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川中島周辺に住むスレ
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196: 09/24 09:27
  歴史の群像     118

 1875年に起きた江華島事件では、日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)の
きっかけを作った。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、突然の威嚇砲を受け
て、江華島、永宗島砲台と交戦した日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であるが、
日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれるこの事件の
頃は、日本政府も度重なる親書の受け取り拒否で、征韓論争が日本の明治六年政変によ
って「延期」で模様眺めしようと決まった矢先の頃だった。その後の台湾出兵の発生と
大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして
相手の状況をみることとした。1875年(明治8年)にこの暴挙に、釜山に於いて、東莱
府と森山茂理事官との間で初めての政府間交渉が持たれた。しかし、宴饗の儀における
日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、
東莱府が承認しないなど、難癖がつき紛糾し、さらに朝鮮政府の中央での大院君の支持
者が交渉中止を求めた報告で議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えること
が不可能となった。この打開策に「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦を極秘裏に派遣さ
れ、5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港した。朝鮮側は突然軍艦の
来航で懸念を表明し、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために
派遣された。」と説明した。さらに軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や
事前通達をした上での訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行っ
た。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたが、交渉の進展に
は全く寄与することは無く、大院君の鎖国の決意は固く、交渉官が降りることはなく、
日朝交渉は森山たちの帰国という形で一旦打ち切られた。日本政府はこの事件に関して
はしばらく静観の構えを取った。一方朝鮮国内では日本船を攻撃したという噂が流れ、
釜山草梁で日本人に接する朝鮮側の人々は大いに不安に駆られていた。朝鮮政府は事件
後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変えて、日本側を慰撫す
る動きに変わった。事件後の1876年(明治9年)、黒田清隆を特命全権大使の交渉団が
江華府へと派遣されると、朝鮮政府はすっかり変わり、開化派の司訳院堂上官呉慶錫を
交渉に先立つ応接の使者に派遣する。そうして日本側に多大な配慮を示す対応を見せた
。韓国側は「事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であ
ることは明白である。日本船と認識していたのなら攻撃などするはずが無い。」といい
日本政府は「事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに事件が発生
したのは朝鮮側の怠慢ではないか。黄色い旗を掲げていたという報告は受け入れがたい
。雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは
間違い無く、そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大
な問題である。としたのである。

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