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川中島周辺に住むスレ
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210: 09/25 15:47
  新 柳川散歩道    ----3609

 令和時代になった。柳川の地は飛鳥・奈良時代には、江曲(えごん)の庄とされた。
瀬高の浜という意味である。今や不知火海とも言われなくなった有明海だが、本来長崎
側、つまり雲仙島原の方から見た名が有明海であり、日が昇る海であったのである。こ
こで柳川にはまだ多くの人は住んではいない。実は日本語さえもあまりなかったとされ
る。八女に残る山窟(サンカ)文字の多くはサンスリット語でありアラビア文字の類が
多い。いわゆる梵字の元である。九州王国と大和朝廷が並立して過ごしていた時代は、
文書からは、伝説の天皇時代であり空想の時代とされる。よく邪馬台国の卑弥呼の話が
多く語られるが、それは今の現代人のイメージで、既に紀元前百年頃は中国の始皇帝が
会計山で祝詞を上げた時に、時の方士である取り巻き博士達は、海を越えて東洋に島が
あって宝来山のそそり立つ山がある。そこには不老長寿の薬があります。取りに行きま
しょう。と盛んに誘っている。なぜこうした迷信が生まれたのか。そこにはお茶の文化
がある。八女茶の起源は公的には中国から仏教と共に取り入れられたとされている。が
最近のDNA研究や気候変動などで地球歴史をみると、日本の霧島や雲仙あるいは比島
つまりフィリッピンやマレーシアの火山での突然変異体ではないか。と思われ始めた。
実は日本の大和民族は紀元前五千〜三千年前から住んでいたらしい事が丸山古墳などで
わかっている。特に九州では島が出来上がり早々から来たようだ。桜島や阿蘇や雲仙が
もくもくと火山噴火する頃、興味に釣られてやってきた庶民がいたのではないか。と思
うのである。そうして九州に木々があって動物が繁殖していた頃は、当然のごとく漁師
や猟師がこの大地を駆け巡って暮らしていたであろう。と思われる。令和の元になった
万葉集は、飛鳥・奈良時代の書物で、すでに宮廷時代に移った頃だった。それでも日本
はやはり言葉を持たなかった。いや言葉はあったが文字も言葉も中国人とは違っていた
。朝鮮半島ではハングル文字があったように思われがちだが、それは違う、朝鮮半島の
統一文字はとうとう出来なかった。中世時代にも幾つか試みられチョハル文字やモンゴ
ル表記やキリギス文字などを取り入れられた為何一つ本物にならなかったのである。そ
の後属国平和主義では中国文字が統一された事で、朝鮮国も漢文漢語を常用として使用
されていた。日本が日韓併合で乗り込んだ時も、その漢文漢語さえも通じにくく識字率
3〜5%という分盲率だった。そこで国家予算をかけて学校建設に着手する一時は補助
によって6千以上の小中学校が作られたが、これで奴隷制度が崩壊すると反対運動をし
かけたのが両班たち地主であった。その頃はすでにコリアンカースト制が確立し使用人
は農奴とされて、売買対象の資産である奴隷あったからだ。つまりその奴隷が言葉学問
を収めてしまえばピラミッド頂点近くにいた8%の両班の地位は無くなる上に、平等や
法律ということでは、幼年期から農作業や子守りさせていたことが違法となったからだ
。朝鮮のこうした中国支配の武人政治から、日本では言葉を大事にした歌人政治として
和歌が生まれ当て字文化が花開いて日本を覆っていた。それは日本の声言葉に意味の似
た漢語を当て字として使ったものだった。その為フリガナとしてカタカナ、ひらがなが
生まれていた。

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