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嘘つきの奴ちょっとこい
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   歴史の群像     191

 第一次バルカン戦争で勝ち、ブルガリアもセルビアも同じバルカン同盟(ブルガリア
王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国)の国で戦った。しかし戦争前
の協定で決めていた セルビアのアドリア海での主張(アルバニア北部の領有)を支持
しないとブルガリア代表が述べて、セルビアに警告を発する。ロンドン講和会議は一転
暗転した。ブルガリアが覇権にかまかけ、セルビアの戦前の北マケドニアに関する協定
の破棄したのだ。セルビア人は強く履行を要求した。それを守るために闘ってきたから
だ。ブルガリアは他列強がアルバニアの北部での獲得領土の放棄を要求してきたことで
、立腹してこれ以上の獲得領土の放棄を拒否した。こうしてセルビアは孤立するの避け
てギリシャと秘密裏に防衛同盟を締結、両国間の占領区の境界をそのまま国境と定めた
上で、ブルガリアかオーストリア=ハンガリー帝国が、侵攻してきた場合の同盟を定め
た。これによって、ギリシャは同盟締結の時点のマケドニア占領区を保障することにな
って、セルビアの獲得した北マケドニア紛争に巻き込まれる形となったのである。この
形は紀元前の都市国家群の乱立したエーゲ文明から変わらず続けられてきた領土と民族
の紛争の姿であった。そして今も同じに、例えば米国がクルド人と同盟軍としてシリア
のIS排除に命を賭して戦ったが、いまや漁夫の利を得たトルコ軍がロシアと共に国境
封鎖して安全地帯などと称して勝手な軍事行動をしている。かつても、ブルガリアでも
ギリシャのセルビア接近に危惧し、ギリシャと協定を締結、両国の占領区の境界を定め
、南マケドニアの実質的支配を黙認し、一方でルーマニア問題も抱えてブルガリア領は
、混沌とした。マケドニアのラテン系のヴラフ人の権利が脅かされ、ルーマニアに割譲
を拒否していたまま過ぎた。ルーマニアは武力で侵攻すると脅されたが、ロシアが仲介
してそれを防いでいた。しかし、こうした事は1912年ブルガリアの民族主義が、ツァー
ルのフェルディナンド1世やブルガリア軍部が述べるように、非常に熱狂的民衆を産み
1878年過激主義的なサン・ステファノ条約の内容を、さらに越えた過激さを生んでしま
い、東トラキア、西トラキア、テッサロニキを含むマケドニア全体、エディルネ、コン
スタンティノープルまで含まれた大ブルガリア帝国の支配を可能にし、ブルガリアの中
で、指導部の早期から非現実的な思考に欠いた夢を引き起こし更なる紛争を起こしてい
る。マケドニアで主にセルビア軍とブルガリア軍の間の小競り合いが続く中、ロシアの
皇帝ニコライ2世はスラヴ人の同盟国を失いたくなかった。その為、紛争を阻止しよう
と大きな努力と奔走をしていたが、仲介するも双方のロシアへの返答は条件が多くあり
、焼け石に水状態だった。特にブルガリは国土の豊かさから最後通牒の様相を呈して、
怒ったロシア外交官はブルガリアが既にセルビアとの戦争を決めたと結論付けて、皇帝
に報告した。結局、ロシア皇帝は仲介を取りやめ、1902年のブルガリア同盟条約を取り
消して、これまで35年間もかけて、多くの人命、資金と外交資本を注いだバルカンの
同盟は瓦解したのである。こうしてブルガリアはロシアがオーストリア=ハンガリーの
拡張主義を防ぐために行った数々の努力は打ち壊された。ブルガリアの目的はセルビア
軍とギリシャ軍を撃破しつつ、列強が介入して停戦するまでにできるだけ占領地域を広
げることだった。こうして宣戦布告なき戦いを始め、物量の優勢を確保すべく、ブルガ
リア軍全軍が戦闘に参加した。しかし欲望のブルガリア計画は各地で頓挫する。今の中
東のトルコのように、漁夫の利のみや八方美人で内政に強硬な独裁を敷いた国の結果で
ある。しかし米国も欧州も日本も、それを放って置けないのが国際貿易や国際協業の仕
組みである。ここに戦争の苦難がある。このトルコとロシアの台頭はきっと良くない。


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