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嘘つきの奴ちょっとこい
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233: 10/24 20:17 ID:H.
   歴史の群像     192

 この第二のバルカン戦争は後のサラエボ事件と同じ構図だった。ブルガリアの指導部
の間違いは、何ら裏付けのない強気の進軍である。そもそも領土や領地は領民のもので
あって領主のものではない。その意識がこの時代になく、第一次バルカン戦争の開戦の
時点でブルガリア軍は59万人その内4万人弱が失われたが6万人を占領地から徴兵し
て補充してまでも国の威信で戦っている。しかし、かつても今回も、行動軍は35万人
しかいなく残り20万は兵站の義勇軍を足してももともと国民軍や国境警備隊だった。
その中の6万人は敵地の徴収兵であり新人で統率もなく数のみだった。更に軍隊にして
も、国境の方々で国境警備の必要があり、兵といえども動ける人数は限られた。新兵を
いれて57万人寄せても、戦争に必要な兵站物資も不足して、ライフル数も38万丁し
かなく、取り合えず3個大隊(11万人x3)を侵攻させた形だった。セルビア王国軍
は35万人・ギリシャ軍は8個師団と1個騎兵旅団(117,861人)と大砲176門もあって
、これだけでも全く勝つ見込みも進軍も不可能の中だった。更にこれを見越して動いて
いたのが裏側のルーマニア軍で南ドブルジャを奪取すべく1913年7月5日に軍を動員し、
10日にブルガリアに宣戦布告した。つまりブルガリアはこの3者に囲われて追われる中
で戦う事になったのだ。更に先の大戦で割譲を許したオスマン帝国が抵抗が薄いのを知
って乱戦に潜り込み、ブルガリアに割譲した領土の奪還をすべく侵攻を決定した。侵攻
の主な目標はエディルネの一限定地域と思った進軍であろうが、周囲の本格的介入戦争
では軍事大国をもつぶした。そこでこの窮地にロシアの介入を求めた。ルーマニア軍が
ソフィアに迫る中で、しかし、ロシアは行動を起こさなかった。ブルガリアでは首相の
ダネフが辞任し、フェルディナンド1世は、代ってラドスラホフを首相に任命し、親独
反露政権を決定した。この時の援軍のないしこりはこの後の第一次大戦まで続く。ここ
でセルビア首相ニコラ・パシッチはブルガリア代表をセルビア領ニシュで、同盟国との
直接交渉に招いた。しかし、セルビアもギリシャも攻勢であり講和を急がず、フェルデ
ィナンド1世はイタリア大使を通じて、カロル1世に親書を送り、ルーマニア軍がよう
やくソフィアを前にして停戦要請の為の進軍を停止した。ルーマニアではブカレストで
交渉を行うことを提案し、代表たちは鉄道で戦地ニシュから交渉地ブカレストに移動し
交渉に至った。しかしここで、ルーマニア側が先の敵国だったオスマン帝国んは参加を
拒否していたため、ブルガリアはオスマン帝国と別個に交渉しなければならなかった。
ブルガリアは、早々と南ドブルジャをルーマニアに割譲することに同意し、これによっ
て戦争停止の主目的を達成した。ルーマニアでは、この事でブカレストでの講和交渉に
積極的に仲介役を務めることとなる。この第二次バルカン戦争の結果は、セルビア国を
ドナウ川南側で軍事最強国に成長させた。ヴァルダル中部やノヴィ・パザルの東半分を
手に入れ、フランスから借款で賄われた軍事投資はここで結実した。領土面積は18,650
平方マイルから33,891平方マイルに拡大、人口は150万以上も増えた。しかしながら
、この新しい領土の住民は、逆に戦後には少数派として圧迫され、嫌がらせを受けた。
彼らは「文化レベルが低すぎる」として市民権がなく投票権を拒否され、実際にこの領
域での多数を占めたセルビア人以外の住民達を、国政から締め出す手だてがセルビアで
は行われた。新聞では大々的に「新セルビア人」がトルコ治下で、より多くの政治権利
を有していたと指摘し糾弾され、トルコ風の建物、学校、浴場、モスクが破壊され続け
た。1913年イギリスの副領事が、系統的な脅迫、恣意的な拘留、殴打、強姦、村への放
火、虐殺などがセルビア人併合地で行われた。と批判するが、セルビア政府はこれらの
問題の調査や阻止には一切興味を持たなかった。それだけ治世のない国だった。長い間
の戦争で貧困の中、領主の武力による取り立ての国で、教育の無さの結果その後も紛争
暴動が絶える事はなかった。

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