだ我々が真実の木としてい
たのが彼らの神経 更に我々が乗って居たのは彼らの胃袋。そしてこのパラレル世界の
芯こそ彼らの病巣 精神の病の中心。真実の木の実は結局はのみ込んではいけない時間
の病原菌を飲んでしまった事に他ならない。」「・・・・」「まあ人間の身体が外に向
かって出来上がったもの、とでも言えば簡単に理解出来るかも知れない。其れゆえに、
実体のない精神世界の身体を持つとでも言えよう。そしてわれらの知る現生界はこいつ
についた細菌のようなもの。この黄泉の世界も又こいつの皮膚のようなもの。と言う事
だ。あまりにも大きく 宇宙の果てまで図体がでかい為に見落とされがちだが ただそ
れだけのこと、意味はない。問題はその意味の無い宇宙の中で異物が時間と空間を作り
いつの間にか 生物やら意識というものまで作ったと言う事だ。そのせいで彼らには、
限られた命やら 時間と言う仕切られた観念が作られ 死ぬことの無かった身体が死を
知り得た事。それがこのパラレルを作った。つまりは不安が芽生えたと言う事じゃ。」



774: 名無しさんAA:14/03/16 09:19 ID:pZM
黄泉の国物語 113

「常世の主答えよ。我らを何故に此処に閉じ込める。我らを何故に虐める。そして何故
我らは此処に生きている。自立した意志を持って。そして何故2人を助けようとしたん
だ。答えよ常世の主 とても運命ではないはずだ。あの二人は何故に我らと会って共に
闘おうとしない。」「誤解じゃよ。途方もない誤解じゃよ。我が民は何も現生界も暗黒
界も或いは無の世界も神々の世界もこのパラレル界も何もかもが関知するものではない
。ただただこの真実の木のみが我らの知るところでよりどころなのだ。お前達ならば解
るはずだ。慈愛と言う名の甘露の雨を降らすことがどんなに大切な事か。何も無い所で
愛や信心からのみ創りだすまばゆいばかりの小さな命こそが存在価値のある唯一のもの
である事が。」「その真実の木の意志によって我らは生かされ此処に来たのか。」「い
や 意志は自ら望んで此処に来たはずだ そして生も又生かされているのではない生き
る資格を追い求めて生きているのだ。」「まるで鳥の心情だな。常に食べ常に飛び常に
生かされる所を探す。」「・・・・暗闇の中の不安感と光の中の虚心と言うことか。」
「そうだ 何も我々が暗闇を創った訳ではないし 光を創った訳ではない。」「・・。
自然界いや時が求めたとでもいうのか。」「そうだ それは石であれ植物であれ動物で
あれその意志を継いでいる。」「なるほど 暗闇の中では人は何かを頼り 光の中では
周りが見えぬほど虚が来る。」「そうだ更に大きな暗闇や自由がないところでは何物も
動けない。つまり他の力でしか動けない。またより大きな光では目を瞑り或いは自らを
消滅させ昇華させてこの世の存在からも消える。このことは何物も同じという事だ。」
「そうか お前はそのバランスから今や光が増えて病んでいたとでも。」「いやそもそ
もブッダは闇の住民そしてジャイナは光の住民のはずだった。だがブッダは闇の中の光
の大事さを説いて ジャイナは光の中の影の大事さを説いたのだ。馬鹿な事に。これが
闇の大事さや光の大事さを無くしたのだ。



775: 名無しさんAA:14/03/16 10:11

黄泉の国物語 119


「・・・現世界の 暗闇の中の不安感と光の中の虚心と言うことか。良くある事だが」
「そうだ 何も我々が暗闇を創った訳ではないし 光を創った訳ではない。」「・・。
自然界いや時が求めたとでもいうのか。」「そうだ それは石であれ植物であれ動物で
あれその意志を継いでいる。」「なるほど 暗闇の中では人は何かを頼り 光の中では
周りが見えぬほど虚が来る。」「そうだ更に大きな暗闇や自由がないところでは何物も
動けない。つまり他の力でしか動けない。またより大きな光では目を瞑り或いは自らを
消滅させ昇華させてこの世の存在からも消える。このことは何物も同じという事だ。」
「そうか お前はそのバランスから今や光が増えて病んでいたとでも。」「いやそもそ
もブッダは闇の住民そしてジャイナは光の住民のはずだった。だがブッダは闇の中の光
の大事さを説いて ジャイナは光の中の影の大事さを説いたのだ。馬鹿な事に。これが
闇の大事さや光の大事さを無くしたのだ。」「それで常世の主のおばばとじじいが我等
をおびき出す為に ジャイナとブッダを引き寄せたのか。」「いいや違う わしの顔を
よく見てみ。そこに倒れたじいをよくみてみ。」「・・・・・・・」「そうじゃわし等
は時空を超えて旅した為に生まれたものだ。」「・・・あ・光のジャイナと闇のブッダ
のなりの果てw・・・」「そうじゃ 今頃気づいたか わし等は永久に死に絶える事は
ない。この倒れたブッタとて 又元に戻る。死んだ訳ではない。だが時が消える事はな
い。例え時空を遡ったとろで時間が短くなったわけではない。アインシュタインの見つ
けた瞬時拡大するビックバンの中に更に子供のビックバンが生まれただけのことだ。い
うなれば風船の中の風船 膨らます前の風船にはならないのじゃよ。」「それで野たれ
死にも出来ない体でさまよえる中で我等を呼んだというのか。」「・・・・」「泣きつ
いて哀れみや懐かしさを積んだとて何ら解決に寄与するものがない事を悟って食べたと
いうのか。時空を超えない時空の旅人となって。・・・」「ただだだ予見と知見を行く
悟りから 実態の体を失っただけで 何ら超えられなかったということなの。」


776: 名無しさんAA:14/07/06 18:25 ID:L9Y
泉の国物語 120

 「いいや違う ブッタが説いた光とジャイナが説いた闇は そもそも時空なんぞ無か
った筈だ。時空を超えて旅をしたのは理由があるはずだ。」「そうだわ。ブッタは人の
哀れみから人情の大切さを説いていたし ジャイナは世界が人間界だけでは無い事で、
人は大自然の中で生かされている事を説いていた筈だわ。そんな考える人がまだ奥にあ
る人間の本性や時間を遡った地球誕生を見て、それが奇跡的価値と見るのが普通であっ
てその尊さから、悲観を産む事は無い筈だわ。」「・・ふふふ・・それが悲観したんだ
よ。人のもつ性というものに。」「・ひとのもつサガ。」「そうじゃよ人や物の持つ至
って簡単な性だ。」「食べると言う事・・」「いいやそうじゃない。確かに食べねば生
きられない。だがそれは2億年も前に植物が解決している。成程生命体はエネルギー源
を外に求め捕食しなければ成長どころか生命維持すらも出来まいが それは人間のみな
らず動物や魚或いは植物に至っても同じにある。だが木々が覆い茂り酸素過多で自らの
生命の危機を植物が克服した時に既にそうした事の解決が見出されている。」「雑草や
花の誕生か・・」「そうだ。木々が自らに生きる為に 新芽のみならず大きくならぬ力
で捕食者を募り花を持ったり虫や動物に場所の移動やら外敵から防御を頼み 相互共済
の道を選んだのだ。つまり草や花はその時以来既に子孫繁栄の実の大半が無駄に終わる
事を解って大量の生産を開始しているのだ。虫や獣もその後その恩恵に預かる者として
その多くが無駄となって居ても無駄としない知恵として捕食と採食の中に身を置いたの
だ。つまり産まれた時からそれは完成された無限域の中にいて何ら問題なぞが無い。」
「食べる事が悩みでなければ私達と同じ。あと一つは生命の寿命だけ。いや我らとて、
寿命はある。ただ長いだけだ。」「別に他にあるとは思えない。」「生き物に無くて、
人間だけにあるもの・・・そんなものはないわ人間だけが進化した訳ではないもの。」
「いや待てよ 人間が持って進化して来たものは知恵か知識か。」「でも知恵や知識っ
て虫や動物に無いわけでもないわ ただちょっと多くあるだけで・・」「そうか。それ
だ・・・ちょっと多いだけちょっとすごいだけで 地球上で帝王のごとく蹂躙している
人間界・・そういう事か。」



777: 名無しさんAA:14/08/17 23:05 ID:C.w
黄泉の国物語 121


 さすがじゃな白王 そうじゃ 人間がもつ性(さが)。その傲慢さじゃよ。およそ今
まで自然界の規律において 一つでも傲慢で不良者(ふつつもの)は生きられない事が
掟じゃが 事もあろうに人間供がこの世にいでし頃から この世界で人間だけが そう
した緩慢な者や傲慢な者こそが自然消滅の目に会わぬように変わったのじゃよ。策を練
って保身に技術にと進展し今では自然界を壊しては自らの首をしめるのだが止める事を
知らぬらしい。そうした自然界への傲慢な背信行為に悲観したのだ。」「なるほど思念
・・残存思念・・・の問題か。」「なにそのざんぞんしねんって。」「誰もが口にする
ものの過去は生きているものの形を変えた姿。捕食者に受け継ぐ生への営みの証はその
まま食べられてしまう被食者の声を聞けと言う話だったのか。」「なにそれって植物さ
えも声を出していると言う事。」「そうだ。人間のみが加工し火を使い味付けし保存し
残存思念を聞かぬ。」「それでも強い念は聞こえるものだろうに。」「つまり幽霊の話
。」「ああ姫 現世では幽霊とも言う。我々が今こうして形を持って話しているのも又
その残存思念のおかげじゃ。目に見える物と同じ様に思念も又人の身体木の姿のように
骨格があり血があり肉があり動いている。通常見えないだけでのう。」「・・・で・・
」「そうか・・・・姫見つかりましたぞこの者からここから抜け出すカギが。・・・」
「何を小癪な白王よ 何か解った所で今更ここを出ようともがけど時は戻らぬわい。」
「いいや・・すでに時は戻り始めていようぞ。」其処に白い霧の姿の龍がやってきては
悶え始めた。」「うぬ・・何をした。・・・そうか思念波か。はははは・・だが 無駄
じゃよ。どんなに戻っても進んだ時間との矛盾はこの世界では吸収出来ない。」「はた
してそうかな。」「何・・」「成程我々10人がやってきた意思や残存思念で時間を後
戻りさせても其れが嘘の世界である事は充分知っている。そしてこの世界がパラレルの
ブドウの房のほんの一粒でどうしようもない事ぐらいは理解している。」「何を偉そう
に。」「じゃが婆よ。ジャイナとブッダが消えた理由が解ったのだ。」「・・・あ」「
そうだ婆観念して消えるが良い。既にパラレルもこの世界での矛盾を取り除こうと動い
ている筈だ。我々は時間を移動できない。じゃがいくら時間に旅が出来るお前達ても、
この世界の意思には歯向かえ無いどころかタッチも出来まい。我々は其れが出来る例え
身が消滅してもその異端の意思が消えてもな。」


778: 名無しさんAA:14/08/19 20:09
泉の国物語 122

 「うぬぬ」「さあ早く違うパラレル世界に移ったほうが好いぞ。だが恐らくはどこに
も居場所は無いだろうがな。この木は既に異物としてお前達を認識した筈だからな。ま
るでブドウの房が腐って行くように全てのパラレル世界がお前が来た事で消滅しよう。
」「ななんと言う事を。」「ははは 仕方なかろう。もともとお前達は神を作り出して
も神ではないのだから。」「なにーー」「創造主などとは真っ赤な嘘で 創造したのは
只の時間。その時間が真実の木を育てただけだ。もともと悪も正義もない。作られるべ
き物も消し去るべきものもこの世には存在しないのだ。」「白王さま。」と叫ぶ時白王
は少し色あせたかのように見えた。「ふふふ良かろう自分の身を訂しても この世を無
にきせるつもりか。ははっはわかったわかった思えばお前達を引きずり込んだのは間違
いだったのだろう思えばムハンマドもイエスも居たと言うにのう。」「さてそれはどう
かな。人の未来にムハンマドやイエスが過去にさかのぼる力があるとは思えぬが。」「
なにー。」とその時少し空気が揺らいだ。「急いだがいいぞこのワールドもそろそろだ
。」「まあいい さらばだもう会う事もないだろうがのう。」と突然消えた。だが皆が
集まって来て少ししたその後「うああーー」と言う声と共に少し泡のように身体が点々
と膨れた身体が突然現れ悶え始めた。「意識とは・・・意思とは・・・何故に・・・」
と言いつつ 少しずつまるで水泡が消える様に消えて行った。「遅かったか」「白王」
「もうすぐ 我々の地も消えるぞ。皆もこころしろ。大丈夫だ痛みなど無い。元々が我
々には意思や意識しかない。ともかく元に戻る事を願うだけで良い。なあに目の前が消
えるだけでなんてことはない。と見えている物が霞だした。少しずつだか消えていく。
まるで目が悪くなったようだ。いや身体が無くなって行く。これが無の世界か眠くなっ
た。疲れが頂点に達した時 其処は何もない暗闇すらない世界であった。


779: 名無しさんAA:14/08/19 20:10
 草々が行く01


 「暑い暑いのう。」とひげもじゃの小柄の武士がつぶやいた。「若、この辺で一休み
しましょうか。」と言った。「いやまだまだ追ってがやって来てるやも知れない。草野
の伯父貴の所まで早くつかねば。「はっ。赤影黒影付いてきておるな。一気に左京の野
島まで行くぞ。良いか。」「構いませぬ我らは何処までも付いていくのみ。追って白影
も伊賀の森から駆け付けるでしょう。」「うむ それでは若もう少しです野中の兄じゃ
の家まで日が暮れるまでには着くでしょう。」そこにはかつては 大倉の米の管理者と
しての金丸氏をも雇っていた蒲地氏の威厳が備わっていた若武者を囲んで急ぎ足で歩く
4人の姿とその後をついていく10人位の虚無僧と木々に隠れてついていく忍者の姿が
あった。この頃九州では菊池氏が新任の九州探題が着いた大宰府の命を受け元寇を征伐
せんと福岡有泉まで遠征してきたものの この九州の名家を少宰氏と大友氏によって謀
りごとによって連れ出し打ってから 既に二百年も経とうと言うに今だ九州の騒乱は静
まる事はなかった。それどころかはるか室町時代の話だったものが、戦国時代の今にな
ってもその争いは菊池家の衰退で家臣阿蘇家との仲違いし 更に新たな大友氏の勢いは
その子孫の相続と共に 大友家臣団にまで及び引きずったまま騒乱は残っていた。欲深
き関東武士である大友氏も実は関東からの国防軍としてやって来たもので大分を本拠に
していた宇佐氏に気を使い少し離れて暮らしていたが このころでは毛利氏が勢いに乗
って朝廷の守りである長門のおさである 大内氏が家臣の陶氏の裏切りによって攻めら
れる中にあっては天下は大友氏の手中の中にあったとも言える。というのも毛利氏が今
瀬戸内海の船に税を掛け始めた為に 朝廷は朝鮮からの運航は止まり大内氏はそうした
その船の警護役として役目に、毛利氏征伐する為長門の国安芸の国に戻って来たのだが
卑怯な毛利の夜襲や寳来球などの使用で全く歯が立たない中で敗退し 時流は変わって
しまっていたのである。頃は大航海時代の走りでありイスパニアの船は貿易しようと日
本近海に来たがその頃の台風は多発する時期であった為漂流し宮崎沖に停泊してしまう
事件があったのである。


780: 名無しさんAA:14/08/19 20:10
 草々が行く02

 この時日朝貿易の権利を持った大内氏は孤立無援のままであった。海外の珍品を朝廷
献上で朝廷から可愛がられてはいたものの朝廷そのものは直接権利を得たいと思ってい
た。が元寇以来朝廷すら番犬としての武士を抱えていないかぎり その公権は無かった
。それどころか毎年税として貢がれる食料すらも手当出来なくなる可能性があるのだ。
生死を分ける公権力の行使には談合の上慎重にするべきものであり その為関東の執権
北条氏の意向に逆らうような事は出来なかったのが現状だ。すなわち朝廷側からしても
鼻が高い関東武士の作った新しい組織幕府とは蔭ながら敵対している中であってここで
大内氏の協力がなければ風前の灯の形であった。そこで近在の大内氏には太宰の地位を
与えたし 大内氏はその太宰の地位を利用して一手に国外の海外取引の窓口となってい
た。勘合符貿易の相手としての資格はこの大内氏以外はどの大名も持たなかった。その
為火薬の製法や鉄や銅銭の技術など先進的なものは大内氏以外には無いものとの認識で
日本国中の意識は収まっていた。がそれも僅かの間であり大内氏が都から帰って来る頃
は大きく違ってしまっていたのである。 南北朝時代、源三圓の末孫蒲池武久は多々良
浜の合戦で討死にし、娘が一人残された、その夫となった宇都宮氏が蒲池の家督を継い
だとされる。元来、久憲の曾祖父宇都宮貞泰は 息子の貞久・貞邦は懐良親王が九州に
下向した時、菊池氏とともに征西軍府に加わわり大保原の合戦に出陣、この懐久の子が
久憲で、蒲池氏の娘を娶って蒲池家再興をしたのであった。こうした京の都の事情で、
九州が争乱に明け暮れる事は多々あったが この南北朝時代が終わった事で筑後の地は
比較的平和な時代になった。それでもかつてからの清和源氏と桓武平氏の「源氏平氏」
の遺恨のままに入り乱れて生活している状態であったのだ。門前町として瀬高寺が柳川
を覆いこの日本の中では大宰府に近い寺町を形成していたのだが、海賊の始祖とされる
純友の乱の時の火矢によって社より寺町まで大きく10Km四方は燃え尽きていて人々
は細々とその地で暮らしていたと言われている。



781: 名無しさんAA:14/09/03 01:33 ID:rW.
 草々が行く03

 そうした信心深い久末の民を救ったのは 他ならぬ日子宮を本拠にした修験道の僧達
であった。かつて南北朝時代に大塔の宮としてこの地に降りて来た皇太子も宇治八幡の
繋がりで 足利氏の要請で菊池の行軍によって南北朝時代を創っていたのだが、そうし
たエゴンの郷としてあったこの柳川から 同じ様に西国防衛にやってきた関東武士蒲地
氏は山川の地に移住していた宇都宮家を縁戚として 八丈島からの船を大牟田に出迎え
て新たな町をこの紫牟田の地に作った。その後この柳川に蒲池久憲は応永年間に城郭を
拡張して、鹿島明神を勧請しては城下町を築き蒲池氏発展の基礎を作った。ちなみに、
蒲池氏の場合、久憲以前の嵯峨源氏系蒲池氏を「前蒲池」といい、久憲以後藤原氏族の
宇都宮氏系蒲池氏を「後蒲池」を呼んで区別している。この頃日本海からやって来る海
賊が頻繁に日本を襲った。小さなスピードの出るペーロン船だった為日本の北周り船の
ような櫓漕ぎでは全く追いつけなかった。其れに乗っていたのが刺青女性ばかりだった
事から女真族とされたが 至って転々とした略奪が多かった事から人々は生活に困った
。がそのうち住み着き始め尼子氏と名乗り出雲近くを縄張りとした。尼子氏は近江源氏
佐々木氏の流れで、出雲の月山富田城を根拠とし、十六世紀初頭には、山陰・山陽の両
道に覇をとなえた代表的戦国大名にもなった。当然この事は大内氏毛利氏の戦況には、
大きな影響を及ぼした。承久の乱後、東国より備中国三村荘に西遷されたという。三村
信濃入道は成羽荘の本主であった。戦国期には鶴首城・松山城を本拠にしていたが、そ
の後に 家親が毛利氏麾下で活躍したものの元親が毛利氏を離反したため、毛利氏・宇
喜多氏に攻められて滅亡したとされるが それより前にこの三村氏の流れを組む者が、
この柳川にやってきた それが村を創り二村としたが彼らこそが八丈島と結んだとされ
る船作りの民だった。この船作りによって蒲地氏は交易をして数多く成果を収め街を創
る元となったという。この二村氏を案内したのは後で英の名誉が与えられた英彦山宮の
修験道のいわゆる山法師この地の呼び名で「やんぼすさん」達でその流れは紀元前から
の宇佐八幡の繋がりとされる。キリスト教の流れを組むとされる普化宗は所謂山岳宗教
の古代からのものとされ 虚無僧とはその流れにあった。彼らは今で言う情報屋であり
ラッパとも称されるものだった


782: 名無しさんAA:14/09/03 01:34
 草々が行く04

 こうした九州騒乱時代の戦乱期に彼らは 色々な分野で提言をし避難したり 孤児と
なった者を世話したりかなりの活躍をした。そうした事で今や英彦山と呼ばれている宮
もかつては 日子山や日子宮と呼ばれて居た庶民からは 相当の貴い所とされていた。
その山をして修験道達は縄張りとしていた。遠くは平安時代の奈良に対抗しその頃では
南北朝の朝廷の仲裁役としても活躍していて、今ではもっぱら地区の有力者の動向を知
る者の集団として貴重な存在だった。その彼らを束ねるのが座主でその座主が住まいと
していたのが実は三潴の地の大善時であった。この地にある玉垂れ宮は日本三大火祭り
で有名なのだが その宮の起源は神話の時代まで遡るのである。磯の宮としてこの神宮
は筑紫次郎と呼ばれる大河に行くに程良い枝流にある。そして上流には八女古墳岩戸山
古墳丸山古墳と数々の古墳群がある。更にこの地が三潴と呼ばれる所以は、実は水沼と
して湿地帯で案内人がいなければとても歩く事は出来ない地であったとされ 神宮皇后
の神話では この地を治めていた水沼神君に玉の様な娘が産まれ その子は美しく育つ
。その噂を聞きつけた都の有力者が使者をして娘との婚儀を迫りに来る。そこで思案し
た水沼神君は かねてから計画していた様に 魚を腐らせ家の周りに置いて更にそれを
肌身につけさせ醜い化粧をさせ 大和朝廷側からの使者を迎えたと言う。その時娘を見
た使者は あまりの臭さとあまりの醜さで婚儀の話は解消にして都に帰ったと言う。そ
の後 めでたく磯の宮との婚儀が整い養子を迎えその時にその臭いイワシを焼いて婚儀
を祝ったらしい。それが今の火祭りの鬼夜の発端となった出来事とされる。が実はこの
説の他に多々説があって この地筑後には唯一無二の竹取り神社が小さくあるように、
この玉垂れ宮社も実はかつての正宮は柳川の地にあったとされる。先の室町期での戦火
で柳川の大社の殆どが焼き尽くされて 今の柳川宮永とされ弥四郎町とされる地名は社
(やしろ)の代読みとされる。そしてその修験道の宿坊とされる宿は軒を連ね蒲地氏が
城を持った場所から筑後水田瀬高清水山や大牟田甘木の傍まで久末の地まで広大な地を
鷹尾の社が紫牟田の郷久末の田として栄えていたと言われる。

783: 名無しさんAA:14/09/03 01:35
 草々が行く05

 元々この地を我々が九州と呼ぶにも理由がある。九州と言う名は中国夏王朝時代兎の
政治に遡る。中国での伝説神話の時代三皇五帝の時代が終わってから初めて歴史が作ら
れた時代とされる。遥か紀元前1500年以上前の話とされる。
 夏王朝の始祖は禹(う)で、禹の父は鯀(こん)とされている。鯀は、五帝のうちの
一人である堯(ぎょう)のときに治水工事を命ぜられたが、9年たってもうまくいかな
いため、羽山(うざん)に流されて、そこで殺されてしまう。鯀の後を継いだのが禹で
、禹は13年間も家に帰らずに努力し、ついに治水工事を成功させた。禹は、嵩山(す
うざん)のほとりを本拠としていた。妻は二人いて塗山(とざん)氏の娘で、禹は結婚
4日でまた治水工事のために家を出たという。禹は険路を行き帰って来たときに少しう
つむいていた為、とぼとぼ歩くと言う言葉はこの時作られたと言われる。禹は、後に舜
(しゅん)の後を継いで帝位についた。夏という国号は、禹が最初に封じられていた国
の名からとったといわれている。中国では、その後、これがしきたりとなった。治世の
間に、車・酒・井戸の技術が開発された。九鼎を鋳造したという金属利用の説話もある
 禹は、東に巡幸した際に浙江省の会稽(かいけい)で死んだといわれている。禹は、
帝位を、自分を補佐してくれた益(えき)に譲ったが、禹が死んで三年の喪があけると
、益は帝位を禹の子である啓に譲って、自分は箕山(きざん)に隠棲してしまった。こ
うして、夏王朝の世襲制が始まったという。又この治山治水に使われたのが竹や柳の植
林だったとされ 更に測量に今の下振り大がね墨つぼが使われたと言われている。即ち
おもりをつけた糸で垂直を図り直角定規をもった筒で水平を見て直線を糸に墨つけして
測ったというのである。この時治めた全土を九州として舜帝に報告した所から中国全土
が九州とされた。更に宋の時代倭の五王として(讃・珍・済・興・武)の一人として、
この水沼神君があると言う。伝説では瀬高清水寺に大正初期まで石上神社に伝わるとさ
れる七支刀が祀ってあったとされ七支刀銘文中に見える「倭王旨」(旨は中国風の一字
名称)があり。七支刀の銘文の、この刀は泰和四年(東晋の年号、西暦三六九年)に造
られ、百済王から倭王旨に贈られたものだとされる。先に報告した玉垂命が水沼に都を
置いた年(仁徳五七年・西暦三六九年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は
初代玉垂命と同一人物ということになるとも伝えられる。


784: 名無しさんAA:14/09/14 06:34
 草々が行く06

 そうした事はさておき この蒲地氏が居城を決めて移り住んだ時 彼はこの地では全
く無縁の為に 大した力は無かったとされる。だがこの柳川の地で神社が焼失していた
のを嘆く玉垂れ宮からの意見を聞き入れ 復元した風浪宮の造営が後の蒲地氏の足場を
固め 更に善道寺玉垂れ宮に寄進した事によって多くの信認を得たとされる。更にこの
事が英彦山修験道者達に快く迎え入れられた事により 多くの的確な情報を掴みこの地
を治めるに至ったとされる。もともとは菊池氏と一緒に元寇に戦った事で地領を持った
とされたが 大宰府武藤少宰氏が大友氏と共に謀事において菊池氏はその勢いは小さく
なった。更に家臣である旧名門阿蘇氏との軋轢において内紛をして更に名門菊池の影響
が無くなって来ると 柳川の地はいよいよ危ない事となった。其処で焼跡の街である今
の柳川市街地へと移り居城を造る事になったとされる。がしかしそこへ宮崎においては
異国船が座礁したのである。捕鯨船であったのだが その船には大砲や鉄砲などが乗っ
ていてこうした九州騒乱時代にあっては その世界最新鋭の武器の到着は大きな事件で
あった。更にその地が宮崎沖であった事も事件を大きくした。今まで眠っていた島津氏
をも欲望を駆り立てたのだ。九州治乱記に於いては蒲地氏の系統は京都守護をして大内
氏の下にあった摂津渡辺家が遡る祖先とし左遷させられ九州守護の為に下向した事がき
っかけでこの地に定着したとある。つまりは大友氏以前にそもそも海賊藤原純友一族を
追って追討せよと縁戚である摂津渡辺家に命令が出た事でやって来たらしい。それは又
伊予水軍を従えていた越智一族とも繋がりがあったからだと言う。越智氏は隈本からの
樹木など 即ち紙の原料である三俣(こうぞの木)やら藍染の原料やら蚕の為の幼木な
でを取り扱う豪商であったという。だがその瀬戸内海運が源平合戦以降乱れてしまった
のである。対して平家井上家は時の毛利氏の海運商売を開く為村上水軍からの分家筋の
新たな伊予水軍を使い日本海側の運航していたらしい。旧来の伊予水軍が瀬戸内海でも
太平洋側に勢力を持っていた為にこの水軍達が争う理由は全く無かったのだが、これが
元寇以来 不審な船の夜襲や奇襲によって村々が襲われては不穏な中にあったのだ。更
に有明海運航や日朝貿易には旧来より松浦党支配の地でもあった。この3者の中に海賊
と欧州帆船が宮崎沖で台風による座礁する事件が起こったのだ。事件にならない訳がな
いのだ。


785: 名無しさんAA:14/09/14 06:35
 草々が行く07

 天慶4年(941年)、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は平安時代中
期にほぼ同時期に起きた不思議な事件である。関東では平将門の乱が起き瀬戸内海では
藤原純友の乱が起こった。この2つ総称であるとされる。平和な中でも武家武将が出て
自立する自治が芽生えて大和朝廷の威厳が無くなった事で海運こそが国家を支え上納に
よって栄えていた京の都の食糧事情も その警備に当った武士というものによって新た
に国の形が変わっていった。更に今まであまり流通していなかった貨幣である銅銭をし
て平清盛が管理しようと動き出した事が原因とされる。つまり天皇家は米によって物々
交換をしていたしそれは九州を始めとする貢物の天皇家への言わば家賃の様にやって来
る事で それを恩賞として再配布する事で権威が保たれ、更にそうした海運や物々交換
市場を統制し仕切っていた事に天皇や税の生業があったのだ。つまり武士はその品物へ
の警備が本来の仕事だったのだ。だが刀が次々と生産され誰もがを持ち武士道なるもの
すら現れた頃平家などはは力を持った。そしてついにはその経済を一変させる仏教と銭
を大量に輸入しては物の価値を上げてしまったのだ。問題は更に百済から銅の精製技術
が入って来た事も大きな問題でもあった。奈良の大仏を見て解る様に税と違って寄付と
布教活動による銅の回収と百済に送った粗銅の精製されて輸入する銅銭の配布をして、
物品輸送の天皇家より武士世界の時の幕府の方が経済を牛耳ってしまったのである。力
も経済も牛耳られ物流のみが天皇家の持ち駒では権力は維持出来ない。其処に元寇が来
たのである。元寇で海運さえも分裂し更に火薬がこれまでの火付けの用途以外に相当な
武器となる兵器である事が解ったのである。台風で元寇が潰されたとされるが実はそれ
は最初の元寇のみで二度目には相当な戦いがあったとされる。それこそ一度目も博多の
町は焼かれたとされ突然の船体出現に人々は驚いたとされる。ところが元は日本征服が
目的であって先に文書による元に与いる事を勧める使者を送っていた。この事は元には
既に朝鮮半島を支配し余裕があった事が解る。更に日本の仕組みを知らなかったらしく
天皇よりは幕府にその使者はやって来た。天皇が又珍客を利用し復権を願う恐れありと
時の幕府北条氏はその使者の首をはねたと伝わっている。その為に北条氏は壱岐対馬に
その視察を派遣していたと伝えられる。


786: 名無しさんAA:14/09/14 06:35
 草々が行く08

大友氏20代「義鑑」は享禄3年(1530)正室の嫡男を授かった。大内氏の勧めで公家方
「坊城氏」の出とされるが その実は養女とした「大内義興」の娘とも云われている。
幼名は「塩法師丸」のこのやんちゃに育ったこの子は、結構な変わり者好きであった。
僅か10歳にて元服「五郎」と称したが、翌年将軍に拝謁し足利義晴の義の一字を授か
った祖先の意思を受け継いで「義鎮」となった。大友義鎮の誕生である。元服は父であ
る義鑑の13歳に比べ3歳も早い時期に行われた、此れには義鑑自身の気弱さにあった
とされる。義鑑はいずれは大友家を背負う義鎮に対する期待が多くあったと見られる。
義鑑の時も又その父の期待が高くて、13歳の元服と同時に家督を相続し自らに山に籠
り隠居をして現世での悩みである戦さや庶民や領地の安堵からは離れた生活に入った。
それは一つに大分豊前の土地柄にもあった。先の様に古代から面々と続く修験道山伏達
の本拠地を裏に控え、表も又その恐れ多き天皇さえも参詣させては占い師のような 御
神託を口上する宇佐神宮を持つ宇佐氏を前にしてはそうそう領地を広げられないジレン
マの中にいたからと思われる。下手に動けば九州どころか日本を代表した大和朝廷にさ
え逆賊の汚名の下に討伐させられる可能性すらあったからだ。天皇の九州に対する影響
を見ながら更には かつての源平合戦で源氏が勝ったとは言え内紛だらけの中での今や
平家討伐隊として住着いた経緯と その中で逃げては英彦山の山伏になった平家の御落
人(おちゅうど)達も大勢いいる中で ある意味針の筵状態での基盤であったからだ。
九州の長である名門菊池家の勢いを殺し自分が出ようとする欲はある意味当然であった
。が、そこには人心や領地の安泰を図る事がまず先決事項で、更々敵対し攻撃する事は
出来なかったからだ。そこで新たに鎮西将軍として異国船からの防衛に来ていた大宰府
の武藤少宰氏と謀り 菊池一族を倒す策略を取ったのだ。秀吉が黒田家家臣団がこの地
九州の玄関口の領地を治めるまでは天皇直属の若宮家の末裔宇都宮家がそこにいたので
ある。


787: 名無しさんAA:14/09/14 06:36
 草々が行く09


 つまり天慶4年(941年)、承平天慶の乱が起きて、その後平安時代終焉を物語る
源平合戦が治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模
な内乱が それこそ古代最後の内乱であり中世最初の内乱であるとされる物が国内を走
ったのだが 後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏と
言う勢力とその政権に対する反乱が起こり、源氏と言う反乱勢力同士の対立がありつつ
も平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏勢力から構成される関東政権
(鎌倉幕府)の樹立という結果に至ったのは 中央京都と関東の話であって九州では、
何ら関係ない所で落ち着いていたものが、大陸の玄関口であった為に文永の役(ぶんえ
いのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という2つもの大
きな蒙古襲来があって争乱の要因がこの九州にやってきたのである。最初の世代は真面
目に平家を追い求めて討伐に来たのであろうがその後200年間に世代交代も進み更に
住み着いてしまった武士達が この元寇襲来に於いてそこに住み着く理由つけが出来た
のである。特に二度目の弘安の役において日本へ派遣された元の艦隊は、元寇以前では
世界史上最大規模の艦隊であった上に九州北部が戦場となった場所は浜や陸上の死闘が
繰り広げられて 大いに大陸の進んだ文化即ち屋根の付いた船 火薬をいれた火玉足の
早い馬 両面切りの帯剣や鉄棒やヌンチャク豚の胃袋で作った浮わ鉄製の矢を通さない
甲冑など色んな物がこの島に届いた。そしてその多くの知識は都の宮家よりは地方の豪
族とりわけ武士達に取り入れられ更に武士達は強くなって庶民から離れたものになった
。そうした中での豪族の集団は家臣団とされ 直属の部下と言うよりは親類縁者による
集団で出来上がり 九州の場合は多くが一つ一部落を束ねる産子氏子の集団がその家臣
の村人を結びつけていたものだったのが消えかかり 特に今後の勢力地図である経済力
や戦闘能力による主従関係に傾いて行ったといえる。



788: 名無しさんAA:14/09/14 06:37
 草々が行く10

1333年鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まったのだが、こう
して武士や武家が定着し武家社会時代に突入していたにもかかわらず、後醍醐天皇の望
みは、朝廷中心の古い体制の復興をであった為武士の間には多くの不満の高まりがあっ
たとされる。その中で鎌倉幕府を倒した功労者の一人・足利尊氏は建武五年(1335
年)鎌倉でクーデターを起こし京へ攻め上る。だが宮方の勢力の武家(新田・楠木・名
和など)に破れて九州へ逃れ再起を図った。九州で少弐氏など反宮方の新興勢力を取り
入れ九州守護たちの力を借り、かつての名門宮方の菊池氏を破って再び京へ攻め上り、
宮方を破って後醍醐天皇を幽閉する事になる。南北朝時代の九州での戦いは熾烈を極め
菊池氏と対峙していたが 都では新たに皇族から天皇を立てて、征夷大将軍となり、京
に幕府を開き終焉をむかえ。室町時代が始まった。この頃は幕府から任命された守護職
の御家人が、戦乱や幕府の権威が行き届かないうちに実力で任地を統治・自領化したが
菊池氏は頑なに天皇や朝廷からの肥後守護職を全うし その権限をもって書面では断続
的に就任している。世界史の中ではコロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、
ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由するインド航路の再利用(1498年)がなされた
など大航海時代が既に歴史の中に訪れていたのである。1450年代は永らく続いてい
たローマ帝国支配東ローマ帝国として残っていたが首都コンスタンティノポリスがオス
マントルコによって陥落するに至って新たなオスマン帝国が出現する年代なのだが、同
時ヨーロッパ域内でも 今のイギリスが治めていたフランスやドイツ領内が再び奪還さ
れるという百年戦争がやっと終了した年とされる。だが数ある王家の中でもランカスタ
ー家とヨークシャー家は負けっぱなしでは引き下がれなかった。そこで両家の家紋が、
同じ薔薇の家紋で白薔薇と赤薔薇だった事から薔薇戦争と呼ばれる戦争にひきつがれた
。ごうした事情からも海運の機運は強く船は大砲を積んだ大型貨物帆船の建造は盛んで
あったと思われる。



789: 名無しさんAA:14/09/20 20:52
 草々が行く11


 不思議な事に史料上に安宅船の名が現われるのは、16世紀中葉の天文年間頃である
。河野氏配下の伊予、すなわち当時の水軍先進地域である瀬戸内海西部において初出が
確認できる。この「安宅船」と呼ばれる由来は定かではない。だが戦国時代に淡路近辺
を根拠としていた安宅氏からきているという説が正解であろう。この安宅氏がかなりの
海賊ぶりだったようで、巨大で多くの人の乗り組める船を持つ事から「安宅氏」となっ
たという。またこのあたけは「暴れる」という意味があったとまで言われる。名称に関
しては決定的な説はないのだが、関東武士が元寇対処として馬まで運んだのがこの安宅
船ではなかったかと考えられる。日本の船の種別名では肥前松浦の松浦船、熊野灘の真
熊野船の様にその船が建造され、使われていたりした地名を冠すると考えられるものが
多いのが事実としてある。この安宅船は同じ大きさを有してはいたものの洋船との違い
が二つあった。一つは竜骨という船の芯を走る軸組みが存在していない事で底は平たく
あるが風に弱かったと言われる。更にメインマストのない事だ。この事は決定的に日本
での日本の船の優位差があった。即ち多くの日本の河川は底が浅い物でなければ岸には
辿りつけない。岸壁というものが整備されてない中にあっては底が付く事は座礁を意味
するからだ。更にキャラック船が嵐の中さえ行くとはいうもののそれは只の豪雨での話
であって 日本や東南アジアのような台風の発生する中での走行は不可能だったと言え
る。弱い雨台風であるならば可能ではあるだろうが 大きな風台風の中では舵とりは、
まずは不可能だろう。又東京近郊の太平洋の波や或いは日本海の嵐の中では今の鉄鋼船
のタンカーや客船さえ二つに割れる事故は多発してる中では 蛇骨一本から作られる、
ボート型よりは二本の骨で支えられる筏型の方が優位であっただろう。


790: 名無しさんAA:14/09/20 20:53
草々が行く12


応永三年(1396)豊後の大友親世と肥後の菊池武朝とが筑後において戦ったが、蒲地
久憲は大友親世の催促に応じて筑後竹井原に出陣した。だが菊池氏配下の隈氏が一夜の
うちに隈府から駆けつけてきた。そうした菊池勢によって 策略を張り巡らししていた
大友側の少宰氏以下の筑後勢は敗北を喫したという。この菊池勢の勢いに大友軍は後退
し、蒲地久憲ら筑後の国人衆は菊池氏に降参した。その後、蒲池氏は菊池氏と連合して
大友氏を撃ち破ったが、大友氏はその後大内義弘と結び菊池氏を撃退したために、蒲池
久憲と子の義久らは大友氏の幕下となった。この時大内氏を攻める毛利氏が昇って来た
川が沖の端川の支流二ッ河川とされ 昭和の頃まで毛来川と呼ばれていたのである。過
去において、南北朝末期から室町時代の九州北部は、肥前の少弐氏、豊後の大友氏、そ
して中国地方の大内氏が、博多の争奪をめぐり筑前国で熾烈な戦いを繰り広げた。大内
氏は幕府を後楯として、九州探題の渋川氏支援を名目に北九州に進出してきた。これに
対して少弐氏は大友氏と結んで対抗していたが、大内氏の軍事力は強大で、情勢は少弐
氏にとって不利であった。 九州探題渋川氏は肥前国綾部郷を本拠とし、教実のとき、
筑後国に進出して三瀦郡犬塚村に城を築き長男の相模守政実に守らせた。この犬塚城で
政実は文明七年(1475)に死去し、弟万壽丸が家督を継いだが家臣によって殺され、
その弟の刀禰王丸が継ぎ綾部城に拠った。延徳元年(1498)、少弐高経は綾部城を攻略
し、渋川刀禰王丸は犬塚城へ走った。延徳三年、高経の岳父大友政親が筑後の国人らを
催して犬塚城を攻めさせ、刀禰王丸は肥前勝ノ尾城へ遁れた。この時点で九州探題渋川
氏はその権限を失墜したのである。犬塚城を攻め落とした政親は、これを蒲池繁久に預
け、繁久は弟の刑部大輔家久を城番とした。その後、家久は犬塚を名字とするようにな
った。蒲池氏からは、犬塚氏以外にも久憲の子則房は城島氏を継ぎ、家久の弟久種が(
泰房)が酒見氏を、大隈が今村氏を興した。さらに繁久の孫治久の弟親則が安武氏を称
すなど、多くの庶子家が分出している。


791: 名無しさんAA:14/09/20 20:53
草々が行く13



こうして蒲池氏を宗家とする蒲池一族が形成されて、筑後守治久の頃に至っては、本拠
地をそれまでの蒲池から柳川へと移し、筑後の最大国人領主(いわゆる戦国大名)に成
長していったのである。この山川竹井の地は 古来から満願寺の竹藪の崖下に 此君泉
(しくんせん)の湧出する井戸があり、往昔は竹泉と呼んでいたようで、竹井(たけのい)
の地名もこの泉に由来するものとしている。東の山川町尾野方面から扇状の緩やかな台
地の地下から流れ出た湧水は、いかなる旱魃(かんばつ)にも乾いたことはなく、また大
雨に際して溢(あふ)れることがなかった井戸だったという。この場所はかなり古くから
あって鎌倉後期には得宗領(とくそうりょう)(北条氏得宗が世襲した所領)の竹井庄が
あったので平安時代から京に知られていたと言う事になる。弘安9年(1286)に、
少弐(しょうに)の嫡子、武藤四郎右衛門尉盛資(もりすけ)に、蒙古襲来の戦(弘安の役
)の恩賞地として筑前療病寺(りょうびょうじ)および極楽寺の地頭職と、岩門合戦(い
わとがっせん)の勲功賞として竹井庄の領家職が与えられている。この事が大きな混乱
を引き起こした。蒙古襲来時において天皇の呼びかけに或いは幕府の強制的徴用により
この九州沿岸の地で防人として暮らしていた。この頃既に源平合戦の御落人として山に
籠って隠れていた人も一つの集落を形成していたと言える。こうした中に蒙古軍はやっ
て来たのである。つまり蒙古軍は日本流に書状による戦いの予告をしてこの地にやって
きたのである。この二度目の襲来では一度目で博多の街福岡の街は殆どが焼失していた
為に蒙古が投げる爆雷もあまり効き目が無かった。又そうしたものが逆に日本ででも出
来ていて火矢と共に夜襲によって同じ様に蒙古軍の船も多くは焼失した。この時台風も
到来していて夜に沖に帰った蒙古人朝鮮人は海に投げ出されたという。こうして勝った
とも負けたともつかない戦が終わり 奮戦した関東武士もしくは野武士達はかなりの者
が恩賞を求めた。今の竹崎蟹で有名な竹崎氏もこの時遅れて参戦したが 恩賞を申し出
て竹崎の地を貰った一人となる。次々と適当に土地を与えては日本の守りとして備える
幕府と朝廷は 今まで治めていた地頭にとっては悩ましい存在だった。探題としての、
一色氏はその苦情処理に 武力を持たなかった為になんら能力は無かったと言われる。



792: 名無しさんAA:14/09/20 20:54
草々が行く14

 もともとこの三池の近くは田尻家が所有するものだったと言われている。だがこの頃
の豪雨や災害などによって 田尻家は角氏をして鷹尾城下を本拠地に変えた。この頃の
矢部川はそうそう氾濫するほどに無かったが どうも南北朝時代の混乱に疲弊して後こ
の鷹尾神社の寺領に頼ったというのが正解らしい。竹井萱津(かやつ)城の跡は竹井八幡
宮の、すぐ西の竹海小学校であるとされる。南北朝期の興国3年康永元年(1342)
5月、北朝方の九州探題一色道猷(どうゆう) (範氏(のりうじ))は竹井萱津城に立て籠
もる南朝頂方の中院侍従義定・菊池武茂(たけもち)・肥後武教・大城藤次(草野一族)
・大木貞資(さだすけ)を攻めた。激戦の末に7月には南朝方は敗れて菊池に退いている
。この戦いについての2・3の古文書があるが郡名が見えないので、現久留米市山本町
の竹井城との説もありいずれの城かと論議がある、だが植田均氏の「純忠菊池史乗」に
も書かれた、肥後との国境である山門郡竹井城と見るのが自然である。「南筑明覧」に
西原石見守武雄(いわみのかみたけお)の居城跡と伝える竹井の今城のことが記載されて
いるが西原氏は田尻氏の有力家臣で、今城はその居館址と思われる。今の萱津城は竹井
にあって天正12年9月に立花道雪(どうせつ)・高橋紹運(じょううん)が筑前より南筑
に侵入された時、禅院の建仁寺と共に古城保護の意味で兵に対して悪さを戒めた制札が
立てられている。応永元年、大友親世(ちかよ)が筑後の諸豪を引連れて菊池を攻撃せん
と竹井原に陣した時、菊池武朝が合志六郎宗隆をして潰散(かいさん)に追込んだ。武朝
は隈府城(くまふじょう)(現・菊池市隈府)を出て筑後に進出し、この田尻城15代目
の田尻種顕を降し大友を破っている。竹井村が軍事上の要衝であったことが想像される
。又、近くの竹飯八幡宮仁和2年(886)9月29日に、竹井庄21ヵ所の祈願所と
して東隣村の飯江(はえ)に創建されている古い神社で八幡宮の例祭の時の最初の鎮座地
でも神事が行われるが、いつ現在地に移転したかは不明としている。戦国時代の田尻氏
は竹井城(たけいじょう)の祈願神社としているし、柳川藩主立花宗茂公は朝鮮の役凱旋
後の竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火(えんか)を奉納していると言われる。



793: 名無しさんAA:14/09/20 20:56
草々が行く15

まず歴史年表から見ていただきたい
1334年  後醍醐天皇による( 建武 )の新政開始して日本初の紙幣が発行され
       るが不評に終わり不満が高まるにつれ1335年という次の年には北条
       時行が挙兵。いわゆる( 中先代 )の乱がおこる。時行らは敗走自害
       したが味方であった足利尊氏(後醍醐天皇から尊のを拝領)も挙兵した
1336年  こうして足利尊氏が入京し、光明天皇を立て後醍醐天皇は吉野へ移り、
       南北朝時代が始まった。尊氏、(建武)式目を制定。室町幕府成立させ
       てお寺の位を整えた。れは、中国南宋の官寺制度に習って、幕府指定の
       お寺を格式をもって定めた物。京都五山や鎌倉五山或いは京都十刹や、
       鎌倉十刹などである。が実際は1358年尊氏が没した後に、
1368年  足利義満が3代将軍に3代将軍
足利義満の時代になって幕府が室町に移った。だがこの頃倭寇が盛んだ
       だったとされて 対馬海峡は開戦が勃発している。それを止めるべく
1371年  今川了俊(貞世)、九州地方を統率する(九州探題)に任命される
1378年  農村では惣というグループが形成され、年貢を惣全体で請け負って納入
       する( 地下請 )がはじまる。
1390年  足利義満による有力守護大名討伐 を次々に開始
           1.1390年に土岐康行を討つ。
           2.1391年に山名氏清を討つ。( 明徳 )の乱。
           3.1399年に大内義弘を討つ。( 応永 )の乱。
           4.1400年に今川了俊を降伏させる。
1401年  明と国交樹立。
1404年  明と( 勘合 )貿易開始。
1411年  4代将軍義持が、明との国交を断絶。
1419年  朝鮮が、倭寇の根拠地と考えた対馬に攻め込む。( 応永 )の外寇。

794: 名無しさんAA:14/09/20 23:26
草々が行く16


鎌倉から京都へ入りを果たすた「尊氏」だったが 「新田義貞」「楠木正成」らからの
反撃受け命からがら京都を脱出して九州に向かい都おちをした。報を聞いた九州武士団
「少弐、大友、島津」らを頼り九州に入ったが手勢は少なかった。足利尊氏、直義兄弟
は、少弐頼尚、宗像氏範らの反南朝武士団に迎えられる。この時「高橋光種」は先導役
努め、その働きにより筑紫検断職の一人に任命された。一方九州南朝方の急先鋒である
「菊池武敏」「阿蘇惟直」らは足利兄弟を迎え討つ為、九州各地の武士団へ兵を催促し
て、日和見志向の強い九州勢にはっぱをかけ多くが戦力有利な南朝へ靡く。この両者は
多田羅浜(多々良浜今の空港や久山付近)で対峙。延元年3月2日1336年に「多田
羅浜合戦」を迎える。迎え撃つ南朝方凡そ六万騎、方や足利軍三百騎(2000騎とも)に
、少弐らを併せて凡そ二千騎。兵力では圧倒的に不利な足利軍であったが、当日は春の
嵐が吹き砂塵の荒れ狂う中だったとして、松浦水軍で海賊側の村上水軍と政府側の河野
水軍で内紛し、多くが海賊党として足利方へ寝返る事になった。更に尊氏の積極戦法に
対して元来日和見的な旧家である南朝に呼応した九州武士団にも 多くの裏切りも出て
、足利尊氏は大勝した。この時に「阿蘇惟直、惟成」兄弟は傷つきながら退却したもの
の足利軍の追討は厳しく、肥前国まで追われ、名峰「天山」付近で自刃する事になった
。寒風のなか天山には草原の頂上に建つ立派な「阿蘇惟直」の墓とされる石塔がある。
 中でも伊予水軍の安宅船がここに出て来た事は大きな出来事だった筈である。もとは
この大川・柳川の地である安曇の磯良丸が最初に作ったとされる船の構造は今の漁船が
海外の号を称する事と対して丸を称していた事で解る。即ちこの丸こそは船団を表し、
そのトップに海神を祀る風浪宮があったとされる。彼ら安曇と呼ばれたのは刺青のある
人達で鷹尾神社からの要請であったらしい。箱崎宮は神話の時代の神宮皇后の三韓征伐
行く折りにその子、仲哀天皇が急死がして香椎の木で棺桶を作ったとされる事から、そ
の崩御の際に香椎の香木を切り遺体を葬った所を香椎宮とし 祭祀を行った所を箱崎と
している神聖な場所であったが 既に博多が焼け野原になった事からこの地を治める宗
像氏の力は無くなって松浦水軍が分かれたものと考えられる。



795: 名無しさんAA:14/09/20 23:26
草々が行く17

その後京都へと宮登りして盛り返す足利氏なのだが これによって南北朝時代が出来る
のだが この宗像氏の下に海神を祀る船団や海の男達や海賊は一挙に分かれたのだろう
伊予の水軍越智氏 伊予からやってきた河野水軍肥後を本拠に置く村上水軍かつてから
長崎近郊の松浦水軍更に 朝鮮系の鳥取を本拠地に安氏の安宅船が毛利水軍として今や
淡路島を本拠地に瀬戸内海を牛耳っていたのである。こうして陸上の戦いの南北朝時代
は海の上でも 大きな船団の縄張り争いが起っている事になったが 実は逆とも言える
。即ち海産物や物流としては日本は船の存在は欠かせないものだ。だがこの頃元寇以来
多くの不審船が日本近郊の各所に現れては人々の生活や権力に混乱を生じさせたと言え
るようだ。そも平清盛ですら 既に海運の必要性から都変えである遷都を考え銅銭通貨
を日本国内に広めて 国を建てようとしたぐらいだから海の支配と船の重要性は当然に
人々の特に時の権力者や支配者が持っていなかったなどとは考えられない話であろう。
そして日本三大合戦の一つである筑後川合戦が1359年におきる。南朝征西大将軍の
「懐良親王」奉じる宮方肥後「菊池武光」軍は、新田一族も加わり四万騎がいたが、対
して武家方「少弐頼尚、忠資、頼安」の一族に加え「島津貞久」「草野一族」ら六万騎
のが筑後川を挟んで対峙した。「宮方」は「高良山」「柳坂」「水縄山」に陣を置き、
筑後川(当時 千歳川といった)を押し渡り宮の陣まで押し入った。合戦は「懐良親王
(かねながしんのう)」の馬が倒され「親王」自身も三ケ所の深手負う激しい戦いとな
ったがしかし、宮方軍勢の勢いと夜襲など、大将「菊池武光」の積極戦が勝り、宮方の
大勝利となった。「武光」はこの合戦に備え、三人張りの強弓も通さぬ鉄板重ね、特別
誂えの「鎧」を身にまとい、自馬は射倒されても次々馬を取り変え、十七度も懸ったと
言う。 最後には、兜も落とされ「小鬢」に二箇所の太刀傷負うも、敵将を組討に「首
」を挙げ兜を奪い、尚も戦い突き進んだ。こうした悲壮な戦いは信玄達の川中島の闘い
よりも壮絶で 双方併せ討ち死者5千人上まわり、負傷者は2万人を超えたともいわれ
「宮方」の戦死は「武家方」に比べれば少なかったが、それでも1800人もの戦死に至っ
たされ次の戦いを怯んだという。


796: 名無しさんAA:14/09/20 23:27
草々が行く18

 南北朝時代に九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突した太宰少弐氏は、
多々良浜の戦いで勝利したもの 菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉
じて勢力を拡大しており、少弐氏はこの筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府
を奪われる結果となる。当然室町時代になると九州における南朝方の勢いが盛んになり
 少弐氏族は頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれについたがそれには正統性も
連続性もなく時の流れの中での生き残り戦術でしかなかった。しかし、北朝方についた
少弐冬資は、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺
され、南朝方についた少弐頼澄は反今川勢力として活動したものの 徐々に南朝の勢力
が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称し
て周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになって、少弐氏は挟まれた。豊後の
大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗して、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあ
ったが、その後は殆ど敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死して終わって
いる。南北朝時代の因縁がそのまま室町時代を駆け巡り戦国時代にはいったが大内氏の
侵攻はますます激しくなったとされる。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、
次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。その後
に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動
かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。だがこの時代も肥前北部
の綾部には肥前守護で九州探題であった渋川氏が健在であったので肥前南部に移る。当
時では肥前南部は九州千葉氏が支配していたとされ、その内紛に乗じて同氏の領地を奪
い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて
一度は勢力を取り戻した。だが、今度は千葉氏の旧臣で家臣であった龍造寺家兼の台頭
と謀反にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって
遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆も又陶氏に欺かれたりし 少弐氏は自害を余儀
なくされ、少弐氏は、滅亡したという。





797: 名無しさんAA:14/09/20 23:28
草々が行く19


 もともと少弐氏は大内氏とは同じ宮家の警護であった。青によし遠の御門と称される
大宰府の府官に任命されたのは大内氏が京都に呼び戻された為とされる。柳川城主蒲池
氏は、歴史においては嵯峨源氏時代の蒲池氏のことを「前蒲池」といい その後の蒲地
氏と分けている。すなわち嵯峨源氏の蒲池氏は、南北朝時代は南朝に属し、蒲池武久が
、西下した足利尊氏を迎え撃った筑前多々良浜の合戦で嫡子の無いまま討死にし、蒲池
氏は、武久の娘を残して家系が絶えかけたからである。この蒲池の家督を継いだのが、
武久の娘の婿となった宇都宮久憲だった。久憲は、関東の下野宇都宮氏の後裔だが、こ
の久憲以降の蒲池氏は、嵯峨源氏の前蒲池に対して、筑後宇都宮氏の後蒲池と呼ばれ、
宇都宮久憲こと蒲池久憲が、後蒲池時代の初代となる。延文5年(1358年)になっ
て足利尊氏が没して意気上がる南朝方は、太宰府へ征西将軍府を移して北朝方・斯波氏
や渋川氏など後任の探題を破って、九州を唯一の南朝優勢地域として隆盛を誇ります。
だがこの頃九州では、元々南朝方だった上相良氏が、不利な状況下で北朝(下相良氏)
の軍門に下っていたものの、北朝方の天下とならず 南朝の隆盛をみて再び寝返ってし
いまう。だがしかし、下相良氏の勢い上回ることはできませんでした。全国的に北朝・
幕府方優位でも、九州の南朝方優位を切り崩せない足利幕府は、三代将軍:足利義満の
頃、応安4年(1371年)重臣・今川貞世を九州探題に任命し、新たな火種となる策
略をめぐらし九州経営との南朝攻略に本腰を入れた。だがこれによって少弐氏と幕府の
九州探題は対立は再燃。混乱はますます深まるが その時水島陣の事件が起こった。つ
まり大宰府政庁を根城にしていた中少弐氏に仕えていた竜造寺氏を味方にし探題・今川
氏は太宰府を攻め落とし着任したのだ。この勢いで永和元年(1375年)には南朝方
の菊池氏を本拠の隈府・菊池城へ追い込み、菊池城陥落も目前となった。そこで今川氏
は、菊池城が落ちた後の話をしようと九州三人衆:大友氏・島津氏・少弐氏を肥後・水
島へ招集をかけます大友親世・島津氏久は来陣したものの、探題と対立してきた少弐氏
当主:冬資は来陣しませんでした。困った今川貞世は島津氏久に仲介を頼み、冬資に来
陣を促し冬資も先祖代々朋友である島津氏に請われては断り切れずに水島に来陣した。
だがこの会談は、酒宴での今川貞世の弟・仲秋らのいさかいで少弐冬資を殺してしまい
結果的に冬資刺殺に荷担したことになり、面目丸つぶれの島津氏久は怒って薩摩へ帰り
、大友氏も見限って去り、以後九州三人衆は反今川(反九州探題)の行動を始めます。


798: 名無しさんAA:14/09/20 23:28
草々が行く20



 この事で少弐氏は南朝寄りの弟・頼澄が継ぎ、南朝方の菊池武朝と結んで仇の探題・
今川氏貞世と戦う事となった。少弐冬資刺殺という失敗をしたものの、今川貞世の業績
は高く彼の九州戦略はこののち南朝を封じ込め、九州三人衆を巧み抑えて九州経営には
手腕を発揮したと言われている。だが応永二年(1395年)突然に足利幕府によって
今川貞世は探題職を罷免され帰京。これによって九州での幕府の権威は失墜したのであ
る。この時国崩しという大砲が乗った南蛮船が宮崎で座礁するのである。1538年(
天文7)に長宗我部元親は、土佐の小領主から身を起し、1575年(天正3)に土佐を統
一。続いて阿波、伊予、讃岐に兵を進め、各地有力大名を次々に制圧したとされる。一
方中国地方の制圧を進めていた信長は、次の標的をこの長宗我部元親により統一されつ
つある四国に定めた。それを知ってか、元親のほうもは明智光秀を通じて信長への接近
を図り、四国統一が信長の全国制覇を妨げるものでない事を訴えていた。しかし、敵対
する阿波の三好康長も秀吉を通じて信長に接近。信長は三好を取り込んで元親征討に乗
り出した。ここでも、光秀の顔は潰されていた。1582年(天正10)、信長は三男・神戸
信孝に命じて四国征伐の兵を起こす。しかし、信孝の四国渡航を目前に、本能寺の変が
起こり、四国征伐は頓挫したという。だが九州では中国・九州に君臨した大内氏勢力も
家臣・陶晴賢の反乱で減退。北九州の菊池氏や少弐氏も滅亡。代って豊後の大友宗麟が
豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を務め、大友氏の全盛期を築いていた。
 これに対し、南九州では島津氏が台頭していた。島津氏は薩摩・大隅・日向の守護職
を務める家柄で、家督相続を巡り一族間の抗争が生じたものの、1550年(天文19)には
島津貴久が鹿児島城に入城して決着。以後子の義久と共に、薩摩。大隅の統一事業を進
めている。この時の相良氏の動きは 既に英彦山の修験道によって知らされていたのだ


799: 名無しさんAA:14/09/20 23:29
草々が行く21




 2度目の元寇の弘安4年(1281)、元軍は10万以上の大軍で攻め込んできて、この時に
球磨川の山の奥地にいた相良氏は平家狩りで住み着いていたのだが平川氏或いは久米氏
と言った平家側の人を引き連れて戦っている。二度目の本格的侵攻は 再襲に備えてい
た鎌倉幕府にとっては待ったなしの戦であった。西国の御家人(守護・地頭)を動員し、
北九州沿岸に土塁を築いており水際で防戦に徹した。また水軍が小舟の機動力で元軍の
大型軍船へ夜襲を仕掛けるなどして元軍を手こずらせ、上陸を阻む為に相当の奮戦があ
ったと言う。元軍は上陸出来ぬまま船団で長門〜九州沿岸を転戦しているうちに、暴雨
風に遭って壊滅的打撃を受け撤退した。これまでは歴史上は「暴風雨によって助けられ
た・・・・」とされてきました。しかし文永の役は元側の戦略が小手調べで戦いが終わり、
弘安の役は日本側が先の文永の役での苦戦を教訓にして、戦い方を研究し実力で上陸さ
せなかった。その上で暴風雨が追い打ち・・・・というのが最近の研究による結果である。
その後の筑後川の合戦には大友軍は全く動かなかったとされる。その理由が相良氏や土
持氏のいた日向の勢力図にあったが 戦乱の疲弊を受けなかった大友氏は大きく勢力図
を広げる事になった。土持氏は大墓(大塚)別符を本拠としていた地族と言われ一貫し
て武家方に属し安泰していた。それに加えて、南北朝時代初期の暦応二年(1339)以後
に井上城を築いて南朝方の三田井氏、門川伊東氏に備え、都於郡の伊東本家と結ぶ南方
の同族と呼応して各地を転戦したのであった。やがて、明徳三年(1392)、半世紀以上
にわたった南北朝の争乱に終止符が打たれた。つづいて、九州探題として辣腕を振るっ
た今川了俊も探題職を解かれ、帰京したことで、南九州の政治情勢はにわかに一変する
ことになった。重しが外れた島津家には内紛が訪れ 同じ武家方の伊東氏が幅を利かせ
更には同じ大分に本拠地とする大友氏が その疲弊しない兵力を傘に土持氏をあまり良
く思わなくなっていて 言わば目ざわり状態に陥っていたのだ。


800: 名無しさんAA:14/09/20 23:30
草々が行く22


 土持氏は日向において、日下部氏に次ぐ古代以来の豪族であった。そして、県、財部
、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥に一族が割拠して「土持七頭」と称され、隠然た
る勢力を築いていた。伝統豪族の土持氏と新興の伊東氏との確執は、ともに武家方であ
ったことからはじめは少なかったと思われる。しかし、伊東氏が惣領を中心として日向
一帯に勢力を拡大してくると、次第に土持・伊東両氏の確執は表面化してきた。だが突
然に 応永四年(1397)、島津氏久は清武城を攻撃した。これが伊東氏と島津氏との本
格的な抗争の始まりとされ、以後、島津氏と伊東氏との争いは天正五年(1577)に伊東
義祐が日向を追われるまで続くことになる。他方、日向国山東に一揆が頻発するように
なり、さらに島津氏との対立も深まっていったが、祐安と祐立(すけはる)父子はよく
領内の安泰をはかった。やがて、島津氏に内訌が生じたが、応永十一年(1404)に島津
元久が日向守護に補任され内訌は終結した。応永十九年、大淀川南の曽井・源藤に島津
軍が侵攻してくると、祐安・祐立父子は曽井城に籠城してこれに抵抗した。ついで、同
二十二年に島津軍が跡江に侵攻し、同二十六年には加江田車坂城に島津軍が攻撃をかけ
たが伊東方はこれを撃退した。その後も島津氏の伊東氏領侵攻は、執拗なまでに繰り返
された。その間、祐安の娘が島津忠国に嫁いでいるが、両者の抗争はやむことはなかっ
た。この島津大友の両軍に挟まれた日向宮崎の地で土持氏の名声は高かった。居城とし
た飫肥城は 遠くは宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした
土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれる平地の城で
あった。時代が下って、室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津
氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津
氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。この事が南の地に波紋を投げかけた。


801: 名無しさんAA:14/09/20 23:32
草々が行く23



 この伊東氏の島津家を頼りにした飫肥城侵攻は難破船の取り合いであった伝えられた
。「殿 中津からのお庭番が来ております。」「うむ 庭に通せ。」「っは・」と一旦
引きき下がった武士はそのまま他の者に合図を送った。すると裏木戸が開き修験道の姿
の物が2人はいってきた。「ほう珍しい事じゃな草の者か。」「ははつ 御座主より、
今の日向の事を伝えておけとお達しがあり 宿坊からすぐさま飛んで参りました。」と
挨拶を交わした。「して その急遽駆け付けた理由は。」「は 実は二ヶ月ほど前に、
日向の地では台風に見舞われまして。日向では大変な被害が出ております。」「うむ。
その話は既に聞いておる。」「実はその時飫肥城主土持氏の異国との交易が発覚しまし
て、ございまする。」「ほう。異国との交易とな。朝鮮や宋や明国でなら何も不思議で
はないがのう。ここでもたまにはやっておる事じゃが。南蛮国となそんな異国があると
は、あまり聞かぬのう。ちと詳しく聞かせよ。」「は。それが遠く船旅で3ヵ月程遠い
異国と聞いております。その国が南蛮だと聞いてはおりますが 私も詳しくは知らぬも
ので。」「南蛮国とな。」「は。それで報告に来た者によると紅毛や金毛の者や黒い皮
膚の暴れ牛のような者達が乗っていたようでございます。」「なに。赤い髪の黒い水牛
とな。」「いやいや人手して何でも言葉が通じぬ者が何十人も乗っていて その内の幾
人かは栗毛色の金髪や赤髪で白い雪の様な肌の青い目の男が乗っていたようでして。発
見された時は大部分が死んでいたと聞き及んでおります。何でも身の丈が2尺以上の大
男が暴れて殺してしまったとかでして その大男というのが仁王や閻魔のような黒い男
で、鎖をつけたまま狂って暴れ回っていたとかで 取り押さえた土持氏の手勢も幾人か
やられたようで 手鎖や足の頸木が無ければ何んとも取り押さえは不可能だったと聞い
ております。」「ほう。閻魔や仁王のような黒い大男とな。何んとも面白いものがこの
地についた者じゃのう。」「は。報告はそれだけはありません。」「うむ。他にもある


802: 名無しさんAA:14/09/20 23:32

とな。」「は。船には積み荷が多くて底をついたとかで その積み荷を降ろすに近くの
村人を集めても1ヶ月かかったと言われています。その中に奇妙な鉄の手筒が数丁と同
じ様に大筒が一つ乗っていたと 探った者が報告しております。」「何とな。鉄の手筒
と大筒じゃと。」「はっ。」「で その手筒と大筒とはどんなものか。」「手筒は文字
通り 我々の矢を放つ竹筒の様に鉄の玉を火薬で飛ばすとか 大筒はその大きい物かと
」「ふむ 南蛮国は鉄の細工が進んでいた と言う事か。」「は。」「で他には。」「
「は。他には今だ詳細は聞こえてはいないものの どうも先に大友が嗅ぎまわっていて
我々の知らぬところで動いているとの噂も。」「なに。大友が知ったかも知れぬという
事か。」「は草の話では 既に早くから探りを入れていたとの報告はあります。」「そ
うだろうな。さもありなん 土持の所領とは目と鼻の先 異様な南蛮船の漂着とあらば
調べようぞな。例え村人に口封じをしていてもな。合い解った。今後もしかと調べおけ
。」「はっ」

803: 名無しさんAA:19/03/04 17:29 ID:jA
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -11

 数多くの人類の文化史において最も興味深い物はシュメール神話であろう。日本神話
も縄文時代の話しとして数々の童話はあったが、近年ではその記述の元本が否定されて
、縄文時代とされる山窟文字や記号を読める人は殆どいない上に、そうした岩文字は、
今や開発によって福岡文や大分の宇佐文字あるいは長崎のアルタ文書は紛失している。
今や熊本の古墳に書かれたとされる、三角文様や渦巻き文字のみがその紀元二百年前と
する物語を残すのみである。ところがこのイラクの『ギルガメシュ叙事詩』における古
バビロニア語のウタナピシュティム(「生命を見た者」の意)の楔型文字の粘土版は、
遥かに古く二千年頃の話となっている。恐らくは四千年ぐらい前の話が繰り返し使われ
た神話であろうとされるが、粘土板そのものの放射能測定では、紀元前18世紀にアッカ
ド語とされ、アトラ・ハシース(Atra-Hasis、「非常に賢い」)の神話とされ、ノアの
箱舟伝説の基であろうとされる。イラクのニネヴェは現在のモスルで紀元前7000年頃か
ら人が居住したと言う記録や研究結果がある。紀元前2000辺りでよく栄えたニムロドが
興したと言われているが本当に居たかどうかは不明だ。現在は何故かアメリカが叩き、
ISが遺跡と発掘資料を破壊し、ネブロで発掘された粘土版は二百程の破片だったと言
われる。僅かのに英国人ジョージ・スミスが発見した為アトラ(ム)ハシスの粘土版の
年代を知り、BC700頃の楔文字粘土板のレプリカを作って、大英博物館のコレクシ
ョン(K8538)楔形タブレットとして存在する。全てはニネヴェ(モスル)のアッ
シュールバニパル王の王宮図書館で発掘(ヘンリー・レヤード)に返されたが、他の粘
土版はアッカド語だったが、大きな破片がシュメル語で書かれた最古のものは今だ解読
なされていないが、ギルガメッシュ叙事詩、洪水伝説の欠けた部分以外はシッテェンの
30年の人生を賭けた解読で、その文字が読まれる事になった。シュメールの語のが古
く現地でも解読できなかったのだ。こうして、紀元前18世紀にアッカド語、粘土版3
枚で記された叙事詩(邦訳例『アトラ・ハシース神話』、或は『アトラ・ハシース叙事
詩』)は、主人公の名前をとってハシース神話と言われる。シュルッパクの王名表に名
前が見つけられその信ぴょう性は疑われる事はないとされる。「粘土版1に書かれた、
アヌ(天)、エンリル(風)、エンキ(水)による宇宙の創造(創造神話 )と粘土板2
のいわゆる(大洪水伝説)でありノアの役をするアトラム・ハシース(Atra-m-hasis )
はアッカド語で「賢き者」「最高の賢者」の意味でアッカドでも新語系と呼ばれる。こ
の「アトラ・ハシース」は叙事詩以外にも各神話や伝承に名前を変えて登場する。他の
神話伝承でも示す者は基本的に同一人物で描かれている。死海文書『ギルガメシュ叙事
詩』における彼は、古バビロニア語のウタナピシュティム(「生命を見た者」の意)の
変形名ウトナピシュティムとして語られ、シュメール語の大洪水伝説口伝では「永遠の
生命」「永続する生命」の意であるジウスドラまたはジウスドゥラと呼ばれた。なお、
ジウスドゥラについては近年、「ジウドスラ」と読むべきであるとの説が出されている
。ヘレニズムのベロッソス著ギリシア語版『バビロニア史』では、ジウスドゥラのギリ
シア語化しクシストロスの名で伝わった。とされている。


804: 名無しさんAA:19/03/04 17:29
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -12

 宇宙の創造(創造神話)では、アヌ(天)、エンリル(風)、エンキ(水)による話
から始まる。不思議にも日本語で天は「あま」であり、風は「会(えん)瑠璃(るり)
」つまり天国の様に心地好い縁と地獄の様な縁を持つもの、更に水は「縁機(えんき)
」必要なもの。であるとされる。人類創造主エンリルは、下位の神々であるイギギに、
農業、治水を命じたが40年後、下位の神々は反乱を起こした。その為エンキは、人間を
つくって農業と治水を行わせることを、提案した。神々の集団の母神ニンフルサグ(マ
ミ)は、死んだ知恵の神ゲシュトウーエ(Geshtu-e)の肉と血を混ぜた粘土で人間をつ
くった。とされる。この時下位の神イギギが日本語的に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と
似ていて日本神話の孫の代の神に似ている事が解る。つまり「風の神」エンリルや、「
水の神」エンキは、共に下層神「イギギ」から反乱を受けてしまうのだ。日本でも瓊瓊
杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれるこの神は。「あめにぎしくに
にぎし」(天にぎし国にぎし)は「天にも地にも親和的である」の意味である。「あま
つひこ」(天津日高)は神をたたえる美称であり、高天原と関わる神であることを示す
とされ、「ひこ」(日子)は日神である天照大御神の嫡流の男子であることを示す、「
ほのににぎ」は稲穂がにぎにぎしく成熟することの意、「ににぎ」は「にぎにぎしい」
の意で「にぎやか」と同語源である。と言う。言わば人間界からは神であり神々からは
、新しい新天地開拓の為の下僕の地位である。最終的に多くを言ったうるさくなった。
と言う事で邇邇芸命と言う名が付いたのかもしれない。こうして創造神エンキは、人間
をつくって農業と治水を行わせることを提案したのだが、神々の集団の母神ニンフルサ
グ(マミ)は、死んだ知恵の神ゲシュトウーエ(Geshtu-e)の肉と血を混ぜた粘土で、
人間をつくった。と言う。(マミ)はその後ママやマザーの語源となったとされる神だ
。日本の国造り神話では、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は
、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。別
天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(
あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴
り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。その後、二神はこの淤
能碁呂島に降り、結婚する。そして淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿
(やひろどの、広大な殿舎)」を建てている。此処に決定的な東洋と西洋の違いがある
。即ち泥で人を作ったとされる神話である。この泥によって神が人型を作り命を吹き込
んだとする神話は、中国まではある。しかし、日本では一人目の人間は蛭子であり失敗
したが二人目からは男が誘ってちゃんと人間が生また。とされている。

805: 名無しさんAA:19/03/04 17:29
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -13

この時神々は粘土につばを混ぜてつくるが10か月後、人間が誕生する。粘土版2では、
人間の過剰人口になり、エンリルは人口を減らすために飢餓と旱魃を1200年毎にもたら
す。と決定し、エンリルは人間を破壊するために洪水を起すことを決めた。しかし粘土
版3ではギルガメシュ叙事詩の粘土版11にて改めて記載している様に、それを知った
エンキが秘かに人間を残す事にした。エンキは、シュルッパクのアトラ・ハシースに、
家を解体して船を造り、エンリルが起そうとしている洪水から避難する術(すべ)を話
す。アトラ・ハシースは、彼と彼の家族は船を作り、動物と船に乗り扉を閉め避難する
。嵐と洪水が起こってから7日後、アトラ・ハシースは神々に生け贄を捧げる。エンリ
ルは、エンキが計画を漏らしたことを咎めるも、エンキとエンリルは和解する。アトラ
・ハシスは紀元前18世紀の、アッカドのエピックの主人公である。古代シュメールの
王名表では、「大洪水」以前のシュルッパグの王の一人と記載されている。アトラ・ハ
シス粘土版ではこの「創造神話」と「大洪水」を記録しているのが確かめられ、バビロ
アの現存する3つの記述の内の一つである事で知られている、一番古い記述は、ハムラ
ビ王の孫アムミ・サドゥカの時代(紀元前1646〜1626)のものであるとされ、古バビロ
ニア時代のものが多く破損している中でも存在している。これらは、紀元前1000年
以後まで繰り返し子供の書記学校での練習用としてコピーされて現在まできた。アトラ
・ハシスの話が、アッシリア時代のものも、アシュバニパル図書館跡から発見されてい
るが、保存状態が良くなく、翻訳も定かではない。だがここで発見された粘土版では、
はっきりくっきり楔型文字が残っている事で読み解かれた。ところが近年地球物理学で
は、此処に書かれた物語が合致する事が発見された。地球磁場の減少現象である。地球
核について少しずつだが高熱のマントル磁場の解明が出来て来ている。70万年前に一
回磁場が解かれ地球上に磁場の逆転の大破滅が起きる周期があったと言う事だ。そして
今大西洋南部のブラジル沖で異常磁場が始まっている。と言う事だ。最近太陽で双極磁
場から分極磁場に変化している。特に3割落ちていて、ブラジル沖の地球磁場は1万キ
ロに渡り地下で逆転磁場まで起こっている。研究成果では磁場は百年で6%も減って逆
転磁場に近づいている。液体金属で起こる磁場は地球環境を守っている。千五百年で無
くなるとなるとこの先地球バリアが期待できない事になる。実はその前兆現象は生物界
ではかなり出てきている。クジラの迷子や異常死である。日本神話でも別天津神(こと
あまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。つまりもっと上層部
の神々に指令され天沼矛(あめのぬぼこ)が二神に与えられる。伊邪那岐・伊邪那美は
こうして天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜて仕事
をしている。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)
となった。とされる。

806: 名無しさんAA:19/03/04 17:30
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -14

 発見された粘土板では、タブレットI(第一粘土版)で、シュメールの神々、アヌ(
空神)、エンリル(風神)、エンキ(水神)の創造神話を記して。これらの神々の領域
はくじ引きできめられた、とされる。大地(山)の神でもあるエンリルは、低級神(イ
ギギ)に農園での労働と、河・運河・用水路の整備・維持を言い付ける。しかし、40
年後、重労働を理由に、低級神は反乱を起こす。反乱を成敗する代わりに、親切で賢明
な「神々の助言者」知紳エンキは、人間を労働者として創造する事を提案する。このた
めに、母神マミ(ママ、マミー、「お母さん」の語源、ニンフルサグの事。)が生贄に
された神、ゲシュトゥ・エの血肉と粘土を混ぜて人間を創造する事を任命された。この
際、総ての神々が粘土に唾を吐く(DNA).10ヶ月後、特別に造られた子宮から人類
が生まれる。そして、その後、タブレットIは、人口増加(過剰)と流行病を記してい
る。タブレットUは、こうした人口過剰に対して、エンリルが取った政策を記す。それ
は、1200年毎の人口削減のための飢餓と干ばつであった。(60進法)この記述で
は、エンリルは意地の悪い神として描写され、エンキが助けになる、慈悲深い神とされ
た。タブレットUには、ほとんどが破損しているが、その最後にエンリルが人類を洪水
で滅ぼす決断を下した事と、エンキがこの計画を秘密にする事を誓わされた事が記され
ている。タブレットVは、大洪水の逸話を記す。この部分は、ギルガメッシュ神話のタ
ブレット11にも取り入れられた話が載る。アトラ・ハシスの第V粘土版は、エンキが 
シュルッパグ市のアトラ・ハシス(ノア)に、壁つたえに、エンリルが人類を滅ぼすた
めに、大洪水を起こすから方舟を用意し、生き延びろ、と警告した事が記されている。
方舟は、Apsu(Abzu)のように、防水対策され、造られる(Apzuは空海両用のUFO・U
SOの事とされた。)アトラ・ハシスとその家族は、動物達と共に方舟に乗り込むと嵐
と大洪水が起こる。神々さえおののく程の大洪水である。七日後、嵐は去りアトラ・ハ
シスは神々に生贄を捧げる。エンリルは沈黙の誓いを破ったエンキに対して激怒する。
だが、エンキは約束を破ってはいない事を主張する。(壁つたえであり、直接警告した
わけではない。と言い訳する。)そして、エンリルとエンキは、その後はどう人類をコ
ントロールするかについて同意した。と言ったストーリーである。日本神話ではどろど
ろした世界に風が吹き天地が分かれ、天地が現れ三柱の神が生まれている。神の単位は
1人、2人とは言わず、一柱、二柱と数えがその三柱は天之御中主神(アメノミナカヌ
シノカミ)、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)
とされ宇宙神とされる。この世界がまだどろどろで形もできていなかった頃、三柱が見
える様になる頃、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)、天之常立
神(アメノトコタチノカミ)という二柱の神も生まれ、全部で五柱の神が生まれた。こ
の五柱は天つ神(トコアマツカミ)と言われ特別な神様とされる。これらの神はすべて
独神で身を隠されます。その後二柱の独神の神が生まれ、また身を隠し、次の代に四対
八神が誕生する。そして最後に多くの人が聞いたことのある伊耶那岐神(イザナギノカ
ミ)と伊耶那美神(イザナミノカミ)が生まれました。つまり独身の神が8神いて、我
々が神とするのは、その孫なのである。


807: 名無しさんAA:19/03/04 17:30
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -15

 大国主が出雲の美保岬にいたとき、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服
とする小さな神が、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。
大国主はその小さな神に名を尋ねたが、答えがなく、従者もその名を知らなかった。そ
こにヒキガエルの多邇具久(たにぐく)が現れて、「これは久延毘古(クエビコ)なら
知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の
少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしで、歩行できない。が、天下
のことは何でも知っている神であった。神産巣日神は、少名毘古那を自分の子と認め、
少名毘古那に大国主と一緒に国造りをするように言った。大国主と少名毘古那は協力し
て葦原中国の国造りを行った。その後、少名毘古那は常世に去った。大国主は、「これ
から一人で、どうやって国を造れば良いのか」と言った。その時、海を照らしてやって
来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重
に私を祀れば、国造りに協力しよう。」と言った。どう祀るのかと問うと、大和国の東
の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座する神(大物主)で
ある。天之御中主神(アメノミナカヌシ) 高皇産霊尊(タカミムスビノミコト) 神皇
産霊尊(カミムスビノミコト)可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)天常
立尊(アメノトコタチ)国常立尊(クニノトコタチ)豊雲野神(トヨクモノカミ)少名
毘古那神(スクナヒコナ)が神の国の八柱八神である。つまり神の国の神である。久延
毘古(クエビコ)や大国主(オオクニヌシ)幸魂奇魂(サキミタマクシミタマ)少名毘
古那神(スクナヒコナ)らは、子供と言う訳である。ここで不思議なのは少名毘古那神
(スクナヒコナ)は神の子でありながら神の国の神でありながらやって来て、常世の国
である理想郷の神の国に帰ってしまうのだ。しかし、天照大神(あまてらすおおかみ)
神話では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神
であるが女神と解釈され、高天原を統べ、皇祖神にして日本国民の総氏神であるとされ
ながら。『記紀』において、アマテラスは太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在と
して描かれ、別名、大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)であり、父イザナギ(伊邪
那岐尊、)母イザナミ(伊弉冉尊)兄弟の兄に大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主
貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)などを持ち、弟にツクヨミ(月夜見尊)弟スサノオ(
素戔嗚尊)を持つ神だ。「神産み神話」においてイザナギとイザナミとの間に生まれた
神で最後に火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が生まれるが、火の神であったために
、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その
後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で、殺されてしまう。

808: 名無しさんAA:19/03/04 17:30
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -16

 基本的な日本神話の流れでは、耶那岐神と伊耶那美神は地上に降りて、於能碁呂島(
オノゴロシマ)を固めてこの世に降りる。そして天の御柱の周りをめぐり結婚の儀を交
わしますが、イザナミがイザナギの姿を見て感嘆の声を上げると、水蛭子(ヒルコ)と
淡島(アハシマ)が生まれ、葦舟に乗せて天上の神の元に返されるのである。つまり、
結婚の儀式がうまくいかずに子どもができたが流れてしまった。ということなのです。
そこでもう一度結婚の儀式を行ってみると今度は、淡路島、四国、九州、隠岐島、壱岐
島、対馬、佐渡島、本州の国生みに成功したとされる。火山の造山活動が上手く行った
歴史を伝えているのかもしれない。この時他にも、岩、海、風、山、野、五穀などの、
多くの神様も生むことができた。しかし、最後に火の神、迦具土神(カグツチノカミ)
を生むことで、イザナミは焼死をしてしまいます。その体からは鉱山、粘土、水などの
多くの神々が誕生し、他にも雷神や峡谷などの神も誕生する。「古事記」によると迦具
土神の血から、以下の神々が生まれた。 石折神(いはさくのかみ) 根折神(ねさくの
かみ)石筒之男神(いはつつのをかみ)『別名、建布都神(たけふつのかみ)富布都神
(とよふつのかみ)』この三柱の神は、十拳剣の先端から岩石に滴った血から生成され
た神々である。他に甕速日神(みかはやひのかみ) 樋速日神(ひはやひのかみ) 建御
雷之男神(たけみかづちのをかみ)の、この三柱の神は、十拳剣の刀身の根元から岩石
に滴った血から生成された神々である。闇淤加美神(くらおかみのかみ)闇御津羽神(
くらみつはのかみ)この二柱の神は、十拳剣の柄から岩石に滴った血から生成された神
々である。又、迦具土神の遺骸、つまり体からは、上記8神に加え以下の7つ神々が生
まれた。 正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)迦具土神の頭から誕生。 淤縢山津見
神(おどやまつみのか)迦具土神の胸から誕生。 奥山津見神(おくやまつみのかみ)
迦具土神の腹から誕生。闇山津見神(くらやまつみのかみ)迦具土神の性器から誕生。
志藝山津見神(しぎやまつみのかみ)迦具土神の左手から誕生。羽山津見神(はやまつ
みのかみ)迦具土神の右手から誕生。原山津見神(はらやまつみのかみ)迦具土神の左
足から誕生。戸山津見神(とやまつみのかみ) 迦具土神の右足から誕生。つまり、頭
、胸、腹、左右の手足で7神である。人の体が8神であり、切った血は8神である。最
初に石折神・根折神・石筒之男神の三神は、実は地鎮祭における「伐開除根作業」(ば
っかいじょこんさぎょう)を意味している。地上の木や石を除き、その後地中の根を取
り除き、更に石も取り除く。この三神はつまり開墾の神なのである。



809: 名無しさんAA:19/03/04 17:31
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -17

 開墾の神の三神の後、次の甕速日神(みかはやひのかみ)樋速日神(ひはやひのかみ
)建御雷之男神(たけみかづちのをかみ)が登場するが、この意味は当然の天候の神で
ある。甕速、樋速、建御雷、つまりこれらはすべて雨水の神である。甕は壺であり貯ま
った水である。樋は、川であり流す水である。建御雷は天から降り注ぐ雨水や雷なのだ
。ここに雷を「かみなり」即ち「神為り」としている言葉の意味がある。闇淤加美神(
くらおかみのかみ)闇御津羽神(くらみつはのかみ)は字のごとく山あいの石の地を示
す、つまり山の穴倉と川縁と言う人の生活した土地の名称である。こうして国造り日本
神話が生活して来た言葉を神として伝えて来た事は理解できる。しかし何故火の神が生
まれてこうした、水の神や土地の神が出来たのか、そこは不思議である。神話では、黄
泉の国へ行ってしまったイザナミを追い、イザナギも黄泉の国へ行くが、既に黄泉の国
では、黄泉のものとなってしまったイザナミは怨霊となっていた。その実態を見たイザ
ナギは逃げ出し、逆に追いかけられることになる。黄泉との境でイザナミはイザナギの
国の住人を1日に千人殺すと言うが、イザナギは千五百人誕生させる。ということで対
抗した。イザナミもイザナギも神や国を作ることができる神ということだ。が、人口増
加問題は、ノアの箱舟神話の芯で実はこの人口増加問題で、神々の会議でそのエンリル
が、人類を洪水で滅ぼす決断を下し、エンキがこの計画を秘密にする事を誓わされた事
が記されているのである。つまり人間が増えすぎうるさくなったから、全員殺す算段を
し、決議されたのだ。という。これに全部の神々は同意させられる。そうして大洪水が
起こっている。ところが日本の神話ではそうした大洪水の話しは出ない。日本神話では
、黄泉の国から逃げてきたイザナギは汚れを落とすために小川で体を洗いますが、衣類
を脱ぎ水に入るだけで十二柱の神が生まれます。穢れをすすいだ事によって新たに二柱
の神が生まれました。その後も次々と九柱の神が生まれます。そして左目を洗うと天照
大御神(アマテラスオホミカミ)が生まれ、右目を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)
、鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が生まれました。これを、
神話では三貴子(サンキシ)と言い、アマテラスは高天原を、ツクヨミには夜の国を、
スサノウには海原を治めるように命じます。ここから神々の戦いや、いろいろな関わり
が書かれることになるが、ここから本来の神話としての物語が続き、日本の天皇の祖先
と言われている神々につながる壮大な話が始まる。しかし、この西洋のノアの大洪水は
地質学的には日本にもあった筈なのである。しかし、どうして神々の国「常世の国」が
あってその下に働く下層神が作られ、その神の子として人間が生まれたとされるのか。
日本神話では単に万世一系の系統の御先祖とも取れるが、西洋神では明確に人間は粘土
で作られたとされ、エデンの園の神話まで生まれている。


810: 名無しさんAA:19/03/04 17:31
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -18

火の神のカグツチの死体から生まれたのが、以下の神々の8神が生まれている。
 1.正鹿山津見神(まさか やまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
 2.淤縢山津見神(おど やまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
 3.奥山津見神(おく やまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
 4.闇山津見神(くら やまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
 5.志藝山津見神(しぎ やまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
 6.羽山津見神(は やまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
 7.原山津見神(はら やまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
 8.戸山津見神(と やまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)
ここに現われている言葉は日本の古語ではないか。とされてもいる。すなわち「まさか
」と言うのは、日本でびっくりする事に使われるが、その用法は驚嘆を示した物として
使われた。と言う話だ。次の「おど」と心の動きであり「おどおどする。おどおどしい
。」などと言う言葉がある。「おく」も「置く・奥・措く・億」と離れた場所を示す。
「くら」も「暗い・暮らす・暗巣見」など見えない様を示す言葉である。「しぎ」も、
仕儀・試技・私擬と人の動きである。「は」も日本語的に「〜は、」という接続語であ
る。「はら」も「〜は、〜ら、」の一群の動きであり、「と」も「〜と〜」と言う使い
方が現代でも続く。迦具土神あるいは火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と類比され
るのがプロメテウスの火である。ギリシャ神話では、ゼウスが人間と神を区別しようと
した際、プロメーテウスは役割を懇願し、ゼウスを裏切った神だ。彼は牛を殺し二つに
分け、一方は肉を食べられない皮で包み、もう一方に骨に脂身を巻き美味しそうに見せ
せてゼウスに神々の取り分として選ばせた。ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選ん
で、怒って人類から火を取り上げた。しかし、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さ
に怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとれると作業場の炉を地上に持って来て人類
に「火」を渡した。とされる。こうしてプロメーテウスは磔にされ毎日肝臓を鷲につい
ばまれる責め苦を3万年間拷問が行われる。不死身である彼の肝臓は夜中に再生し、の
ちにヘーラクレースにより解放されるまで拷問が行われるのである。ここで闇淤加美神
(くらおかみのかみ)闇御津羽神(くらみつはのかみ)と同じに、迦具土神の性器から
生まれた闇山津見神(くらやまつみのかみ)が居る事は興味深い話しである

811: 名無しさんAA:19/03/04 17:32
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -19

 こうして、火の神、迦具土神(カグツチノカミ)を生むことで、イザナミは焼死をし
てしまい、その体からは鉱山、粘土、水などの神が誕生し、他にも雷神や峡谷などの神
も誕生したが、恋しいおもいのイザナギは、黄泉の国へ行ってしまうのだ。イザナミを
追ってイザナギも黄泉の国へ行くがしかし、既に黄泉の国のものとなってしまった彼女
イザナミは怨霊となっていて、イザナギを逆に追いかけることになった。イザナミは九
死に一生ほうほうのていで黄泉から帰る。文字通り現世に蘇るのである。イザナギの国
の住人を1日に1000人殺し、イザナギは1500人誕生させるということで対抗した。つま
りイザナミもイザナギも神や国或いは人間も作ることができた神だということである。
この辺は人間的な考えではなかなか理解できない。超科学である。黄泉の国から逃げて
きたイザナギは汚れを落とすために小川で体を洗い、衣類を脱ぎ水に入るだけで十二柱
の神が生まれる。穢れをすすいだ事によって新たに二柱の神が生まれました。その後も
次々と九柱の神が生まれます。そして左目を洗うと天照大御神(アマテラスオホミカミ
)が生まれ、右目を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗うと建速須佐之男命(
タケハヤスサノオノミコト)が生まれました。これを三貴子(サンキシ)と言い、アマ
テラスは高天原を、ツクヨミには夜の国を、スサノウには海原を治めるように命じます
。ここから神々の戦いや、いろいろな関わりが書かれることに。そしてここから本来の
神話としての物語が続き、日本の天皇の祖先と言われている神々につながる壮大な話が
始まるのだが、ちょっと戻って、黄泉に着いた伊邪那岐命は、戸越しに伊邪那美命に、
「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していません。帰りましょう」と言ったが、伊
邪那美命は「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返ることはできません。」
と答えている。黄泉の国のものを食べると黄泉の住人になるとされていた。とられる。
これを「黄泉竈食ひ(よもつへぐい)」と言うそうだ。さらに、伊邪那美命は「黄泉神
と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないで下さいね。」といい、家の奥に
入ったが、伊邪那美命を探し、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆ
つつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして中をのぞき込んだ。すると、伊
邪那美命は、体は腐って蛆がたかり、声はむせびふさがっており、蛇の姿をした8柱の
雷神(八雷神)がまとわりついていたとされる。大雷(おほいかづち)がイザナミの頭
に、火雷(ほのいかづち)が胸に、黒雷(くろいかづち)が腹に、折雷(さくいかづち
)が、イザナミの陰部に、若雷(わかいかづち)が、左手に、土雷(つちいかづち)は
右手に、鳴雷(なるいかづち)、伏雷(ふすいかづち)、イザナミの左足右足にいた。
おののいた伊邪那岐命は逃げようとしたが、伊邪那美命は自分の醜い姿を見られたこと
を恥じて、黄泉醜女(よもつしこめ)に、伊邪那岐命を追わせたのである。


812: 名無しさんAA:19/03/04 17:32
 NEW 悪魔の聖杯 0059   ズンダランド クライシス    ‐‐- -20

 この雷とは、単なる刺青(いれずみ)であり、彼らの世界での安曇の文様で呪術の、
習わしだったのだろう。と推測されるが、ここで問題は、黄泉醜女(よもつしこめ)に
追いかけられて逃げている事だ。「黄泉竈食ひ(よもつへぐい)」は、恐らくは酒か薬
物であり既にこの「黄泉の国」から逃げられない立場であったのだろう。つまり病気の
平癒に出かけて帰れなかった。と言う話である。黄泉醜女は文字通り醜い女と捉えられ
るが、逃げて行く時伊邪那岐命は蔓草(つるくさ)を輪にして頭に載せていたものを投
げ捨てた、すると葡萄の実がなり、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。しかし、
まだ追ってくるので、右の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)と
いう竹の櫛を投げた。するとタケノコが生え、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた
。とされる。伊邪那美命はさらに、8柱の雷神と黄泉軍に伊邪那岐命を追わせた。伊邪
那岐命は十拳剣で振り払いながら逃げ、ようやく黄泉の国と地上の境である黄泉比良坂
(よもつひらさか)の坂本に着いたとき、坂本にあった桃の実を3つ投げたところ、追
ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。ここで伊邪那岐命は、桃に「人々が
困っているときに助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と
名づけた。「意富加」とは「ほおかむり」「ほほ」などの語源と思われ、「牟豆美」と
は、牟とは自然の美しい風景を示し、豆は食糧を示す。これに美を足している。つまり
農業を起こした。モモの木を奨励した話しである。タケノコを食べたたのも神話の時代
からあった事を示している。禊のその時に、身につけていたもの(杖・帯・袋・衣服・
袴・冠・腕輪)を投げ捨てする時に十二柱の神々が出現した。とされる。衝立船戸神(
つきたつふなどのかみ)、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、時量師神(ときは
かしのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)
、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那芸佐
毘古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)、辺疎
神(へさかるのかみ)、辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、辺津甲斐弁羅神
(へつかいべらのかみ)である。そして、イザナギノミコトは、「上流の方は水の流れ
が速く、下流はおそい。」とおっしゃられて、海の真ん中で身体(からだ)をお洗いに
なった時に、十柱の神々がお生まれになりました。最初の二柱の神は、黄泉の国にいた
ときの汚れたものから生まれた神(禍の神)で、ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)
とオオマガツヒノカミ(大禍津日神)であるとされる。ここで敢えて「禍の神」マガツ
カミつまり厄神である事を伝えている事はここで戦争が起こったと考えるべきだろう。
そして次に生まれた三柱の神は、黄泉の国で取り憑いた禍(わざわい)を取り除くとき
に生まれた神で、カミナオビノカミ(神直毘神)、オオナオビノカミ(大直毘神)、イ
ズノメ(伊豆能売)である。


813: 名無しさん:21/12/13 02:49 ID:sE
>>812
もしかしてお前ガイジ?


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示