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91: 01/12 19:25
 そもそもが38度線受け入れを韓国民はいまの政府すら受け入れた承認書類はない。
話し合いの席には李承晩は頑としてつかなかったのだ。さらに北朝鮮の成立は朴政権と
同じく親日派の数多くの暗殺に反対した金日成のクラブがソ連支援で統治していたから
だ。お馬鹿の李承晩は米軍を引き入れてきたが、そもそも朝鮮半島で第二次世界大戦を
行っていない。前線は満州にあったので敗戦動乱のみの話で、終戦時のGDPは米国と
肩を並べる物だったのだ。朝鮮戦争で李承晩は逃げ回ったが、殆どの朝鮮人民は北朝鮮
の進軍に沸いたと言われている。なぜならそのGDPを支えていた電力や水道・治安や
工場を支えていた工場長クラス集落の長など、主要人物を血祭りに上げて朝鮮を壊し続
けていた事を多くの人が知っていたのだ。日本に於いて在日と呼ばれる人々は敗戦では
逃げて来ていない。それどころか戦争が終わって朝鮮半島に返されているのが殆どだ。
台湾人も朝鮮人も支那人もベトナム人も一応は母国に帰ったのだ。しかし、この独裁の
不埒な李承晩政権に追われて日本にやって来たのである。およそ戸籍上は2百人も満た
ないとされた朝鮮人が。その3年後は推定で何万人にも増えている。大陸からの帰国は
日本では引き揚げ者引き揚げ船と呼ばれていた。軍人は引き揚げ軍人とされた。米国は
当初軍人のみの引き揚げを認めて一般人の引き揚げを認めなかった。そこで密航船が、
暗躍した。当初軍人を連れて日本に来た船は朝鮮人を連れて朝鮮半島に渡っている。が
半年もせず帰国し軍人と共に密入国をして来たのだ。実は李承晩は、これまで公用語で
あった国内での日本語を禁止したのだ。これによって生活が出来なく逮捕される者が、
日本に帰ってくる。そこで日本政府は進駐軍に働きかけ在日に朝鮮語を教える学校を新
たに作る事を認知してもらった。これが間違いの始まりである。ほとんどの人は帰国し
ようと思っていたし、日本とGHQもコリアンの送還を行った。又実際に多くの人は、
戦後すぐに帰国してもいる。だが戦後の日本各地に雨後のタケノコのように朝鮮学校が
できた事を幸いに日本で定住始めたのである。それは帰国に備えて子供たちに言葉を含
めた民族教育を受けさせる事も一定の時間が必要だった事と、混乱期にすぐに帰国した
人が帰って来て情報を与え、朝鮮半島の混乱が収まるのを待って帰国うるのを進めたか
らだ。ところが、記述の様に朝鮮半島では戦後の混乱を抜けきらないままに、二つの政
府に分裂し、朝鮮戦争が始まってしまったのだ。戦後の夢の国とされた朝鮮半島も、こ
の李承晩と金日成の確執とソ連と米国の確執によって共同統治でなく分断統治に追い込
まれたのである。この時不思議なのは当然ながら日本人を嫌っていたのは米国側だった
と言われる。共産党側には教育された者が少なく労働者も欲しかったからだ。一方米国
には友人や知人が今回の戦争で殺されている人も多かったからと言われている。
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