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川中島周辺に住むスレ
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199: 09/24 09:33
  歴史の群像     120

 日本が最初に締結した日米和親条約や日米修好通商条約はその後に結ばれた西欧列強
と締結した諸条約のモデルとなっている。強いて類別すれば、条規そのものが日米和親
条約にあたり、付録及び貿易規則・公文は日米修好通商条約に該当する。しかし同様の
性格を有しながら、いくつか相違点もある。朝鮮を「自主の国」とわざわざ言明してい
る点は、この条約の特殊な点である。西欧列強の対日条約のいずれにも、これに類似す
る項目は無い。また最恵国待遇がないことも特徴の一つである。駐日イギリス公使の、
パークスは、日本の朝鮮への要求が日本に対する欧米側の要求よりも上まわっているこ
とについて、非常に注目していた。以下に違いを列挙すると、・朝鮮側の雇用が前提と
はいえ、日本の商船が開港地以外での沿岸貿易が許される余地がある。当時日本自身が
欧米列強から強く要求されていたものであった。・開港地に外国人の遊歩区域を設けて
いる点は同様であるしかし、日朝修好条規では外国人の商業行為をも認めている。安政
の五ヶ国条約では、治外法権を犠牲にしてでも外国人の商業行為を阻止した。それによ
り日本が国内の産業育成の時間的猶予を得られた。しかし日朝修好条規では、そうした
暇を朝鮮に与えることは無かった。同じく開港場にて日本の貨幣使用が認められている
点も西欧の対日条約と同じであるが、それらは銅貨の輸出は認められていない。しかし
この日朝修好条規では認められ、その海外流出を促した。・港税の価格が、日本と欧米
間の取り決めでは港税は22ドル(入港料15ドル+出港料7ドル)であったのに対し、日朝
間では蒸気船など大きな船舶については5円、それ以下の規模の船は積載量により2円と
1円50銭とされた。明治のこの時期の為替レートは1円=1ドルほどであったので、港税は
1/4程度の廉価に抑えられている。 貿易・海外進出に関し先行する日本にとっては有利
な条件となっている。米穀や豆など穀類の輸出の自由や、朝鮮人の地主と直接交渉して
土地貸借ができること。など以上から日朝修好条規は、日本が欧米と結んだ諸条約と比
較してより過酷な内容を持ったものになっている、ともいえる。「朝鮮が清朝の冊封か
ら独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した変わったものだったが、日
本が置かれた不平等な「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」などといっ
た不平等条約的条項の内容とすることなどがなかった。という特徴がある。朝鮮側には
多少不利な内容となっているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮
が開国する契機となった条約で、日本よりはかなりいい条件であった。その後、朝鮮は
似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政
ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。朝鮮側の認識では、日朝
修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えてい
たようだ。決して、近代的な国際関係の中の自国が置かれた立場、などと認識や考えて
方はしていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることは
なかった。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良い
と主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。日朝間で激しいやりと
りがあり、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来し、1880年12月には漢城に公使館を
設置することで長期滞在を既成事実化していた。これで朝鮮側も黙認せざるを得なくな
った。そして同年には、朝鮮側も東京に公使館を設置している。

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