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嘘つきの奴ちょっとこい
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231: 10/24 05:00
   歴史の群像     190

よく韓国併合と簡単に表記されるが、事実は大きく異なっていて、借款受諾権益の協定
で1910年(明治43年)8月29日に、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて 大日本帝国が
大韓帝国を併合し、借款を代替わりし支配下に置いた宣言した事実からそういわれる。
1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が1897年に改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国
の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行となった。この事で大韓帝
国は関税収入が閔妃個人や宮廷費用で使われて、残るは農主や商人の税収しかなく、と
ても各国の要請の借款返済や公債償還には至らなく破綻した。ここで第一次日韓協約に
より目賀田氏が、韓国の財務顧問につく。民間銀行に過ぎない第一銀行を、外国が中央
銀行業務を行っている事を問題視して、韓国統監伊藤博文に相談。桂太郎ら日韓併合に
積極的な山県閥、第一銀行を経営する渋沢栄一と伊藤との調整の結果、併合直前の1909
年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金によって韓国銀行を設立
し、条例に基づく中央銀行・韓国銀行として位置づけ、第一銀行からの中央銀行業務を
移管した。そうして韓国銀行は併合後の1911年にも朝鮮銀行法に基づく特殊銀行として
朝鮮銀行と改称し、こうしてやっと、個人支出が是正されまともな国家会計が出来上が
ったのである。日韓併合時に、日本銀行券を朝鮮で流通させればよい。という意見が多
数あった。しかし「朝鮮経済の不安定さがそのまま内地に影響するのはまずい」と意見
でて、統一された。第一次大戦は1914年とされるが、既にオーストリアが1878年に
オスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領した時から世界は不穏な情勢
だったからだ。欧州でも1908年に正式に併合して、1908年から1909年にボスニア危機を
引き起こした。セルビア王国と援助国に「汎スラヴ主義」支持したロシア帝国を大きく
怒らせたからだ。バルカンでの平和合意は既に揺らいでいて、ロシアの政治弱体化の実
体に、ロシアの政治介入を強くして、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」状態だったの
である。1912〜1913年にかけて、バルカン同盟は徐々に解体していったが、オスマン帝
国との間で第一次バルカン戦争が勃発した。これが日本政府の朝鮮で危惧する状態であ
った。講和条約のロンドン条約ではアルバニア公国独立を果たしたが、ブルガリア王国
、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国などは領土を拡大して、民衆の不満
や世界的不公平を大きくした。1913年に遂にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し
、第二次バルカン戦争が引き起こされる。この33日間の戦争でブルガリアは大敗し、正
にドイツの様な、四面楚歌の状態になったのである。マケドニアの大半が、セルビアと
ギリシャに割譲され、南ドブルジャを、ルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカン
半島は不安定から、更に不確実に移って大戦争の兆しを抱えていく。第一次バルカン戦
争は、単純にバルカン同盟(ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリ
シャ王国)のオスマン支配の国々を、ヨーロッパ諸州(アルバニア、マケドニア、サン
ジャク、トラキア)から追い出していく行動だったが、オスマン帝国にチャタルジャと
ガリポリ半島しか残されなかった事に不満が募る。1913年に締結されたロンドン条約で
は黒海海岸の、メデアからエーゲ海海岸のエノスまでがバルカン諸国とトルコの境界と
定められ、エノス=メデア線の西がバルカン諸国に割譲されると定めた。占有物保有の
原則に基づいており、ここにアルバニア独立国が建国する結果となった。この時切り取
られた部分の国に不満が残った。こうした事を明治政府は事細かに分析研究し、欧米の
考え方の研鑽を積んでいった結果に、日本に五属調和と大東亜共栄圏構想が生まれて、
第一次、第二次世界大戦に向かっていったのである。ところが、中国・朝鮮は、その頃
何もしなかったまま国内紛争に明け暮れていたのだ。

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