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川中島周辺に住むスレ
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200: 09/24 09:33
  歴史の群像     121

 しかし、ここで注目なのは、李承薫が洗礼を受け、天主教経典の多くを持ち帰って来
て、帰国してキリスト教礼拝所を設立しのは1784年である。そしてこの海外との条約と
して最初の日朝修好条規が成立したのは1880年で、なんとほぼ百年かかっても尚属国の
地位がよい鎖国政策が良いとしたことである。日本の江戸幕府第!5代将軍徳川慶喜が
政権返上した大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)で明治天皇へ奏上し翌日
に天皇が奏上を勅許したのだが、日本より早く開国に向かっていたことである。さらに
明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出された憲法発布に至っては、1889年(明治
22年)である。日本の方がはるかに遅かった道のりである。こうした遅れた開国ともに
大日本帝国憲法が発布されて、国民に公表され、この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡
すという欽定憲法祭典の儀式が行われた。しかし、それでも日本の国民は新聞紙上で、
福澤諭吉などは、『時事新報』紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚
き好意を持って受け止めつつも、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源、または、
その沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭
ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは、内
治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したる事
なれども、今の日本にはかかる人民あることなし。」と批判し、人民の精神の自立を伴
わない憲法発布や政治参加には不安を抱いている。又、中江兆民も同じに、「我々に授
けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずしては、
まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや。」と書生の
幸徳秋水に溜息をついている。つまり福沢諭吉は、内治外交がうまくいかずに発布して
も民衆の議論から成ったわけでなく心配だ。といい中江兆民は、中身も知らず憲法が出
来たとお祭り騒ぎをするのは愚の骨頂である。とためいきをついた。とされる。またこ
の時フランスの人権法であるボアソナード民法は、帝国憲法と同時に一旦公布はされた
ものの、井上馨の転回や山田の政策と相まって民法典論争が生じ、施行されず廃止され
た。朝鮮国内では、冊封体制下で「属国」=「自主のない国」の認識もなく属国をよし
として大院君の「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張する
ことは売国行為である。」という旨の法の中で定まっていたのだ。この事は日本人には
まったく信じられない政治と環境である。国内で治安が乱れ、外国船に散々敗れても尚
属国としての生き方を選んだのだ。国情や仕組みはあろうが国民も西洋列強を目のあた
りしながらもそうだったのだ。更に日本が驚いたのは識字率が2割に留まり、日本のよ
うな私塾も学校も極めて少なく、農村に至っては言語さえも違っていた事だ。又遣唐使
の時代にはあったろう国璽の印や皇帝の印すらなく、すべての行政には中国の意向を聞
く行事が行われて国を動かしていた事であった。政治が正に祭りごとで、日本でいえば
宴会の式典であり神主にあたる式亊省の両班の取り決めに従うのである。両班というの
は文班と武班を総称した言葉で、彼らは農・工・商に従事せず、儒学だけ勉強して科挙
を経て何の制限もなく高級官職にも昇進する特権を持った。そして、官僚になれば土地
と禄俸を国家から受けて、地主階級を形成した。両班の中で李氏朝鮮の建国以来、続出
した各種の功臣達と高級官僚達は、様々の名目で支給された広大な土地を世襲・私有し
、徐々大地主になった。この経済的な基盤を土台にして、権門勢家の門閥を成した両班
も生じて、同じ両班でも文官は武官より優位を占めていたから、一般的な要職は勿論、
軍事要職までも文官が長官になれば、武官をその下に置いた。又彼らの下位の身分層に
、吏胥・駅吏・軍校などが在り、末端の行政・警察事務を担当し、直接平民たちを支配
する実権を握った。その為普通に生活は一般的にとても悲惨だった社会は、様々な波紋
を投げかけていた。

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